最後のばぁさん
人里から離れた山すその一軒家にその老婆は住んでいた。
そう、彼女はこの世界にたったひとり、最後の老人。
初夏の太陽が山のむこうに姿を隠し、やっと昼間の暑さから解放されたころ、
夕食を軽いもので済ませた彼女はデザートの果実が入ったガラスの器をトレイにのせ、
涼しい風のとおるテラスに出た。
テーブルの上に器を下ろし、自分の身体を揺りイスに預ける。
老いた身体に農作業は過酷で、腰の痛みは年々ひどくなるばかりだ。
しかしその仕事によって得られる報酬は十分それに見合うものだ。
その至福の時間を今日も味わう。
彼女はテーブルに手を伸ばし食器の中から大粒の実を一つ取り上げる。
緑のへたを摘み、赤い果肉を口に含む。
するとその愛くるしい姿に見合った、少しすっぱさのある強い甘味が口に広がる。
***
不老不死の薬が生まれたのは半世紀ほど前のことだった。
はじめは最先端の科学として、しかしキワモノ的な印象を覚える三面記事だった。
この薬を開発したのは小さな製薬会社だったが、
その後パトロンと被験希望者には困らず、研究は目に見えて進歩した。
やがて政府の認可がおり、製品化が実現する。
ごく一部の資産家にしか手の出ないような価格でのスタートだったが、
その収益によりさらに研究は進み、コストダウンが計られ、
庶民の手が届くようになるまでにさほど時間はかからなかった。
その薬を製造し、使用することを生命に対する不遜と反対する者もいた。
激しい抗議を製薬会社と消費者に投げかけた。
しかし1度でもその恩恵にあずかったならば、
薬の存在に異論を唱えられるものではなかった。
不老不死が標準化していく波を押さえることなど誰にもできなかった。
不老不死が普及していくことに伴ない、街から老人たちの姿が消えた。
それは不老不死を服用し続けた老人たちの身体が若返ったためだ。
開発者たちの予定外の効果だったが理屈は簡単だった。
老衰という変化を抑えられたとしても新陳代謝という生理は変わらない。
その結果ごくわずかずつながら身体から「老い」が排斥されていく。
際限なく若返っていくわけではないし個人差もあったが、
それでも外見では60歳以上という人を見かけることはまれなことだった。
街から消えていったものは老人の他にもうひとつあった。
一見完璧な不老不死の薬だったが、ただひとつ
苺に含まれるとある成分と結合するとまったくその効果を持たなくなる。
それどころか長年不老不死を服用していたものがその果実を食べた場合、
急速なかつ極度の老いに身体を蝕まれ生命を失うこともあった。
そのため不老不死と反比例するようにその果実は人から遠い存在となった。
くだもの屋の店頭からはもちろん、
ケーキ屋からショートケーキが、パン屋からジャムが、
菓子類も飲み物も、苺を材料とするあらゆる食品が街から消えた。
新しく発行された図鑑からは「食用」の表記が「有毒」に取って代わられる。
まれに鑑賞用として花屋に並ぶ以外それを見つけることが困難になった。
多くの人々が苺の味を忘れていく一方で、
不老不死よりその果実を選んだ人たちがいたのもまた事実だ。
彼らは集まり、村を作り、自らの食用とするための苺を栽培した。
はじめはゆうに200人を超える人たちがいたが、
時がたつに連れ、その数は少なくなっていった。
もともと年配だった者はその寿命をまっとうした。
若かった者は年を重ねるごとに自らの身体の変化に不安を覚え、
不老不死を望むようになった。
200人が100人になり、100人が50人になった。
そして半世紀に近い歳月が過ぎたとき、
そこに残ったのはたったひとりの女性だけだった。
***
彼女はまたひとつ苺を口に運んだ。
いつもと同じ甘さが口に広がる。
しかし今日はひとつ味わうごとにむかしが思い出された。
不老不死が世の中に現れたとき、彼女は思春期の少女だった。
もっとも多感だったころ。
愛らしいその果実を毒物のように扱われることに嫌悪を感じ、
街を出て、この村にやって来た。
新しい生活になれたころ、ひとりの青年と情熱的な恋に落ちた。
伴に暮らすようになり、満ち足りた日々を過ごした。
しかし三年後、青年は不老不死を選び、村を後にした。
それから半年後彼女は女の子を産んだ。
大事に育てた娘だったが、15歳で彼女のもとを去った。
しかし彼女は青年のことも娘のことも恨みはしなかった。
ふたりともごく自然な時代の流れに合わせて生きているだけなのだ。
ここに残るという特異な道を選んだのはあくまで自分の方なのだから。
その後、人恋しさから街に出ることはあったが、
不老不死を受け入れる気にはなれず、
最後まで村を離れることはできなかった。
やがて村には自分を残し、誰もいなくなっていた。
やさしい風に梳かれたほつれた白い髪が、彼女の頬をくすぐった。
それを心地よく感じながら彼女の目はゆっくり閉じられていく。
まぶたの内に映る情景が、回想のものか夢なのかもう分からない。
指先から力の抜けて食べ掛けの苺が零れた。
手から膝に、膝から床に転がり落ちる。
夜の空気に晒されて冷たくなっていく彼女の身体を
薄い月明かりが照らしていた。
おしまい。