表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
working!  作者: Libra
7/8

七品目

 新しい生活に胸を膨らませる高校一年生、月見里春歌は、一枚のチラシを頼りにレストラン《はいから亭》の扉を叩いた。そこは、春の穏やかな陽光とは裏腹に、個性豊かな面々が支配する、少し風変わりな場所だった。

 四月。

 柔らかな陽射しが街の屋根を銀色に染め、空は春らしくぼんやりと霞んでいた。アスファルトの上には新しい季節の匂いが満ち、駅前には真新しい制服姿の学生たちが溢れている。

 月見里春歌もその一人だった。

 紺のブレザーに赤いリボン、まだ袖の折り目が取れない制服をきっちり着こなし、胸には期待と不安の入り混じった鼓動が響いていた。

 「……ここ、だよね」

 彼女は自転車を駐輪場に滑り込ませ、ハンドルにぶら下げたカバンから一枚のチラシを取り出した。

 “はいから亭 スタッフ募集”。

 少し古びた紙には、レトロなフォントでそう書かれていた。

 住所を確かめて、春歌は頷く。

 「間違いない!」

 彼女は制服のネクタイを指先で直し、息を整えて扉を押した。

 はいから亭の昼下がりは、穏やかで、少し眠たげだった。

 ランチタイムの喧騒が過ぎ去り、カップの縁から立ち上るコーヒーの香りが店内をゆるやかに満たしている。窓際では商談中らしきスーツ姿の二人組が静かに話し、奥の席では老夫婦がケーキを分け合っていた。

 春歌はレジまで歩き、呼び鈴に手を伸ばす。だが、その動作は途中で止まった。

 視線の先――カウンターの奥に、金髪で褐色肌の女性が立っていた。

 振袖に袴という奇妙な出で立ち。だがその姿は不思議と店の空気に馴染んでいて、彼女の手元では、砂の上で小さな銅のポットが回されていた。

 ジェズヴェ――トルコのコーヒーポットだ。

 熱された砂の上で回すと、すぐにコーヒーがふつふつと沸き立つ。

 女性――佐伯絵恋は、しなやかな手つきで香り高いコーヒーを小さなカップに注いだ。そして再び砂の上で回すと、不思議なことにまた泡が立つ。

 「すごい! 魔法みたい!」

 春歌が思わず声を上げると、絵恋は肩をびくりと震わせた。

 「な、なんだ?」

 「何も入れてないのに、なんでまた沸くんですか!?」

 驚いたように顔を上げた絵恋の視線の先には、真新しい制服姿の少女――春歌が立っていた。

 「あ、アルバイトの面接で来ました、月見里です!」

 「……聞いてないが?」

 絵恋は眉をひそめ、カウンターの奥にいる男へと視線を送る。

 エスプレッソマシンを操作している悠馬が、にこにこと笑いながらこちらに手を振った。

 「――あの野郎」

 絵恋は悟る。伝え忘れだ。

 (後でシメる)

 彼女はひとつ息をつき、春歌の方を見た。

 「とにかく、バックヤードに案内するから少し待ってな」

 そう言いつつも、ジェズヴェを回す手は止めない。その手元から立ち上る香ばしい香りに、春歌の視線は釘付けになっていた。

 絵恋は三度コーヒーを沸かし、泡の頂を慎重にカップへと注ぐ。

 「八卓のトルココーヒー上がり。面接の案内をするから少し抜けるぞ」

 「了解です」

 中年のウェイトレスが受け取り、穏やかに店内へ戻っていった。

 「さ、着いてきな」

 絵恋が一言だけ言い、スタスタと歩き出す。

 春歌がその後に続くと、通りすがりに「鈍い音」が響いた。

 悠馬の背後で絵恋の拳が軽くめり込んだ音だったが、春歌は気づかないふりをした。

 「ここで待ってな」

 案内されたのは、従業員休憩室の奥にある小さな事務室だった。

 休憩室を通る途中、テーブルに突っ伏して昼寝している男の姿が目に入る。皿にはカレーの残り香。のんびりとした空気が漂っていた。

 「この椅子を使え」

 絵恋はパイプ椅子を一脚持ってきて、春歌を座らせ、一枚の紙を差し出した。

 「バイト面接用の記入用紙だ。そこの席で書いてくれ」

 春歌は頷き、ペンを手に取った。

 しかし――。

 「お待たせして申し訳ありません」

 書き始める前に、事務室の扉が開き、悠馬が入ってきた。

 「まだ書き始めてもいません」

 「おっと、そうでしたか。じゃあ書いてからで大丈夫ですよ。その間に履歴書をお預かりしても?」

 春歌が差し出した履歴書を手に取ると、悠馬の顔が少しだけ引きつった。

 「月見里春歌やまなし うららさん、ですね。……高校一年生?」

 「はい。正確には、ついさっき高校生になりました」

 「へ?」

 「今日が入学式です」

 「あ、そうなのね……」

 悠馬はニコニコ笑いながら相槌を打つ。どこか掴みどころのない雰囲気の男だった。

 春歌はそんな悠馬をまじまじと見つめた。

 背は普通、年も中年に差しかかった感じ。だがその笑顔は終始変わらない。

 「……あの、なにか?」

 視線に気づいた悠馬が苦笑する。

 「いえ、なんでもありません」

 「では、用紙が書けたら声をかけてくださいね」

 そう言いかけたとき、机の上のスマホが振動した。

 「はい、御影です……あ、ご無沙汰しております……え?今ですか? 少々お待ち下さい」

 悠馬はそそくさと退室してしまった。

 「……あの店長、チョロそう」

 春歌は肩をすくめ、再びペンを動かし始めた。

 ドアが再び開いたのは、悠馬が出てからすぐだった。

 「副店長の佐伯だ。店長が急用で出たから、代わりに私が面接をする」

 入ってきたのは絵恋だった。

 「え? 金髪ギャルが副店長?」

 思わず口からこぼれた一言に、絵恋の目が細くなる。

 「……今なんて言った?」

 「い、いえっ、なんでもないです!」

 「書類、まだ書いてないのか?」

 「書こうとしたら人が来るんです」

 「まぁいい。まずは書け」

 短いやりとりのあと、静かな時間が流れた。

 壁の時計がコトコトと音を刻み、外の喧噪が遠くで響いている。

 十分ほど経ったころ、再びドアが開く。

 悠馬が戻ってきた。

 「おお、進んでますね。……え?」

 事務室では、春歌と絵恋が向かい合い、同時に眉間に皺を寄せていた。

 空気は重く、悠馬は思わずおずおずと声をかける。

 「あのぅ……なにかありました?」

 絵恋が腕を組み、履歴書を指差す。

 「なぁ、この学校って確か、バイトの許可証が必要じゃなかったか?」

 「ああ、学校からの承諾書をもらって、こっちで記入して返す形式ですね」

 「それが、ないんだよ」

 「……なるほど」

 悠馬は眉を寄せ、春歌を見る。

 「月見里さん、学校からの書類がないと、こちらでは働いていただけないんです」

 「そこを、なんとか!」

 春歌が身を乗り出す。

 「そうは言ってもねぇ……」

 悠馬が困ったように絵恋へ目を向ける。

 「やる気はある。採用したいくらいだ」

 絵恋がぽつりと呟く。

 悠馬は小さく笑い、「それなら」と続けた。

 「書類が揃った段階で正式に採用、ということでどうですか?」

 「……内緒で働くのは、ダメですか?」

 春歌の声は小さく、どこか必死だった。

 「それは……無断バイトが発覚したケースがありましてね。うちはそういうの、絶対お断りなんです」

 春歌はなおも食い下がる。だが、悠馬が静かに言葉を添えた。

 「発覚した子、退学処分になったそうですよ」

 その言葉で、春歌の表情が固まる。

 やがて、ため息をひとつ。

 「……じゃあ、ちゃんと学校からもらってきます」

 「うん、それが一番だね」

 悠馬はいつもの笑顔で頷き、絵恋もわずかに口元を緩めた。

 面接を終え、春歌が店を出たときには、夕方の風が少し冷たくなっていた。

 西日に照らされるはいから亭のガラス戸を振り返り、春の風に混じって、コーヒーの香りがほのかに漂った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ