第三話:新しい日常と小さな波紋
※こちらの作品はコメディ版です。(通常版もヨロシクです)
1. 焦げと微かなカオス
カフェの朝は柔らかな光で始まった。扉を開けると、焼き菓子の甘い香りと、ルシアが隠れて試食した焦げ付きの香ばしさが混じり合い、常連客たちの軽やかな会話が満ちていた。
ルシアは手早く仕事の流れを確認しつつ、笑顔を絶やさず客と接する。
常連の老婦人がメニューを前に少し迷っていると、ルシアは優しく微笑みながら提案した。
「おすすめは、今日焼き上がったチョコレートタルトの、特に端のちょっと硬くなった部分です。香ばしさも豊かで、きっとお気に召しますよ」
老婦人は嬉しそうに頷き、ルシアの言葉に背中を押されるように、なぜかタルトの真ん中を注文した。
別の席では、恥ずかしそうにしている少年に軽く話しかけ、自然と笑顔を引き出す。
店内の隅から赤ちゃんのぐずる声が聞こえ、母親が少し困った顔で抱きかかえている。ルシアはさりげなく近づき、赤ちゃんに向かって隠し持っていた黒パンの焦げ付きをちらつかせ、笑顔で話しかける。赤ちゃんは不思議そうに目を丸くし、やがて泣き止んだ。
「まぁ、すごい……焦げ付きで子守りを?お子さんがいらっしゃるんですか?」
母親が思わず尋ねると、ルシアは照れくさそうに微笑む。
「まさかね、そんな年齢でもないわよね?」
偶然、視線の端にセリオの姿を見つける。彼はルシアが赤ちゃんに焦げ付きを近づけたことに衝撃を受け、顔を背けるように視線を外した。その光景を目にしたルシアは、一瞬戸惑ったが、すぐに柔らかく微笑みを返す。
奥の席で静かに見守るセリオは、ルシアの天然で無自覚ムーブに、心をぎゅんぎゅん揺さぶられていた。
(……この子は、焦げ付きと笑顔だけで、人類の根源的な不安を解消している!恐ろしい才能だ!)
常連の青年マルコが声をかける。
「お、君が新しい店員さんか。よろしく頼むよ。セリオが毎日隅で見てるから、頑張れよ!」
セリオは「おい、余計なことを言うな!」と口パクで怒鳴ったが、マルコは気づかないフリだ。
2. ラベンダーとセリオの赤面
午後になると、カフェのテラス席に春の風が吹き抜ける。ルシアは空いた時間に店先の花の手入れを始めた。鉢植えのラベンダーに水をやっていると、ふとセリオが近づいてくる。
「花、好きなのか?…いや、土の感触が好きだと聞いたが」
「はい!香りが落ち着くんです……なんだか、心がミントの香りに汚染されていない気がして」
セリオは少し驚いたように目を細め、ラベンダーの花を見つめる。
「俺も……昔、母が育ててた。懐かしいな」
ルシアはそっと微笑み、風に揺れる花を見つめる。
「きっと、優しい方だったんですね。……あの、セリオさん」
「な、…なんだ?」
「このラベンダー、茎の根元に土の塊がちょっと付いてるんですが、触ってみませんか?最高の感触ですよ」
セリオの顔が先程の赤ちゃんと同じくらい丸くなる。彼は爵位のある家の出身。土を触る行為は、彼の育ちからすればあり得ない。だがルシアの純粋すぎる瞳に、彼は抗えない。
「そ、そこまで言うなら……」
セリオが恐る恐る指先を伸ばし、ラベンダーの根元の土の塊に触れた瞬間、ルシアは「そうでしょ!?」と目を輝かせてセリオの指先をそっと覆い、二人で土を触る形になってしまった。まるでニュースト・ゴーヨークの幻だ…(逆だった?)
窓越しに、その光景を見ていたマルコとミレーナは、静かにスマホ(概念)を取り出して記録を始めた。
「ほら、やっぱり良い雰囲気じゃないか!土を媒介にした接触!」
「ルシアさん、すごいわ。あんなに潔癖なセリオ君の指に、土を付着させるなんて!」
セリオの頬は、リンゴのように真っ赤に染まっている。ルシアは何も気づかず、満足そうに頷いた。
「この土、すごく粒が粗くて気持ちいいですね。触ってると心が落ち着きます」
セリオは「き、君が、あまりにも無防備な表情で土を愛でるから、俺もつられてしまっただけだ!」と、心の中で五千回は言い訳をした。
3. 嵐の中の華麗なる回避
その日の夕暮れ、街の平穏は突然破られた。
通りの向こうから、荷馬車を引く馬が暴走し荷物が散乱する。人々が悲鳴を上げ逃げ惑う。
「危ない、子供が!」
ルシアは迷わず店を飛び出し、立ちすくむ少年を抱きかかえて、安全な場所へ誘導した。背後からセリオも駆けつける。
「ルシア、左側を頼む! あ…危ないぞ、向こうにパンの焦げた端っこがある!」
「はい!焦げ付きは私が守ります!」
二人は言葉少なに連携し、通行人を次々と避難させていく。セリオは荷物の山を使って馬の進路を変えようとしたが、足元の果物箱に足を取られてすっ転んだ。
「セリオぉぉ!」
ルシアは駆け寄り、手を差し伸べる。セリオは少し驚いた表情で彼女を見上げ、やがて微笑む。
「……ありがとう。助かった」
馬はようやく落ち着きを取り戻し、通りには静けさが戻った。人々が安堵の息を漏らす中、ルシアとセリオは互いの無事を確認し、視線をそっと交わす。
「大丈夫か?ケガは」
「はい、大丈夫です。セリオさんこそ、土は付いていませんか?」
言葉は少なくとも、二人の間には確かな「土を愛でる者と、土に怯える者」の絆が芽生えていた。
その夜、ルシアはカフェの窓から街を眺め、未来の自分を想像した。
人々の温かさ、新しい生活、そしてセリオとの土いじり──。
心に芽生えた希望は、過去の悲しみを少しずつ溶かしてゆく。
セリオもまた、ラベンダーの香りに包まれた風の中、静かに彼女の横顔を見つめる。
(彼女の無邪気さが、俺の潔癖症という名の心の壁を、少しずつ崩していく……!これは、恐ろしい焦げ付きの力だ!)
追放令嬢として始まったはずの物語は、今、優しさと土の感触に包まれる日常へと静かに歩みを進めていた。
運命は、静かに動き出す。
この小さなカフェで、ルシアの新しい物語が確かに始まったのだった──。