第一話:追放の宴と、最初の扉
※こちらの作品はコメディ版です。(通常版もヨロシクです)
1. 舞踏会はミントの香り
オーリス王国・春の大舞踏会。
豪奢なシャンデリアが天井を飾り、光を反射して大広間全体がシャンデリアの暴力と呼ぶべき輝きを放っている。貴族たちは豪華な衣装に身を包み、優雅な会話と、金銭の匂いを交わしていた。
その中心に、私は立っていた。
婚約者であるイグナス・オーリス殿下の隣で。
殿下はこの数週間、私にほとんど口をきこうとしないどころか、私から半径1メートル以内に近づくことを極度に避けていた。彼の周囲には、目に見えない「不快感のバリア」が常時展開されているようだった。
わずかに距離を取り、視線すら向けない。殿下の瞳には、ただただ「ミント味のガムを踏んだ時の苛立ち」だけが宿っている。
(たぶん……あの日のことが原因ね)
数日前、城の厨房で開かれた「庶民の焼きたて菓子試食会」での出来事だ。
私はそこで、城下町の人気ベーカリーから取り寄せた「カリカリのソーセージが乗った黒パン」を、それはもう満面の笑みで試食していた。
「美味しい!この油と小麦粉のハーモニー!殿下、ぜひこのパンの端っこの焦げを!」
無邪気に笑い、熱々の焦げたパンの端っこを殿下に見せつけた瞬間、殿下は険しい表情で私を見下ろした。
「ルシア・アルベール!なぜ君は、庶民が素手で触れたであろう、油と焦げの結晶を、そんなにも輝かしい瞳で見つめることができるのだ!?」
その瞬間、彼の潔癖な心に、「婚約者は自分ではなく、庶民のパンに恋している」という不満と、「汚物が近づいてくる」という生理的嫌悪が芽生えたのだろう。以来、私に触れるどころか、私と同じ空気を吸うことすら不愉快だと言わんばかりの態度をとる。
その時のことを思い出すだけで、胸の奥が締め付けられる……ソーセージパンへの未練で。
けれど同時に、私は自分に言い聞かせた。
(殿下は、焦げ付きの魅力を分かろうとしないだけだわ……)
2. 完璧なブリッコと、ルシアの不運
会場の奥から、一団の客人が進んできた。
白いドレスに金の刺繍を施し、透き通る肌に菫色の瞳を持つ少女。まるで絵画から抜け出したCGのような完璧な美しさだ。
「この方は、マリアベル・ホーリィ様。本物の聖女であらせられる」
紹介の声が響くと同時に、殿下の顔に「ついにミントの香りが戻ってきた!」と言わんばかりの安堵の感情が浮かんだ。胸に不安が波紋のように広がる……殿下が、私からさらに遠ざかってしまうのでは、という不安が。
私は礼儀として、最大限の「社交界のテンプレートスマイル」を浮かべて微笑み返す。
すると聖女マリアベルは柔らかく微笑み、しかし一歩下がり、両手で胸を押さえた。
「あっ……!」
その瞬間、とっさに私は腕を伸ばし、彼女の肩を支えた。
”ゴッ”
軽く触れただけで、マリアベルの表情が一瞬だけ歪む。私の肘が、彼女の完璧にメイクアップされた顎に、ピンポイントで当たったのだ。
「大丈夫ですわ……ルシア様が少し勢いよくお引きになっただけで……」
貴族たちのざわめきが広がる。「暴力!?」「嫉妬!?」と視線の中心に私がいることを痛感した。殿下の瞳は鋭く、怒りと困惑、そして「潔癖な私に見せつけるように汚い行為を!」という絶望が入り混じっている。
3. 「追放」は「自由」である
「そこまでだ!」
大広間全体が静まり返った。
殿下の声は低く、震えながらも力強い。
「自分の婚約者が、聖女の顔を張るような下品で、焦げたパンの匂いがする真似をする人間だとは思わなかった。聖女を妬み、無礼を働くなど王妃の器ではない。ルシア・アルベール! 今日この場をもって婚約を破棄する。明朝までに城を去れ。二度とこの国の土を、私の見ている前で踏むな」
頭が真っ白になる。
しかし次の瞬間、理解した。
(私はもう、土を自由に踏める!)
深呼吸して、静かに一礼する。
「承知いたしました。婚約は破棄いたします」
殿下は満足げに頷いた。しかし私は続けた。
「殿下におかれましては、マリアベル様と、末永く、焦げ付きとは無縁の、清潔で純粋な、ミントの香りに満ちたお幸せを、心よりお祈りしておりますわ。ただし、時々、土の感触を思い出されることをお勧めいたします」
侍女たちの「よく言った!」という同情の視線、騎士たちの「何言ってんだコイツ」という困惑の拳。誰も何も言えない空気。
私は踵を返し、大広間を出る。
重い扉が閉まった瞬間、やっと胸に息が通った。
(……追放ってことは、城の規則から完全に解放された自由ってことよね!)
(明日からは、心ゆくまで焦げ付きの魅力に溺れるんだから!)
その夜、私は一人、窓の外に広がる王都の灯を眺めた。煌めく街の光が、遠くのベーカリーのパンのように見える。
心の中で小さな決意が芽生えた──。
「誰にでも分け隔てなく、焦げ付きの魅力を伝えられるような、優しく生きてみせる。そして必ず、自分の幸せを掴む!」
翌朝、荷物をまとめると、城の守衛に見送られながら、静かに門をくぐった。
外の空気は思ったよりも冷たく、清々しいほど土の匂いがする。足取りは自然と軽くなる。
道行く人々は私に微笑みかける。知らぬ人たちの庶民的な親切に触れ、私は少しずつ、新しい生活への希望を胸に膨らませた。
門を出て振り返ると、城の塔は遠く、まるでミントの味がする過去の幻のように見えた。
心に宿る悲しみや怒りを抱えつつも、私の物語は今、確かに始まった。土と焦げ付きに満ちた、新しい物語が──。