19 猫の背中◇
「そろそろ声が掛かる頃だと思っていたの」
女は部屋に入って来るなりそう言った。
今日も今日とて暇なのか、朝から王宮を訪れたポールは部屋の隅で猫と遊んでいる。母親が趣味で飼い始めたその猫は、三ヶ月経った今となっては興味を失われ、王宮を自由気ままに歩き回っている。
フィルガルドは新しい客人であるキャサリン・べゴットに着席を勧めた。伯爵家の娘である彼女は、もう季節は秋だというのにまだ肩まで露出した派手なドレスを着ている。純真な衛兵のオリバーあたりが見たら卒倒するのではないか、と内心考えた。
「みんな勝手に勘違いして大変よね。貴方が独り身になった途端、女の子たちは揃って戦争でも始まったみたいに殺気立つもんだから」
「それは初耳だな。よほど妃教育に興味があるらしい」
「バカね、フィルガルド。みんなのお目当ては貴方よ、貴方。本人がこの調子じゃあ彼女たちが可哀想だわ」
そう言って短いスカートの下でキャサリンは脚を組み替えた。濃い真紅のドレスがふわりと広がる。
「それで、用事って何かしら。まぁ、だいたいのところは想像がつくわ。私たちってお互い考えることが似ているのよね」
フィルガルドは素直に驚いた。
今までキャサリンと何か共通した感覚を持っていたと思ったことはないが、彼女は自分のこの悶々とした気持ちを理解していると言うのだ。
猫用のおもちゃをブンブンと振り回すポールを一瞥して、フィルガルドはキャサリンを見据える。言葉を選んで慎重に口を開いた。
「そう言ってくれると話が早い。実は、僕はララとなんとかして復縁したいと考えているんだ。先日彼女に会う機会があったんだが、向こうはどうやら微塵も僕に気がないらしい。それどころか、大嫌いだと言っていた。どうすれば良い?」
「なんですって?」
素っ頓狂な高い声が上がる。
目線の先で赤い唇がヒクッと引き攣った。
「ポールに聞いたんだが、君はこういう件に慣れているんだろう?異性との付き合いが多い君に是非とも意見を伺いたいんだ。僕はララとヨリを戻したい」
「フィルガルド………」
キャサリンは片手で頭を押さえて、暫くの間沈黙を貫く。嬉しそうに猫と戯れるポールの声だけが部屋に響いた。
「ねぇ、フィルガルド。覚えているかしら?私たちはパーティーの夜にキスをした仲よね?それも貴方の婚約者の目の前で」
「キス?」
「忘れたなんて言わせないんだから!確かに無理矢理ではあったけど、貴方は私を拒絶しなかったわ。あんなことをしておいて、復縁したいですって?」
「僕にとっては蝿が止まったようなものだ。それに、あの時は君の後ろに立つホバートがずっとララをジロジロと見ていた。僕はそれに気を取られて君を避け切れなかっただけだから、不慮の事故だよ」
「事故ですって……?」
何故か顔を赤らめて怒ったようにキャサリンは立ち上がる。にゃあ、と鳴き声がして驚いた猫が何処かへ逃げて行った。
「フィルガルド、そういうところよ!貴方の婚約者もきっとこれが嫌で出て行ったのね。要は勝手なの。言葉足らずで自分勝手!」
そう言い捨てて勢い良く部屋の入り口に突進した令嬢は、そのまま出て行ってしまった。残された部屋の中でフィルガルドはポールと顔を合わせる。
「勝手にキスをした彼女に言われる筋合いはないと思うが……どう思う?」
「なんだって良いが、驚いた猫が可哀想だ」
何度目かの溜め息を吐いて、王子は立ち上がる。部屋の隅で怯える小さな毛の塊を抱き上げてその背中をゆっくりと撫でてやった。これからどうしようか、と考えながら。
言われた言葉が頭の中でゆるりと回る。
言葉足らず、それはまさにそうだったかもしれない。比較的受け身な人生を送って来たせいか、自分から何かをする必要はなかったし、今まで何も言わなくとも相手は勝手に察してくれていた。解釈違いで去って行ったとしても、それもまた自由。
しかし、今回はそうと割り切れない。
記憶の彼方から過ぎた夜のことを思い返す。
誕生日は盛大に祝いたい、というポールの願いを聞き入れて、時間を作ってララと出掛けた。久しぶりに会う友人たちにあちこちから声を掛けられながら、こちらをジッと見つめる男の目が気になった。もっと言うとその男はどう見てもフィルガルドの隣に立つララを観察していた。断りもなしに他人の婚約者を眺めるとは、と不満な気持ちが沸々と沸き上がり、一言物申してやろうと足を踏み出した瞬間何かが口に触れた。
(キャサリンだったのか?)
ふざけた仲間の一人が悪戯で何かを押し付けて来たのだろう、程度に思って押し返したことを覚えている。かなり混雑した場だったし、近くにマリネが載った皿があったから、やけにギトついたそれは魚だったのかもしれないと。
「最悪だ……自分を殴りたい」
「僕の右手で良ければ貸そうか?」
大真面目にそう答えるポールを睨んで、抱えていた猫を押し付けると、フィルガルドは部屋を飛び出した。




