21.5 役者たち◆
およそ三秒ほど、ララの頭は停止した。
夢ではないことを確かめるために、こっそりと左手で右手の甲をつねってみる。痛い。つまり、これは現在進行形の現実であるということ。
「………あの、殿下」
「どうした?」
自分の気持ちを吐き出したためか、どこかスッキリしたような顔でフィルガルドは尋ねる。ララはまたもや腹の底から沸々と上がってくる怒りを、しっかりと拳に込めてそちらを向き直った。
「私は怒っているのですが」
「ああ、見たら分かる」
「貴方は激怒する人間を捕まえて口付けるのですか……!?侮辱も良いところです!今まではこうやって相手の女性と仲直りしてきたのでしょうけど、私はその手には乗りませんから!!」
「そんなつもりはない。ララ、僕は……」
「馬鹿にしないで……!」
勢い良く振り上げた手が、ちょうど身を屈めたフィルガルドの頬に当たってバチンと大きな音がした。しまった、と思ったのは驚いたように目の前で見開かれた碧の目を見た後。
咄嗟に出そうになる謝罪の言葉をグッと呑み込む。こんな時でも思い出すのは厳しい父や乳母の顔で、もうどうやっても上手くいきそうにないこの先のことを考えると涙が滲んだ。力が抜けてしゃがみ込んだ床の木目を目でなぞる。
良い子で居続けることは出来なかった。
期待に応えて、演じ続けるのは難しくて。
「無理なのです」
溢れた本音はあまりに小さい。
「私はもう貴方の求めるような婚約者になれません…… 誰かの顔色を窺って、自分を殺して生きるのは疲れました」
「…………」
「聞こえないフリ、見えないフリも出来ません。貴方が他の令嬢とキスをした時、自分でも驚くほど嫌でした。この婚約に何かを期待していたわけではありませんが…… もしかすると、私はまだ諦め切れていなかったのかもしれません」
独白のような言葉の羅列を、フィルガルドはただ黙って聞いていた。
お互いほぼ何も知らない状態でここまで来たわけだから、一方的にこんなことを打ち明けたところで迷惑でしかないだろう。いったい何が良くて彼がララを追い掛け回すのかは分からないが、そろそろ無駄だと分かったはずだ。
「ララ、」
嗚咽を堪えてグイッと目尻を拭った腕が引かれた。
睨んでいた床の上に自分とは異なる影が差す。
「君が言っていた通り、僕はディアモンテの家の事情について知らない。どんなことを強いられていたのか、どれほど辛かったのかも分からない」
だけど、とフィルガルドはそこで言葉を切って暫し黙った。握られた手首に少し力が加わって、ララは息を呑む。
「僕の前では何者にもなる必要はない」
絞り出された声は予想外に穏やかだった。
「好きなように生きて、望む道を選んで進んでくれれば良い。だからどうか、その隣で見守る権利を僕にくれないか?」
「どうしてですか?」
理解が出来ず、食い気味に質問を被せるとララは顔を上げてフィルガルドの目を見る。戸惑ったように揺れる碧の双眼は、嘘を吐いているわけでも、得意の上辺の会話でもないように思えた。
「君は僕とは違うから」
「………違う?」
「僕はただ、求められるものを与えることが正解だと思って生きて来た。そうすればみんなは機嫌良く笑ってくれたし、何も難しくはなかった」
ララの頭の中で友人たちに囲まれたフィルガルドの姿が浮かぶ。中身のない会話にどうして付き合っていられるのだろう、と不思議に思っていた。
「平和主義なんて言えば聞こえは良いが、結局は自分が気持ち良くなりたかっただけだ。誰とも揉めず、敵を作らず、ぬるい関係を続けるのは楽だった」
「貴方のご友人は本当にご友人なのですか……?」
「さぁね、どうだろう。僕たちは損得を計上して生きているから、権力や地位なんかが無ければ同じ場所に居ないかもしれない」
フィルガルドの手を解いて、ララはもう一度目元を拭う。階下では酒飲みたちが盛り上がりを見せており、何やら楽しげな笑い声が床を伝って聞こえて来た。
ゆっくりと顔を上げてみる。
フィルガルドもまた、ララを見ていた。
「可哀想な人、」
薄暗い部屋の中でぺたりと触れた頬がわずかに強張る。また張り手が飛んでくると思ったのだろうか。ララは長い息を吐いて口を開く。
「知ってましたか、殿下。楽しくない時は笑わなくて良いし、行きたくないパーティーは断れば良いのですよ」
「………そうだったんだな」
「私たちはお互い欠けているものがあるようですね。見たところ貴方の方が重症だわ」
何も応えないフィルガルドの頭をそっと撫でて、ララは立ち上がる。つい先ほどまで睨み合っていた王子を見下ろして、数秒目を閉じた。
息を吸って、吐く。
自分で選んだ答えにピリッとした緊張が流れた。
「フィルガルド、貴方の願いを受け入れましょう。ただし、私が提示する条件を呑んでください」
アルファポリスさんの方で色々と感想をいただき、思うところありまして、こちらの一話を追加しました。「後はお察しくださいまし」という悪い癖があるのですが、流石にここは説明がないと厳しいぞと反省したので、追加です。
無いのとあるのとで受ける印象は結構違うのかな、と思うので良ければこっそり教えてください。




