三品目
ハロウィンが街を包む十月。浮き足立つ人の波の中で、はいから亭だけはひっそりと静まり返っていた。何気ない翠の問いが、誰も触れようとしなかった店の過去を呼び覚ます――。
季節は十月、暦の上では秋である。
朝晩は涼しくなったとは言えど、日中はまだ暑い日もある。
慣れというものは恐ろしいもので、翠のバイトもすっかり続いていた。
とある日曜日。
百円ショップに文房具を買いに行った翠は、店の中央に設けられたハロウィンの特設コーナーの前で足を止めた。
棚には黒とオレンジの紙飾り、かぼちゃのランタン、仮装グッズ。
子供が仮装してお菓子をねだる風習。
日本では大人たちがコスプレを楽しみ、警察の機動隊までが整理に追われるほどの盛況。
どこを見てもハロウィン関連のイベント予告ばかりが目に入る。
けれど、なぜか――はいから亭にはハロウィンのハの字もない。
その日の夕方からのシフト。
コーヒーを準備しながら、翠はペーパーナプキンを用意している伊吹に話しかけた。
「どこの店もハロウィンのイベント予告があるのに、なんでうちの店にないんですか?」
「………」
返事がない。
振り向いてみると、伊吹は真っ青な顔で視線をそらしていた。
「去年はあったのよね。今年はハロウィンフェスはしないと思う」
伊吹はそこまで言って、足早に立ち去っていった。
「白身魚のフライあがったよー」
厨房口から充が声をかけてくる。皿にはフライとサラダ。湯気が立ちのぼる。
「足立さん、うちの店はハロウィンのイベントをしないんですか?」
翠が聞くと、充も一瞬で顔を真っ青にした。
「う……うん。やらないと思う……」
それだけ答えて、すぐにキッチンの奥へ引っ込んでいった。
(なに?)
翠はお盆にライスセットの用意をしながら、腑に落ちない表情を浮かべた。
「おい、翠」
背後から声がする。絵恋だった。
「それを運んだら休憩に入れ。足立に賄いを作ってもらえ」
「副店長……」
「うちの店はハロウィンはしない」
翠の質問を予感していたように遮って答えると、絵恋は厨房口で伝票を確認しながらトレイにコーヒーを乗せた。
「今後、ハロウィンの事は誰にも聞くな。分かったな」
その言葉には、妙に重い響きがあった。
絵恋は短く言い残してホールへ出ていく。
「なんなんだよ……」
翠は小さく呟いた。
頭の中では、聞けば聞くほど深まる疑問だけが残っていた。
カレーライスの湯気。
香辛料の匂いが漂う休憩室に、翠は充の作ってくれた賄いを運び入れた。
テーブルの向かいでは和影がスマホをいじっている。
「なぁ、上総」
「なに?」
和影は画面から目を離さずに返す。
「ハロウィンの話をすると、みんな顔色変えるんだけどさぁ……」
和影は表情を変えず、短く答えた。
「ああ。思い出したくもない」
その声には毒気があった。
「長宗我部、その話は絶対にするなよ。店長の前でしたら命の保証はできないからな」
「はぁ?」
翠は思わずスプーンを止めた。
(なんでそんな話になるの……?)
湯気の立つカレーを口に運びながらも、疑問は消えなかった。
「ご馳走様。足立さん、美味しかったです」
食器を返しに厨房に戻ると、充が笑顔で「ありがとう」と応えた。
「休憩終わり? これ、四卓さんのナポリタン」
悠太が皿を差し出す。トマトソースの香りが立ちのぼり、湯気が顔にあたる。
翠は伝票を確認し、トレイにタバスコとパルメザンチーズを乗せた。
「あ、そうだ。河野さん」
「ん? なに?」
悠太はいつもの調子で笑う。
「うちの店ではハロウィン、何かしないんですか?」
「あぁ、それね」
悠太は笑いながら言った。
「今年は誰も言わないね。なんでだろうね?……」
「おい、河野」
充が袖を引っ張って止める。
が、その瞬間、翠の背後から冷たい気配がした。
絵恋が立っていた。
怒りを押し殺したような低い声で言う。
「誰にも聞くなと言ったはずだ」
十分後。
休憩室の机の前では、翠がガタガタ震えていた。絵恋の前でひたすら小さくなる。
「……ごめんなさい。もう聞きません」
腰に手を当て、呆れた顔で絵恋がため息をつく。
その横で、悠太が机に突っ伏して悶絶していた。
そこへ、ちょうど出勤してきた渚が顔を出す。
「なにこの修羅場?」
渚が呆れ顔で聞いた。
「てか、なんでハロウィンは何もしないの?」
渚の質問に、絵恋は渚を一瞥してから、苦しげな悠太を睨む。
「去年は誰かさんの提案で、ハロウィンフェスはスタッフも仮装しようって話になったんだ」
「え、なにそれ! めっちゃ楽しそうじゃん!」
渚の声が弾む。
「……調子に乗りすぎたスタッフが一人いた」
絵恋の視線が、再び悠太に向けられる。
「そのとき厨房のスタッフは衛生面の問題から、仮装はしないことになってた。なのに、厨房のスタッフの一人が勝手に仮装して調理を始めた。たまたまそれを客に見られてね、その場でクレームになったんだ。しかも店長は他店舗の応援に行っていて、事態を知るのが遅かった……ここまで言えばわかるでしょ」
「……あぁ……はい」
翠が力なく返す。
「事態を把握した店長が飛んで戻ってきて……察しての通りだった」
絵恋の目が遠くを見た。
悠太は机に突っ伏したまま、弱々しく声を上げる。
「他の連中は覚えてた。っていうか、忘れたくても忘れられない修羅場だったのに……その元凶が忘れてたとはな……」
絵恋が悠太の頭を軽くこづく。
「それがハロウィンフェスをしない理由。何があっても店長の前で言うな。本当に何が起こるか分からない」
「分かりました……」
翠は震える声で答えた。
絵恋が休憩室を出て行く。
残された空気は重い沈黙で満たされていた。
渚がそっと翠に耳打ちする。
「ってか、河野さんはなんで悶絶してんの?」
「みぞおちを狙ったらしいんだけど、副店長の蹴りが股間にクリティカルヒットしたの」
「あぁあ……それは……あたしらには分かんない痛みだね」
渚は苦悶の表情を浮かべる悠太を見た。




