揺れる洞窟
今日は金曜、 “金曜、女のドラマシリーズ”です。
この為だけに置いてある『MITSUYA CIDER』のネーム入りグラスの中に食器洗剤を垂らし、水栓を捻ってぬるま湯を満たしてシンクに置く。
ふと思い立って、水滴が塗された両手を丹念にチェックする。
このひと月……一日何回もリビングダイニングに掛けてあるカレンダーを眺め、最初はカレンダーの右上の小さな文字だったのが、1枚破り取って大きな文字となった……何の印もコメントも書かれていない『26』という日までを指折り数える行為が……自分の手が荒みきっているのに気づくきっかけにもなった。
そして、その日がとうとうやって来た!!
指が細く綺麗になった事を証明するかの様に、親指と小指で押し出した結婚指輪はスルリと抜けて右の手のひらに落ちる。
プラチナ850tにメレダイヤを一粒施したこの指輪も……初めて付けた時の輝きや高揚感は失せて……
「今では何か月かに一度、中性洗剤の“お風呂”に浸かるのが関の山か……」
“お風呂”!!
発語した自分の言葉にドキン!とする。
ラベンダーとイランイランの香りの記憶と共に二人で入ったジャグジーでの事が鮮明によみがえり、甘い幸福感が私のカラダの芯を温める。
そう!今日は狂おしい程に待ち焦がれた7月26日!!
私は自分自身に“最後の仕上げ”を施す為、手のひらの指輪を目の前のグラスへさっさと棄てた。
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昨今は赴任先が海外でも、本社で行われる会議にZ●●mで参加できるらしい。
だからカレの一時帰国の回数もめっきり減ったという……その僅かな機会に、家族より私を優先してくれた!!
だから今日は……私は『佳き日』と同じ様に身なりを整えた。
ガニェールでコースのランチをいただき、カレがリザーブしている“1キング プレミアム”のお部屋へ辿り着くまで、ずっと手を繋いだ。
カレにエスコートされて部屋に入ると……もう、引き合う“磁力”にお互い抗えず、男と女である事の尊さを噛みしめる。
キスだけで乱れてしまった私は……着ている服に見合う清楚さを何とか取り繕ってカレの前に立ったのだけど……
「先にお風呂入っていて!僕も後から行くから……」と耳元で囁かれて……我慢できずにカレの手をブラウスに導いた。
「私を先に行かせるのなら……あなたの手で脱がせてください」
たくさんのキスと優しい指でまた私は乱れ、そっくりそのままカレに“お返し”をして、カレにお姫様だっこされてお風呂に入った。
それから日が暮れるまで、私とカレはお互いがお互いの中にしっかり残る様に……次の逢瀬まで色褪せない様に……カラダと心を摺り合わせ続けた。
半ば死んで……ただ時をやり過ごす日常からすれば、この数時間は“ほんのひと時”
でも、その中にこそ命の通った誠の愛がある。
下卑た夫との“不毛”は、カレや私自身に対しての“不実”に他ならない!
いつまで経っても夫との間に子供が出来ないのが、正にその証だ。
私はこのまま石女で……一生を終えるのだろうから、
「来世ではあなたの子供が産みたい」とカレの腕の中で泣いた。
そうしたらカレは私にいっぱいのキスをくれて……カレの目から線香花火の火珠の様に涙が一粒ハラリと落ちた。
決して泣かない折れない男が流したその涙は……私の左の薬指に落ち、何物にも代えがたい永遠のエンゲージリングとなった。
星の代わりに煌びやかな街の灯りが瞬く頃、二人は部屋を出た。
カラダと心の火照りを冷ます事などできはしないのに、ふたり連れだって生温かい夜の風に身を晒す。
「ありがとう、そろそろ部屋に戻って」
「いや、地下鉄の駅まで送るよ」
「ダメ! ここはあなたの“ホームグラウンド”だもの! 誰かに見られでもしたら、私は一生自分を責めてしまう! だからお願い!」
一瞬、苦悶の表情を見せたカレは、すぐに笑顔になって……
二人は絡めた指を1本ずつ解いてゆく。
そして、カレは“私の居なくなった”手をスーツのポケットにそっと収めた。
「次に逢う時まで、どうかお元気で……」
「私は大丈夫! あなたこそ!!どうかどうかご無事で居てください!!」
「心配は要らないよ!僕らは織姫と彦星ほどは離れてはいない! たかだが地球の表と裏だ! それに毎日、ネットで会ってるじゃないか!」
「そうね! 私……いつもあなただけの為に!!綺麗で可愛らしく居るわ」
「僕もキミだけの為に!! 雄々しく居るよ」
そう!お別れの言葉は……こんな冗談を紡ぐのがいい。
私は彼に背を向けて、地下へ繋がる階段を下りた。
一段ごとに私の心に鉛が積もり私は“日常”へと沈んで行く。
私の“日常”は……会社近くの飲み屋で同僚とくだを巻いて帰って来る夫の介抱。
その挙句、酒臭い息で無理やり押し倒されてしまうのかもしれない。
それは“永遠のエンゲージリング”の上に付けさせられるくすんだ結婚指輪そのもので……
私は徐々に徐々に蝕まれてゆくのだろう。
そんな姿をカレに見せたくない私は……暗い“洞窟”の中を走り続ける地下鉄に揺られながら忍び泣いた。
おしまい
R15にいたしましたが下品にはしなかったつもりです。
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