二品目
夏休み、高一の翠はお小遣いを稼ぐため、大正ロマン風のレストランでバイトを始めた。だが、そこはギャル副店長、ドM料理人、そして姿なき謎の店長が支配する異常な職場だった。
絵恋は更衣室の扉を開け、新しい制服を抱えて出てきた。
白いフリルが照明を反射してきらりと光る。彼女の金髪が淡く揺れ、視線を引きつけた。
「サイズは合ってると思うけど、合わなかったら言いな。着方は更衣室の壁に貼ってある。確認して、着替えたら出てきな」
冷たくも淡々とした声。
翠は「はい」と答え、制服を受け取る。
更衣室の中は石鹸と柔軟剤の香りがほのかに漂っていて、心が少しだけ落ち着く。
鏡の前で制服を広げ、ゆっくりと袖を通した。
(……かわいい)
大正時代を思わせる袴に、白いフリルエプロン。まるで洋館の給仕のようだ。
鏡に映る自分が、ちょっと背伸びした別人みたいに見える。
(でも……あのギャルっぽい副店長さんがこれ着てるの、やっぱ違和感すごいな)
苦笑したその時だった。
「その制服、大正ロマンを意識してるんだって。気をつけなよ。鼻息だけで寄ってくる、口臭やばめなエロ男もいるし」
唐突な声に翠は飛び上がった。
心臓が喉までせり上がる。
「び、びっくりした……!」
振り向くと、黒髪を巻いた小柄な少女が立っていた。
笑顔なのに、どこか底意地の悪そうな輝きを宿している。
「二組に転入した長宗我部さん、だっけ?」
「そうだけど……?」
「やっぱー。うち、一組の松本渚。まさかバイトで会うとか、マジでウケるんだけど」
渚は腕を組みながら翠をじろじろと見回した。
その視線が胸元で止まり、唇がにやりと動く。
「ちょい、小さいっしょ、それ」
「な、なにが⁉︎」
思わず食いついた瞬間――ドアがガン! と開いた。
絵恋だ。制服姿のまま、冷たい目で二人を見つめている。
「着れたか?……ん、渚か」
「絵恋先輩〜、また怖い顔してるし〜」
渚はにやにやしながら絵恋の胸元に手を伸ばした――が、
次の瞬間、乾いた音が更衣室に響いた。
「ぐぇっ!」
見事なカウンターが渚の頬を捉える。
その勢いで渚は床に沈んだ。
「単純セクハラ女。さっさとホール行け」
絵恋は髪を払って吐き捨てるように言った。
渚は頬を押さえながらも、「マジで痛い〜……でも悪くな〜い」などと意味不明なことを呟き、よろよろと立ち上がる。
(いやいや、これ通報レベルじゃない⁉︎)
翠はただ唖然とするしかなかった。
「お前も仕事覚えないで女漁りしてたら、同じ末路を辿るぞ」
絵恋の警告も、翠の頭には届かない。
ただ、渚の「痛いけど愛を感じた〜!」という奇妙な声だけが耳に残った。
休憩室に出ると、空気が一気に落ち着く。
漂うコーヒー豆の香りと、鉄板で焼いたパンの匂い。
「今日面接に来た人だね?」
奥のテーブルでは、調理服の青年が紙コップを手に休憩していた。
「よろしくね。僕、足立充。キッチン担当だから」
やわらかい笑顔。耳元のピアスが小さく光る。
爽やかな印象で、翠は少しだけ安心した。
「長宗我部翠です。よろしくお願いします」
軽く頭を下げたそのとき、賄い皿を片手にもう一人が入ってきた。
「お、新人? 俺、高野悠太。足立と同じでキッチンね」
軽い調子で手を上げたその背後から、冷気のような声が飛ぶ。
「遅刻しておいて、いきなり賄い休憩とはいいご身分だな」
振り返るより早く、絵恋の蹴りが悠太の背に炸裂した。
鈍い音が響き、悠太はテーブルに顔面から突っ込む。
「ぐえぇっ……!」
絵恋は表情一つ変えず、事務室へ去っていった。
翠は開いた口が塞がらない。
(うそでしょ……? これが普通の職場?)
放心した翠の耳に、事務室の中から絵恋の声が聞こえた。
「新人の教育は誰にするか決めた? 上総に連絡した? ……じゃああいつにやらせて」
誰かと話しているが、相手の声は一切しない。
その静けさが、妙に怖かった。
「あ、店長いるんだ、今日」
背後から声がして、翠は心臓が飛び出しそうになる。
振り返ると、細身の青年が立っていた。表情は凪のように動かない。
「上総和影。店長から新人教育を頼まれた」
「え、あ、よろしくお願いします……」
「ついてきて」
ぶっきらぼうに歩き出す彼の背中を、翠は慌てて追う。
事務室の中からは、まだ絵恋の声だけが漏れていた。
「上総さん、店長に挨拶とかしなくていいんですか?」
「必要ない」
和影は足を止めて振り返った。
無表情のまま、淡々と告げる。
「生き残れば、そのうち会う」
「え……? 生き残るって……?」
翠は思わず聞き返すが、彼はそれ以上何も言わない。
ホールに出ると、ランチの喧騒はすでに過ぎ去っていた。
陽の光が差し込む木の床がきらりと光り、カウンターでは湯気を上げるコーヒーマシンが低く唸っている。
ペーパーナプキンを分けていた長髪の女性が、ふと顔を上げた。
「あ、新しい子? 私は渡貫伊吹。大学生」
「長宗我部翠です。よろしくお願いします」
「この店でマトモなの、私くらいだから。何かあったらすぐ言ってね」
伊吹はにこりと笑って、キッチンの方へ歩いて行った。
(自分で言っちゃうんだ……)と、翠は内心でツッコむ。
その瞬間――「ガンッ!」と、金属を叩く鈍い音。
キッチンの方を見やると、伊吹がフライパンを握っていた。
「キモいんだよ!」
怒声。
床には男が一人、倒れている。足立が慌てて伊吹をなだめていた。
「今の、良かったです……」
倒れた男が微笑んで言った。
翠の顔が引きつる。
「気にしなくていい。あいつ、ドMだから。殴られると喜ぶんだ」
和影の淡々とした説明に、翠は耳を疑う。
「あ、新人さん? キッチン担当の相川林太郎です。大学生です。よろしく〜」
顔に赤い跡をつけながら笑顔を見せる林太郎。
翠は一歩下がり、距離を取った。
(やっぱキモい……!)
そこへ、絵恋が腕を組んで現れる。
「むしゃくしゃしたら殴っていいぞ。あいつなら喜ぶ」
「いつでもどうぞ」
林太郎は満面の笑みを浮かべた。
翠の思考はもはや停止寸前だ。
――姿の見えない店長。
制服ミスマッチなギャル副店長。
突然胸に手を伸ばすセクハラ同級生。
“まとも”と自称する割には過激な大学生。
無表情すぎるウェイター。
ドMの料理人。
まともなのは誰一人いない。
(私……この店で、生き残れるの?)
胸の奥で小さなため息をつきながら、翠は制服の裾を握った。
その指先に伝わる布のざらりとした感触が、妙に現実的だった。
――こうして、長宗我部翠のバイト初日が幕を開けた。




