16 雨の日◆
朝方から降ったり止んだり、スッキリしない天気の一日だった。
街行く人々も皆、各々の傘を手に、長靴を履いた足で石畳の床を蹴って歩く。ララはどんよりとした空を見上げて、溜め息を吐いた。雨が降るとあの日を思い出す。フィルガルドに婚約の破棄を告げた、最低な一日を。
「窓の外ばっかり見てんじゃないよ。晴れてようが降ってようが、槍が降って来ても酔っ払いは店の戸を叩くんだ。今までだってそうだった」
「槍……?」
「例えばの話だよ。それに雨だって悪かないじゃないか。アタシは好きだよ、庭のバジルがよく育って」
「マドレーヌさん、バジルなんて育ててるの?」
「自給自足を目指してんだ。今はまだ小さいけど、畑だってあるんだよ。ララも今度遊びに来たら良い。一人なら泊まることが出来るからねぇ」
会話をしながらマドレーヌは器用に料理を小皿に盛り付けていく。彼女の言う通り、雨の日でも小さな店内は仕事帰りの客たちでごった返していた。
ララはカウンターの内側で注文を確認しながら、オーダーの入っている飲み物を作る。
この場所に来て驚いたことの一つに、アルコールの種類の多さが挙げられる。今まで厳格な父のもと、一切酒に手を付けてこなかったララだが、一度マドレーヌの店でそれを口にしたらあまりの美味しさに驚いた。
並々と注いだ発泡酒をそのままガブ飲みたくなる気持ちを我慢して、テーブルへと届ける。調子の良い客たちから飛んでくる言葉を軽く返して再びカウンターに戻った時、店の扉が開いた。
「あら、珍しい客じゃないか!二階を準備するからちょっと外で待ってな。今日は一人かい?」
マドレーヌの言葉にララは身を乗り出して入り口を見る。滅多に使われない二階の部屋を貸し出すということは、よほど彼女の気に入った客が来たということ。
しかし、昂ぶる気持ちすはぐに消え失せた。
片手で雨を拭う男の姿には見覚えがあったから。
「急いでないから僕のことは後回しで良い。相変わらず繁盛しているみたいだな、元気そうで何よりだ」
「手伝いをする若い子が入ってね。紹介するよ。ララ、ちょっとこっちにおいで」
「ララ?」
心の準備をする前に名前を呼ばれてしまった。
聞き返すフィルガルドの声から、彼が怪訝な顔をしていることは容易に想像がつく。その場にしゃがみ込むわけにもいかないので、ララは黙ってマドレーヌの隣に並んだ。
「驚いたな………」
本当に驚いたようにフィルガルドは口元に手を当てる。「どうだい、可愛いだろう?」と問い掛ける店主の声が何処か遠くで聞こえるみたいだった。
逃げ出してしまいたい。
今すぐに。出来るだけ速く。
「マドレーヌ、悪いが少し彼女を借りても?」
「ダメに決まってる。アンタがいかに高位な人間でもこの店の中じゃあ他の客と同等だ。ララは見ての通り今は仕事中だから、話したいなら後にしな」
「分かった」
フィルガルドは短く答えて、黙った。
やがて他の客に呼ばれたララが店内を走り回って、再びカウンターの中に戻った時には、もうすでに王子は二階へと上がった後だった。
「王族を見るのは初めてかい?」
皿洗いを始めるララの隣でマドレーヌが尋ねる。
「こんな店でもアイツは気に入って顔を出す変わり者でね。初めは父親に連れられて来てたんだが…… アタシゃ、フィルがまだオムツをしてる時からあの子のことを知ってんだよ」
今じゃすっかり王子様だがね、と大口を開けて笑う。どんな返しをすれば良いか分からず、ララはただ頷いてその場をやり過ごした。




