七品目
新しい生活に胸を膨らませる高校一年生、月見里春歌は、一枚のチラシを頼りにレストラン《はいから亭》の扉を叩いた。そこは、春の穏やかな陽光とは裏腹に、個性豊かな面々が支配する、少し風変わりな場所だった。
四月。
柔らかな陽射しが街の屋根を銀色に染め、空は春らしくぼんやりと霞んでいた。アスファルトの上には新しい季節の匂いが満ち、駅前には真新しい制服姿の学生たちが溢れている。
月見里春歌もその一人だった。
紺のブレザーに赤いリボン、まだ袖の折り目が取れない制服をきっちり着こなし、胸には期待と不安の入り混じった鼓動が響いていた。
「……ここ、だよね」
彼女は自転車を駐輪場に滑り込ませ、ハンドルにぶら下げたカバンから一枚のチラシを取り出した。
“はいから亭 スタッフ募集”。
少し古びた紙には、レトロなフォントでそう書かれていた。
住所を確かめて、春歌は頷く。
「間違いない!」
彼女は制服のネクタイを指先で直し、息を整えて扉を押した。
はいから亭の昼下がりは、穏やかで、少し眠たげだった。
ランチタイムの喧騒が過ぎ去り、カップの縁から立ち上るコーヒーの香りが店内をゆるやかに満たしている。窓際では商談中らしきスーツ姿の二人組が静かに話し、奥の席では老夫婦がケーキを分け合っていた。
春歌はレジまで歩き、呼び鈴に手を伸ばす。だが、その動作は途中で止まった。
視線の先――カウンターの奥に、金髪で褐色肌の女性が立っていた。
振袖に袴という奇妙な出で立ち。だがその姿は不思議と店の空気に馴染んでいて、彼女の手元では、砂の上で小さな銅のポットが回されていた。
ジェズヴェ――トルコのコーヒーポットだ。
熱された砂の上で回すと、すぐにコーヒーがふつふつと沸き立つ。
女性――佐伯絵恋は、しなやかな手つきで香り高いコーヒーを小さなカップに注いだ。そして再び砂の上で回すと、不思議なことにまた泡が立つ。
「すごい! 魔法みたい!」
春歌が思わず声を上げると、絵恋は肩をびくりと震わせた。
「な、なんだ?」
「何も入れてないのに、なんでまた沸くんですか!?」
驚いたように顔を上げた絵恋の視線の先には、真新しい制服姿の少女――春歌が立っていた。
「あ、アルバイトの面接で来ました、月見里です!」
「……聞いてないが?」
絵恋は眉をひそめ、カウンターの奥にいる男へと視線を送る。
エスプレッソマシンを操作している悠馬が、にこにこと笑いながらこちらに手を振った。
「――あの野郎」
絵恋は悟る。伝え忘れだ。
(後でシメる)
彼女はひとつ息をつき、春歌の方を見た。
「とにかく、バックヤードに案内するから少し待ってな」
そう言いつつも、ジェズヴェを回す手は止めない。その手元から立ち上る香ばしい香りに、春歌の視線は釘付けになっていた。
絵恋は三度コーヒーを沸かし、泡の頂を慎重にカップへと注ぐ。
「八卓のトルココーヒー上がり。面接の案内をするから少し抜けるぞ」
「了解です」
中年のウェイトレスが受け取り、穏やかに店内へ戻っていった。
「さ、着いてきな」
絵恋が一言だけ言い、スタスタと歩き出す。
春歌がその後に続くと、通りすがりに「鈍い音」が響いた。
悠馬の背後で絵恋の拳が軽くめり込んだ音だったが、春歌は気づかないふりをした。
「ここで待ってな」
案内されたのは、従業員休憩室の奥にある小さな事務室だった。
休憩室を通る途中、テーブルに突っ伏して昼寝している男の姿が目に入る。皿にはカレーの残り香。のんびりとした空気が漂っていた。
「この椅子を使え」
絵恋はパイプ椅子を一脚持ってきて、春歌を座らせ、一枚の紙を差し出した。
「バイト面接用の記入用紙だ。そこの席で書いてくれ」
春歌は頷き、ペンを手に取った。
しかし――。
「お待たせして申し訳ありません」
書き始める前に、事務室の扉が開き、悠馬が入ってきた。
「まだ書き始めてもいません」
「おっと、そうでしたか。じゃあ書いてからで大丈夫ですよ。その間に履歴書をお預かりしても?」
春歌が差し出した履歴書を手に取ると、悠馬の顔が少しだけ引きつった。
「月見里春歌さん、ですね。……高校一年生?」
「はい。正確には、ついさっき高校生になりました」
「へ?」
「今日が入学式です」
「あ、そうなのね……」
悠馬はニコニコ笑いながら相槌を打つ。どこか掴みどころのない雰囲気の男だった。
春歌はそんな悠馬をまじまじと見つめた。
背は普通、年も中年に差しかかった感じ。だがその笑顔は終始変わらない。
「……あの、なにか?」
視線に気づいた悠馬が苦笑する。
「いえ、なんでもありません」
「では、用紙が書けたら声をかけてくださいね」
そう言いかけたとき、机の上のスマホが振動した。
「はい、御影です……あ、ご無沙汰しております……え?今ですか? 少々お待ち下さい」
悠馬はそそくさと退室してしまった。
「……あの店長、チョロそう」
春歌は肩をすくめ、再びペンを動かし始めた。
ドアが再び開いたのは、悠馬が出てからすぐだった。
「副店長の佐伯だ。店長が急用で出たから、代わりに私が面接をする」
入ってきたのは絵恋だった。
「え? 金髪ギャルが副店長?」
思わず口からこぼれた一言に、絵恋の目が細くなる。
「……今なんて言った?」
「い、いえっ、なんでもないです!」
「書類、まだ書いてないのか?」
「書こうとしたら人が来るんです」
「まぁいい。まずは書け」
短いやりとりのあと、静かな時間が流れた。
壁の時計がコトコトと音を刻み、外の喧噪が遠くで響いている。
十分ほど経ったころ、再びドアが開く。
悠馬が戻ってきた。
「おお、進んでますね。……え?」
事務室では、春歌と絵恋が向かい合い、同時に眉間に皺を寄せていた。
空気は重く、悠馬は思わずおずおずと声をかける。
「あのぅ……なにかありました?」
絵恋が腕を組み、履歴書を指差す。
「なぁ、この学校って確か、バイトの許可証が必要じゃなかったか?」
「ああ、学校からの承諾書をもらって、こっちで記入して返す形式ですね」
「それが、ないんだよ」
「……なるほど」
悠馬は眉を寄せ、春歌を見る。
「月見里さん、学校からの書類がないと、こちらでは働いていただけないんです」
「そこを、なんとか!」
春歌が身を乗り出す。
「そうは言ってもねぇ……」
悠馬が困ったように絵恋へ目を向ける。
「やる気はある。採用したいくらいだ」
絵恋がぽつりと呟く。
悠馬は小さく笑い、「それなら」と続けた。
「書類が揃った段階で正式に採用、ということでどうですか?」
「……内緒で働くのは、ダメですか?」
春歌の声は小さく、どこか必死だった。
「それは……無断バイトが発覚したケースがありましてね。うちはそういうの、絶対お断りなんです」
春歌はなおも食い下がる。だが、悠馬が静かに言葉を添えた。
「発覚した子、退学処分になったそうですよ」
その言葉で、春歌の表情が固まる。
やがて、ため息をひとつ。
「……じゃあ、ちゃんと学校からもらってきます」
「うん、それが一番だね」
悠馬はいつもの笑顔で頷き、絵恋もわずかに口元を緩めた。
面接を終え、春歌が店を出たときには、夕方の風が少し冷たくなっていた。
西日に照らされるはいから亭のガラス戸を振り返り、春の風に混じって、コーヒーの香りがほのかに漂った。




