寝不足王子と安眠姫
霧氷海沿岸より出でしノルデヴィング連合と、旧サウザニアの再統一を果たしたエルギア帝国。
この両雄が隆盛のきざしを示したとき、具眼の士はいずれ大陸が二分されると予測した。そして覇権を巡る大戦にいたると。
しかしその少数の慧眼を持ってしても、大陸が南北にほぼ分割されるまで、半世紀も要さないとまでは読めなかった。
緩衝地域としてただ一国、グリュナス王国が残り、その他の諸国はことごとく、連合か帝国に組み入れられて消滅するということも。
現グリュナス王オットーはお人好しで、両雄相手に虚々実々の駆け引きをして独立を守る、権謀術策やエゴイズムはない。国を実質的に率いているのは、王弟グントラムである。
グリュナス王国の、ひいてはグントラムの存在こそが、連合と帝国の均衡を保ち、衝突を防ぐ最後の砦であった。
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「グントラムさまは今夜もいらっしゃらないのでしょうか」
「しかたがないわ、お忙しいかたですもの」
執政夫人付き女官長のモニカはいつものようにため息をつき、応じるヒルトの声には、あきらめよりも侍女をなだめる響きがあった。
ヒルトがグリュナス王国執政にして王弟のグントラムと華燭の典を挙げたのは、3ヶ月前のことだ。
王侯の冠婚葬祭というのはそれ自体が一大公共事業であり、国内経済を回す口実である。
したがって、結婚式そのものは、王弟としての格式に則って執り行われた。3年前の兄王オットーの縁談と挙式をプロデュースしたのもグントラムであり、自身の結婚にさいしても細目にいたるまですべてを取り仕切った。
オットー王の式より6割地味で、1/4の規模と予算の婚礼。万人が「真の国主」と陰でささやいても、グリュナス王国の太陽はオットーであり、グントラムは王の威光を照り返す月にすぎないのだと、内外に印象づけるための。
地味婚といっても比較対象は王さま、ヒルトにとっては、びっくりするほど盛大な式だったが。
以来、ヒルトとグントラムが3歩以内の距離に近づいたことはない。宮廷でときおりヒルトの視界にグントラムの姿が入ってくることはあるのだが、執政閣下はいつも書類に目をやっているか、上級官吏たちへなにごとかを指示している。
邪魔をしてはいけないなあ、と、近寄っていくのを遠慮してしまうヒルトなのだった。
閨への訪いも、当然のように一度もない。聞いた話では、グントラムは東の空が白みかけるまで仕事をしていて、城下の官邸街から官吏が出仕してくるころには、もう政務に就いているのだとか。
ひとりで寝るには広すぎる天蓋つきの寝台を整えながら、モニカは問わず語りで、王弟を遠巻きに見ている宮廷人たちのらちもない風聞を口にする。
「グントラムさまの正体は吸血鬼だとか、錬金術で創られた人造人間だとか、そんなことを言っている人までいるんですよ」
「うわさを信じるの、モニカ?」
くすりと笑ってヒルトが訊ねると、女官長モニカは肩をすくめた。
「新妻を3ヶ月もほったらかしにして仕事仕事というのは、すくなくともまっとうな男性ではありませんね」
「いっそ、グントラムさまが本当に吸血鬼だか人造人間なら、まだいいのだけれど」
「ヒルトさま、それは、どういう……」
眉をひそめたモニカに対し、ヒルトは憂いげな声で、
「グントラムさまが普通の人間でいらっしゃるなら、いつお寝みになっているのやら、心配じゃない」
と応じた。その鏡のようなシルバーグレイの眼には、形式だけの夫の身を、本心から案じるやさしさがあった。
モニカが寝台を整えているあいだに、ヒルトのほうは髪をまとめられ、レースのネグリジェ姿になっていた。髪結い係りと衣装係りの女官が自分の役目をすませ、無言のまま一礼して執政夫人の寝室から辞去していく。
ふわふわのストロベリーブロンドに青みがかった銀色の眼、繊細な目鼻立ちのヒルトは、安易な表現をすれば「お人形さんのように」愛らしい少女であった。
仮にグントラムが吸血鬼であったなら、3ヶ月も我慢できるはずはないとモニカは思う。つまり、王弟殿下は、自動人形であるのか、異性愛指向がないのか、どちらかであろう。
「はあ……ヒルトさまのこのお姿を毎夜目にするのが、わたくしども女官のみだなんて、とんだ損失ですよ」
「わたしの実家は爵位もない片田舎の郷士。本来なら、ここで働いている女官のみんなよりも下賤の身よ。王家に嫁ぐことになったというだけでありえない幸運、それ以上を望む気はないわ」
女官長モニカは伯爵夫人であるし、宮廷で働いているメイドたちもたいていは子爵家や男爵家の娘で、行儀見習いを兼ねての奉職だ。
「政治的事情はいちおうわたくしも存じておりますが、このさい生まれは関係ありません。グントラムさまもまあまあのご容貌、おふたりの血筋を後の世につなげないなど、美に対する冒涜です」
「モニカはずいぶんと審美眼が厳しいのね」
グントラムを「まあまあ」と評する女官長の採点のからさに、ヒルトは目を丸くした。つややかな黒髪と鷹のような眼をしたグントラムとはじめて顔を合わせたとき、こんなかっこいいひと見たことない、とヒルトは思ったものだったが。
反面、自分の容貌に関して褒められることに、ヒルトはあまり実感がない。地元にいたころは、べつだん見た目を理由にちやほやされた記憶がないのだ。山奥と都では評価基準がちがうのだろうか。
「さあ、夜ふかしは美貌の敵です。おやすみになられませ、ヒルトさま。グントラムさまがお越しになられたさいには、すぐお伝えいたします」
ヒルトの大きな眼に眠気の影がよぎったのを見て取り、モニカはふわふわの羽毛入り掛け布をまくった。ヒルトは素直に寝台へ上がって横になる。
「モニカも早く寝むのよ」
「来ないとわかっているお人を待つのも、高貴な奥方さまに仕えるものの務めです」
「高貴なのはグントラムさまであって、わたしはただの田舎娘」
「ヒルトさまは、わたくしにとって至高至尊の姫ですとも」
「ありがと。おやすみモニカ」
「おやすみなさいませ、ヒルトさま」
長く見守る必要はなく、すぐにヒルトは穏やかな寝息をあげて眠り込んだ。
とにかく寝つきがよく、どんな枕でも、たとえ枕がなかろうともぐっすり眠れるのはヒルトのひそかな特技だった。「眠らずの君」の異名を取るグントラムとは正反対の「安眠姫」である。
眠れる乙女へ羽毛布団をやさしく掛け直し、女官長モニカは控えの間へとしりぞいた。
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グリュナス王国執政にして王弟グントラムは、宮廷人から山奥の羊飼いにいたるまで、王国民からこぞってその正体について憶測を巡らされている身であったが、吸血鬼でも人造人間でもなかった。
もちろん自動人形でもない。女性に興味がないとか、男性愛嗜好があるとか、そういうことでもなかった。
ただ、ひたすら忙しいのだ。
そしてここしばらく、グントラムはひそかに心で叫んでいた。
(ヒルトと……ヒルトとふたりっきりでイチャイチャしたい!)
……と。
しかし終わりのない政務が、3ヶ月に渡ってグントラムの行く手を阻みつづけている。
父王シギベルト健在のころからノルデヴィング連合とエルギア帝国の圧力は増すばかりであり、第二王子であったグントラムは祖国と家族を守るため、10代半ばのころから現場で働いてきた。
兄オットーは善良だが、いや、善良ゆえにえげつない政治的駆け引きが苦手だった。そして父シギベルトも性格としてはオットーに近く、二大国から次々と突きつけられる政治的難癖、汚れ役の強要に神経をすり減らし、老け込むにはまだ早い40代半ばで倒れ、そのまま崩御してしまった。
王位を継ぐのはオットーをおいてほかにはいない。
若くして国政と外交を半ば取り仕切っていた第二王子の登極を推す声もないではなかったが、当のグントラムが言下に否定したのである。いまから10年前のことで、オットーは19歳、グントラムは17だった。
グントラムは、父を実質殺した政治の暗部から、兄を守りとおそうと決意した。人でなし、裏切り者、冷血漢と陰で恨み言が絶えないことは知っているが、グントラムの良心は痛まなかった。すべては国のため、兄のためであった。
ときに連合や帝国の尖兵となり、尻馬に乗って、周辺国の犠牲を対価にグリュナス王国の支払いを免れさせることも、グントラムはためらわなかった。
もちろん兄王オットーの結婚も、グリュナス王国を存続させ、両雄に取り込まれないようにするための生き残り戦略の一環である。
大陸中央部の諸国家がつぎつぎと独立の旗を降ろしていくさなか、オットーが未婚であることに目をつけた両雄が、政略結婚によってグリュナス王国を自陣営に取り込もうと競い合いはじめたとき、グントラムが選んだのは、大陸外、西の大洋に浮かぶ海洋王国ブライアンスとの同盟であり、先方へ、兄王オットーの妃としてディアナ姫を迎えたいと提案した。
面積としては狭いが多くの島嶼を擁するブライアンスは、西海交易を巡って連合と積年の競合関係にあり、南洋の新大陸を巡っては帝国の遠征軍を海上で妨害する、両雄どちらにとっても邪魔な存在であった。
大陸に存在する両雄以外の諸国家は、そのいずれも単独では弱く、第三極として同盟することもできなかった(当然、両雄のエージェントは合同を妨げるために暗躍してきた)が、ブライアンスは連合や帝国と正面から伍することはできないまでも、均衡を崩すだけの力は持っている。
もし連合とブライアンスが結べば無比の海軍力となり、帝国はその海岸線すべてを脅かされ、内陸部に逼塞するほかなくなる。反面、帝国がブライアンスと組めば、陸海で圧倒された連合は発祥の地である霧氷海沿岸以外を失うだろう。
両雄が激突してから干渉するより、天秤のかたむきを決める最後の一石として常に牽制をつづけるほうが、ブライアンスにとって利益が大きいと説得したのは、もちろんグントラムであった。
大陸情勢の緊張状態を破局にいたらせないようコントロールしつづけてゆければ、ブライアンスは最大の影響力を有するであろうと。仮にひとつの勢力によって大陸が統一されれば、つぎに矛先が向かうのはブライアンスである。連合にも、帝国にも、肩入れせずに武装中立の時期をひたすら引き伸ばすことこそが肝要だ。そのためには、大陸側にブライアンスと連携して両雄の動きを制御する同盟国が必要になる……。
ブライアンスもまた、グントラムの講ずる方策にこそ国家存続の未来があると認め、オットーとディアナの婚姻は成った。
そして半年前、ついに北方の竜ノルデヴィングと、南方の虎エルギアの狭間に存在している独立国は、東の大山脈と西の大湾に挟まれたグリュナス王国のみとなった。
小賢しいコウモリ、しかしその後ろ盾に海洋王国ブライアンスがついたことで、大陸両雄は下手に動くことができない。
安泰というにはほど遠いが、国が明日消える懸念だけはしなくてすむ均衡点までたどりついたグントラムは、自らも王族であり、兄夫妻がいまだ男児を授かっていない現状では、王位継承順1位であることを思い出した。
つまり、連合と帝国がつぎに考えるのは、グントラムを政略結婚によって取り込むことであろう。……実際には、とっくに両雄の息がかかった女性たちがグントラムの周囲で競艶を繰り広げていたのだが、多忙な執政閣下は寸秒も脇見をすることなく、浴びせられる色目に気づいていないだけであったが。
グントラムは、国外とのつながりのみならず、国内においても派閥に縁のない家柄の娘を探し出すよう、執政官房の調査員へ指示を出した。
そうして王弟妃の候補に上がってきたのがヒルトであり、グントラムは彼女をひと目見ることもなく、年齢の確認すらもせずに結婚を申し込んだ――というよりは、事実上命じた。
ヒルトも、彼女の両親も、王弟殿下からの求婚におどろきこそしたが、断る理由というのはなかったが。
婚約取り交わしも結納の儀もすべて代理人任せ、結婚式前日のパレードまでグントラムはヒルトと顔を合わせる機会がなかったが、門閥と無縁の地方郷士の娘から屈託なくあいさつされて、心臓と延髄へ同時に飛び蹴りを食らったような衝撃を味わった。
(え……ウソだろ……こんな……か、かわいい嫁がくるとか、聞いてない……)
なにひとつ確認しなかったグントラムが悪いのである。
グリュナス王国の中立を保つための形式上の妻、連合と帝国につけ入られないように自身のわきを堅めるフタ――そんな発想でことを進めたグントラムには、自分自身の結婚なのだという意識が欠けていた。
むしろ、大年増や年端もいかぬ幼児、あるいはびっくりするほどの醜女がやってきたなら、連合と帝国の狭間で均衡を守るための、自国のみならず大陸の万民のための政治的婚姻なのだと、割り切れたかもしれない。
しかしグントラムの目の前にいたのは、彼より10歳ほど年下の、無垢で天真爛漫な少女だった。王都の貴婦人たちがまとう、洗練された冷たい毒気とは正反対の、野暮ったくて健康そうで、隠しごとを知らぬ瞳のきらめきは、グントラムがこれまで見たことのない眩しさで。
つまりグントラムは一発で恋に落ちた。
パレードのあいだも、儀式のあいだも、一般観閲のあいだも、晩餐会と舞踏会のあいだも、ずっと花嫁ヒルトの一挙手一投足にドキドキしっぱなしだったグントラムは、ひととおりの式典スケジュールが終わり、秘書官から政務が溜まっていると耳打ちされたとき、苦しいほどの胸の高まりを一時鎮めるために、礼服のまま仕事に戻って……初夜の床を訪いそこなった。
ふと書類から顔を上げたら朝になっていることに気づいたグントラムは、浴室へ駆け込んだ。
礼装を乱雑に脱ぎ捨て、浴槽に頭から浸かっていわく。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"〜〜〜〜〜っ!!! ちょっと、ちょっと落ち着いたら寝室に向かうつもりだったのに!!? バカなのか、お前は大バカなのかグントラム?! あんなかわいいお嫁を引いておいて、式が終わるなり仕事に戻って朝まで放置って『お前を愛することはない』とか言ってるようなものじゃないか!? アホー、俺のアホー!! このアホのグントラムめ、マシュマロの角に頭打ちつけて死んでしまえッ!!!」
まあ、音としては「ヴォヴァ〜〜〜〜、ぼがぼば、ぼがぼばふぉぶぱ(以下略)」としか聞こえなかったし、侍従も夜通し政務をこなしている執政閣下に常時張りついてはいない(必要なときは呼ぶからずっと横でひかえていなくていい、と言い渡したのはグントラム当人である)ため、王弟のタマシイの叫びを耳にした者はいなかったのだが。
……これが「グリュナスの鉄面皮」「不融氷晶の剃刀」「心持たぬ貴公子」と呼ばれる男だと、だれが信じるだろうか。
いや、だれも想像だにしていないのである。可憐な美少女を花嫁に迎えても、それはあくまで大陸両雄の干渉を遠ざけるための偽装結婚、やはりグントラムは鉛の心しか持たぬ政治人形、統治機械なのだと、みな再確認してしまったのだった。
ヒルトの愛らしさに式典のあいだじゅうドギマギしていたのに、いつもどおりの不遜な笑みと取り澄ました貌でいた、グントラム自身が招いた勘違いである。これまでの習い性で、心理が表情に出ないのだ。
どれだけ怯えていても、どれほど苦悩していても、内心の動揺や葛藤を表に出すことがグントラムには許されなかった。連合や帝国に弱さを見せれば、それはグントラム個人のみならずグリュナス王国そのものの終焉を意味したのだ。
グリュナス王国代表の外交官として鍛えてきた、比類なきポーカーフェイスの才能が、ここでグントラムに災いをもたらした。
グントラムの前にはこれまでどおり仕事の山が積み上げられ、彼は執政として淡々とこなしていった。片づく速度とつぎの仕事がやってくる速度はほとんど拮抗しており、グントラムが黙っているかぎり政務が途切れることはない。
ただひとこと、
「嫁とイチャイチャしたいから休む」
と言えばすむ話なのだ。
執政としてのグントラムは無能からほど遠く、彼が鍛えた官僚組織はトップ不在でも通常政務ならなんの問題もなく回していける。もっとも、グリュナス王国はここ数十年来、常時非常事態だったわけだが。
いまならべつに、王弟夫妻が2週間くらいハネムーンに行ってきてもかまわない程度の余裕はある。
……だが、初夜をすっぽかしてしまったという気後れが、グントラムを以降3ヶ月間ヒルトへ近づき難くさせていた。
そして、これまでのグントラムの印象が印象なだけに、周囲に「察しろ」というのは無理な話なのであった。
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ある日の昼下がり、ヒルトは義兄夫妻である国王オットーと王妃ディアナに招かれ、午後のお茶を囲んでいた。
豊かに波うつ金髪で青い眼のディアナと、黒い髪と鳶色の眼をしたオットーは、絵になる夫婦であった。
政略結婚ではあるが、オットーとディアナは似合いのおしどり夫婦として、国内にとどまらず広く知られるようになっており、とくにグリュナス・ブライアンス両国民からの人気は絶大である。
「お義兄さまとお義姉さまはいつもしあわせそうで、見ているだけでこっちもしあわせになります」
他意はなく、にこにことそう言っただけのヒルトに対して、ディアナは眉を曇らせた。
「ヒルト……あなた自身はいま、しあわせじゃないってこと? それはよくないわ」
「え……いえ、わたしは現状にまったく不満はないです、しあわせですよ?」
「だめよ、もっと欲張りでいいの。欠乏さえなければ、それがすなわちしあわせを意味するとはかぎらない。いまのあなたに、得られてしかるべきなのに与えられていないものは……まあ、言うまでもないことよね」
ため息をついてディアナが引っ張ったのはオットーの腕で、夫に肩を抱き寄せさせてその身にしなだれかかる。
ことさらに見せつけてくるディアナだったが、ヒルトはお熱いですねえ、とにまにまするだけで、べつに当てつけだとか思ったりはしない。
「弟はたぶん、あなたのことをけっこう気に入っているというか、はっきり好意を持っていると思う」
と言ったのはオットーで、ヒルトは意想外のことを述べる義兄の顔を見返した。
「……グントラムさまが? わたしにご好意を?」
「あいつ、いつも黒幕みたいな顔をしているけど、作り笑いのときと本当に笑っているときの見わけかたがあるんだ」
「それは……」
思わず身を乗り出して訊ねるヒルトへ、オットーはとくに意味もなく声をひそめる。
「右のほおにえくぼがあるときは、本当は機嫌が悪い。歯を食いしばっているから、えくぼができているように見えるだけなんだ」
「えくぼがないときは、本心からの笑顔でいらっしゃると」
「そう。あなたとの結婚式のとき、グントラムはめずらしく作り笑いじゃなかった。……いや、あいつが自分本来の笑いかたを忘れてしまったのは、父や、ぼくのせいなんだけど」
余人では気づけないグントラムの仮面の表情の下を察することのできる、兄弟らしい紐帯をのぞかせると同時に、オットーは物憂げに眉をひそめた。
弟に過大な負担をかけていることは、オットーとて自覚している。しかし、不向きな仕事を無理に弟とわかち合って、グリュナス王国そのものの途を踏み誤ることは許されなかった。
かつて、ふたりで夜を徹して話し合い、兄は看板に、弟は実務に徹すると、お互い承知の上で決めたことなのだ。
夫の頭をよしよしと撫でながら、ディアナは余裕あるオトナの口調で義妹に王室の女としての心得を講じた。
「王族は国と民を護り導く義務を負う。それは当然のこと。でも、その範囲の中であれば、自分の望みやわがままを叶えてもいいのよ。大陸両雄に対抗するための政略婚ではあったけれど、わたくしたちは、いましあわせだわ。ヒルト、あなたはもうすこしわがままになってもだいじょうぶ。グントラムどのにも、もちろんかわいい新妻を愛でる権利がある」
「わがままになってもいい……ですか」
ヒルトがつぶやいたところで、お茶会の舞台になっている眺めの良いテラスに、ちいさな闖入者が現れた。
国王夫妻の長女であるシャーロットだ。2歳になったばかりの王女は、立って歩けるようになってから、どこへ行くにも自分の足でなければ気のすまない独立心旺盛な面をしめしている。
「ひうのー、ひうのー」
ちょこちょことシャーロットが近寄っていくのは、両親がいるほうではなく、ヒルトの座っているがわだ。
「シャーロットさま、またあんよがおじょうずになりましたね」
椅子を立ったヒルトがかがみ込んで視線を合わせると、シャーロットは両腕を広げて抱っこをせがむ。
「ひうのー」
「どうぞ、シャーロットさま。ほーら、たかいたかーい」
叔母に抱きあげられてきゃっきゃとご満悦の娘の様子に、ディアナはついと肩をすくめた。
「シャルはヒルトにだけはべったりよねえ。わたくしや乳母たちが抱っこしようとするといやがるくせに」
歩けるようになってからのシャーロットは、転んでも座り込んでも、疲れ切って眠ってしまうまではオトナの手助けを頑として拒む意地っ張りの子になっていて、幼くしてグリュナス王国の精神を体現していらっしゃる、と廷臣たちから冗談めかして感嘆されるほどだ。
「ほーらシャル、お母さまにも抱っこさせて」
「ん〜ん」
歩み寄ってきたディアナがヒルトから抱き取ろうとするも、シャーロットは首を左右に振って叔母にしがみつく。
「シャーロットさま、お母さまがさみしいですって」
「やー、ひうのいーの」
ヒルトがとりなしても、シャーロットは意地っ張りの本性を発揮して譲らない。
「困りましたねえ」
ヒルトに抱きついて離れないシャーロットだったが、叔母の胸に揺られているうちに、おとなしくなったかと思ったらすやすやと眠ってしまった。
眠り込んだシャーロットをヒルトから引き取って、ディアナは娘のおでこにキスをする。
「これで起きたら大暴れするのよねえ。実の親相手に天使なのは寝てるときだけなんだから」
「シャーロットはヒルトを見るとすぐに飛んでくるわりに、抱っこしてもらうとすぐに寝てしまうね」
娘の髪を手ぐしで梳きながらオットーが言い、ディアナも「そういえばそうね」と安らかに眠るちいさな天使のほっぺをつつく。目を醒ましているときのシャーロットは向こう気が強いので、両親でありながらなかなか愛でさせてもらえないのだ。
「これも安眠姫のチカラなのかしら」
「え……いえ、わたしは自分自身の寝つきがいいだけですけど」
義姉にそんなことを言われ、ヒルトは困惑気味に目をしばたたかせる。自分が「安眠姫」と呼ばれていることは承知しているが、どこでもぐっすり眠れる図太い女、という以上の意味があるとは思えない。
「そんなことないわよ。あなたといっしょにいるだけで、とても心が穏やかになるもの」
「あなたの存在は、グントラムにとって大きな助けになると、ぼくも感じているんだ」
義兄夫妻から謎の信頼を寄せられていることに戸惑うヒルトをよそに、シャーロットは「安眠姫」の無形のパワーを物語るかのように、しあわせそうな寝顔で夢の国に遊んでいた。
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今晩もまた、夜半をすぎても執政グントラムは書類に向かっていた。
眉間にシワを寄せて、資料を読んでいる。
明日――いや、日は変わったので、今日の昼、ノルデヴィング連合とエルギア帝国、双方の交渉団と折衝をするのだ。
大陸に残る最後の中立国として、にらみ合う両雄の交渉窓口となるのは、グリュナスの義務であった。
仲の悪い両雄の交渉団が、一室に同席して直接折衝することはない。グリュナス王国の代表として、グントラムがそれぞれの主張と要求を聴取し、妥協点を提示する。双方が納得するまで協議という名の無茶振り地獄は終わらない。胃の痛い仕事だ。
宮殿の南北にまったく同じ規模で整えたふたつの〈正門〉から同時刻に両交渉団を迎えるところからはじまって、兄王オットーが帝国の交渉団を歓待しているあいだに、グントラムは連合の使節団と実務協議を行う。つづいて連合の交渉団がオットーの歓待を受け、グントラムは帝国の交渉団と実務協議する。
形式を重んじる帝国と、実利主義の連合、どちらの顔も立つ唯一の順番だ。
(両雄に渡すみやげはブライアンスの協力のおかげで準備できている。なんとしてもマリエカ島の中立化を達成し、大湾内での衝突を回避しなければ)
東の大山脈では、主要な7つの峠を挟んで両雄の勢力が膠着している。大陸の南北ほぼ中央部で西の大洋から切り込んでいる大湾は、物理的に両雄を隔てるもうひとつの壁だったが、当然ながら湾内に浮かんでいる島々を巡っての鍔迫り合いは激しい。
帝国はいずれ連合を攻撃する橋頭堡とするため、湾内の島々を確保したい。海軍力では優越している連合からすれば、グリュナス・ブライアンス同盟の横槍さえなければ、湾内を完全掌握するのも不可能ではないと考えている。
グントラムの見立てでは、大湾問題で完全に中立を保つのは、望ましいバランスをもたらさない。
成り行きに任せれば連合が優位に立つだろうが、そうなれば帝国は一日の長がある陸軍戦力で盛り返そうと、グリュナス王国へ通行を認めるよう強烈な圧力をかけてくるだろう。
当然、連合は帝国軍を通さないよう求めてくる、どころか、手をたずさえ合って帝国の覇権拡張主義に対抗しようではないかと、おおっぴらに共闘を持ちかけてくるに違いない。
一見、道理として正しいのは連合のようにも思えるが、巻き込まれればグリュナス王国は焦土になる。ノルデヴィング・ブライアンスの海洋同盟ならエルギア帝国を圧倒できても、帝国陸軍が弱くなるわけではないので、壁にされればグリュナスに未来はないのだ。
したがって、今回はやや帝国寄りの方策を採らざるをえない。
大湾の中立化。それも、叶うならばブライアンス艦隊を駐留させることなく成し遂げたい。現在両雄がにらみ合うのみで、島々を争って直接交戦にいたっていないのは、ブライアンスの艦隊が常駐しているからだ。ブライアンス本国から遠い湾内での補給は、グリュナス持ちで維持されている。
連合海軍が総力を挙げればブライアンスと大湾を結ぶ航路を切断することはできないでもないが、大陸の東海岸が手隙きになるため、艦隊を増強するか、東海岸の防御を固めないかぎり現実的ではない。海戦では勝てないが輸送船なら充分持っている帝国は、連合の哨戒が緩めば大山脈を迂回して揚陸作戦を仕掛けてくるだろう。
一方で帝国が湾内で主導権を得るには、連合とブライアンスが西大洋で諍いを起こし、大湾方面に隙が生じた機に乗ずる必要があった。もちろん、ただ座して待っているわけではなく、裏でこそこそと様々な工作を行っている。
三つ巴のバランスはギリギリだ。
「湾内最大のマリエカ島を皮切りに、できればコストは最小限に、非武装中立化を……」
プランをつぶやきながらコーヒーカップへ手を伸ばしたグントラムだったが、指は空をつまんだ。
「どうぞ、グントラムさま」
カップがおいてあったはずのデスクの袖のほうへ首を巡らせたグントラムへ、にっこりとマグカップを差し出してきたのはヒルトだった。いつのまに執務室に入ってきていたのだろう。
おどろいて無表情無言のまま、反射的に受け取ったグントラムは、マグカップを口へと運んだ。中身はコーヒーではなかった。
「いい香りだ。……蜂蜜が入っているのかな」
「実家から送ってきました。山のミントの蜜です」
「一度はあなたの故郷を見てみたいな。ありがとう、おいしかった。……できれば、コーヒーを一杯もらいたいのだが」
いかにも深慮遠謀を巡らせていそうな策略家めいた貌で、グントラムはホットミルクを飲み干しマグカップをテーブルにおいた。
ヒルトが自分の口もとあたりを注視していると気づいて、
「白ひげになってる?」
と訊く。思いのほかかわいらしくて庶民的なたとえに、ヒルトはふふっと笑ってしまった。
「ミルクを飲めば、だれでもおひげがつきますよ」
そういって、ヒルトはレースのナプキンでグントラムの口もとをぬぐう。実際には、グントラムは行儀よく飲んでいたので白ひげになっていなかった。もちろんヒルトが見ていたのは、夫の右ほおに、えくぼのようなくぼみができるかどうか。
ナプキンとマグカップを銀のお盆に戻して、
「コーヒーを夜分に召しあがるのはお避けください。眠りを妨げますから」
と、ヒルトはグントラムへさとすように言う。グントラムとしては、そりゃあ眠気に抗うために飲んでいるんだし、というところだ。
「明日――今日の会合はこれまでにも増して重要だ。最後の最後まで、見落としや準備不足がないか、確認しなければならない」
「正念場、大一番をひかえているときこそ、しっかりと睡眠をとって万全の体調で臨むことがたいせつです。この世界の命運を握っているのは、グントラムさま、あなたなのですから」
グントラムは意外な思いで妻の顔を見返した。いや、意外というのも適切ではなく、そもそもヒルトのことをなにも知らないのだと、いまさらながら確認させられていた。
春の夜の月のような、青みがかった銀色の眼は、やさしいがはっきりとした意志を宿している。
この娘は、自分がなぜグリュナス王国の王弟に娶られることになったのか、充分事情をわきまえている。鉛の心の自動人形だの人造人間だのと言われる男からの召し出しに、いやがる素振りのひとつもなく応じ、結婚式当日から打ち捨てられたも同然のあつかいを受けたのに、恨みに思わないどころか、形だけの夫である自分のことを案じてくれている。
「ヒルト嬢、今日の会合がまとまったら、ハネムーンに出かけないか。これまで夫らしいことをしてこなかったぶんの、埋め合わせをしたい」
「ほんとうに夫らしくないですね、ヒルト嬢って。他人行儀な」
怒ったり不機嫌というわけではない、苦笑しながらのヒルトの指摘に、グントラムはほおを赤くした。
「あ、いや、ヒルト、きみのことを妻として考えていないという意味ではなく……しかし、現に夫婦とは言い難い状態にあるのも事実であって……だからこそ、その」
「北の竜と南の虎をしつけ終わったら、ふたりでハネムーンの計画を立てましょう。いまから楽しみにしておきますね。今夜は、キスだけでがまんします」
グントラムの瞳孔が開いた。ブライアンスの王宮で同盟締結の意義について説明したときも、30万のノルデヴィング連合軍を前にこれ以上前進すれば大陸中央部の諸邦はことごとく帝国に与することになるとはったりを利かせたときも、エルギア皇帝相手に拝跪を拒否して怒号とともに8本剣先を突きつけられたときも、これほど緊張はしなかった。
結婚式のとき、ヒルトにキスはしている。しかし綿密に定められた式次第の流れの中でのことだったので、どうやったのか、覚えていない。
急に固まった夫の目をのぞき込んで、ヒルトが問いかける。
「……グントラムさま?」
「あ……いや。……キス……で、いいのか?」
「わたしのことを、妻と思っていただけているなら」
「も、もちろんだとも」
関節から油の抜けた自動人形のように、ぎこちなく椅子から立ち上がってヒルトを引き寄せたグントラムだったが、そこで妻を抱えたまま尻もちをつくように椅子へ逆戻りしてしまった。
「きゃっ!?」
「すまない、だいじょうぶか、ヒルト」
「グントラムさまこそ、重くないですか……?」
「まさか。……しばらく、こうしていいかな」
自分に覆いかぶさるような体勢のヒルトを抱きすくめて、グントラムはささやく。
「え……あ、はい」
やや戸惑い気味にヒルトが応じると、グントラムはほおずりをして、少女の繊細な鎖骨の上に口づけを落とす。びっくりしてヒルトがぴくりとふるえると、グントラムはあわてて身を離そうとした。
おどろいただけで拒絶の意思はないので、ヒルトは腕をまわしてグントラムを胸もとに抱きしめる。嫌がられてはいないと安堵して、グントラムもヒルトを強くかき抱き、いっそう身体を密着させた。
幼子のようにヒルトの胸に顔を埋め、グントラムは陶然とつぶやく。
「すごく……いい匂いがする」
「え……わ、わたし臭います?!」
「そうじゃなくて。とても……心が安らぐ、馥郁だよ」
「ふく……いく……?」
聞いたことのない単語にヒルトは小首をかしげたが、グントラムから言葉は返ってこず、穏やかな呼吸は寝息に変わっていた。
「……グントラムさま?」
ヒルトが軽くゆさぶっても、童子のように眠り込んだグントラムは目を醒ましそうにない。
「くちびるにはしてくれませんでしたね、キス」
ちょっぴり残念そうにひとりごち、ヒルトは無防備に眠る夫の鼻の頭にキスを返した。
+++++
……やわらかなベッドの中にいる、と気がついて、グントラムはがばと身を起こした。
「おはようございます、グントラムさま」
声のするほうへ首を巡らせると、すでに身繕いを整えているヒルトの姿があった。
「いま、何時だ……」
「だいじょうぶですよ、両雄の使節団が到着するまで、まだ4時間あります」
つまり朝の8時くらいということか。致命的な寝すごしではないにしろ寝坊は寝坊だな、とベッドを抜け出しかけたグントラムへ、妻より耳に馴染みが深い声が飛んでくる。
「準備くらいわれわれにお任せください。ご朝食をお召しあがりになって、朝風呂を浴びてお着替えをなさって、それからで間に合いますよ」
秘書官のひとり、マルセだった。執政官房の高級官吏として、瀟洒な伊達姿に身を固めている。
ようやく、グントラムは昨晩のできごとを思い出した。
今日の会合の最終確認をしていたところへヒルトが顔を出し、ほんのすこしの夫婦のたわむれのつもりが、妻の胸に抱かれた安心感で疲れが噴出したせいなのかなんなのか、眠ってしまった。コーヒーを飲ませてもらえなかったせいか。
ヒルトが控えの間に詰めていたマルセを呼び、寝落ちしたグントラムを運んできたのだ。ここは、グントラムの私室ではない。いままで一度も訪ねたことがなかったが、王弟夫妻の寝室として準備されていた部屋だろう。
「マルセ、どうして起こさなかった」
「いやあ、閣下のあんなしあわせそうな寝顔なんて、はじめて見たもので。寝落ちもめずらしいですけど、あれは起こせません」
あはは、と秘書官はまったく悪びれた様子もなく笑い、
「もちろん自分も、すぐに自宅へ帰りましたよ。こちらへお運びして、閣下のお召し物を寝間着に替えさせていただいたあとで。夫婦水入らずのお邪魔はしてません。いまさっき出仕してきたところですから」
と、べつにする必要のない言いわけをつけ加える。
「今日の会合で失敗は許されない。まだ資料を一度しか読んでいなかったのに……」
読み返すからもってこい、と命令しかけたところで、割って入ってきたのは女官長のモニカだった。
「ご朝食の仕度が整いましてございます」
「では、自分はこれで。閣下、のちほどまた」
これさいわいとばかり、マルセは一礼して退室していってしまう。
あらためて寝室の中を見回してみると、執政夫人付きとおぼしきメイドもふたりいる。部屋の主であるヒルトが起き出して、女官たちが仕事にかかっているからこそ、男性であるマルセの立ち入りが許されたのではあろうが。
どうしてこんなにぐっすり眠り込んでしまったのか――と釈然としないまま、グントラムはヒルトをともない、モニカに先導されて小食堂へと向かった。
小なりとはいえ王宮であるから、正餐用の大広間のほかにも食堂は複数ある。グントラムがまっとうに夫婦生活を送っていれば毎朝使っていたはずの、王弟夫妻のために設えられた部屋だ。
朝食のメニューは、執政官房隣接の食堂で官吏たちと摂っているものと大差なかった。果物が多くて、彩り豊かに見えるのがちがう点だろうか。
ヨーグルトにかかっている蜂蜜がいい香りで、昨晩にヒルトが飲ませてくれたホットミルクに入っていたのと同じ、彼女の実家から送ってきたものだろうと推測できたので、所望してひと匙多くかけてもらった。ヒルトがにこにこしながらこっちを見ている。
「……美味い」
「その蜂蜜、お気に召していただけてよかったです」
「この蜂蜜もだが、なんだか今朝は、ほかのも美味く感じる」
「毎朝グントラムさまがお召しになっているものと変わりませんよ。同じ焼き窯のパンと、同じシェフの作っているメニューです」
と言ったモニカへ、グントラムはわかっている、と肩をすくめた。
「食事をゆっくりと味わうのはずいぶんひさしぶりだ。家族と囲む食卓は、ひとしおだな」
「それはようございました」
モニカが言外に「ご理解していただけたようで」と含ませていたのだと、ヒルトは気づかなかったが、グントラムには伝わっていた。
食後にコーヒーが出てきたので、正直にほっとして、グントラムはカップをかたむけ香気と苦味を楽しむ。飲むようになったきっかけは眠気醒ましであるものの、いまはこの独特の風味が好きになっていた。夜飲んでは駄目だというだけで、禁止されるわけではなさそうだ。
「グントラムさま、決めました」
唐突にヒルトがそう言って、グントラムはカップをおいて妻の顔を見返した。
「……なにを?」
「ハネムーン、南の国に行ってみたいです」
「いいね。私も行ったことはないが、聞いた話ではすごしやすく時間の流れがゆっくりと感じられるところらしい」
「グントラムさまのお好きなコーヒーの故郷でもありますね」
「チョコレートの素も穫れる。カカオという豆なんだが、そのままだとコーヒーと同じくとても苦いそうだ」
「そうなんですか! わたし、チョコ好きです。実家にいたころは食べる機会なかったですけど、おいしくてびっくりしました」
なるほど、今日の仕事が終わったら、極上のチョコレートを持ってヒルトの部屋へ行こう、とグントラムは脳裏にメモを残した。
お茶やコーヒーを供する茶店は、最近は王都の主な通りごとに最低一軒、地方でも町にひとつはあるが、チョコレートはまだ希少品だ。
コーヒーにしても、ブライアンスとの同盟が締結されるまでは、グリュナスにはめったに入ってこなかった。南海でブライアンス艦隊との追いかけっこから逃げ切った、帝国の南方輸送船がときどきもたらすのみで、多額の関税も相まって、とんでもなく高価な逸品だった。
当時の執政官房の支出は、3割がグントラムのコーヒー代だったと知ったら、国民はおどろいたか、怒り狂ったか。もっとも、グントラムが睡眠時間と引き換えに絞り出した知謀を、軍備なりほかの手段で代えようというなら、1000倍の出費をしても足りはしないが。
輸送費用も関税も大幅に下がったいまとなっては、コーヒー一杯、お茶一杯は、溶かした金貨を飲んでいるようなものだと覚悟を決める必要はない。すっかり大衆の味だ。
ブライアンスと連合の艦隊に海路を妨害されている帝国にとっては、まだまだ高嶺の花であるが、それも、今回の交渉材料になる。
「さて……そろそろ行ってくるよ、ヒルト」
「いってらっしゃいませグントラムさま。交渉のご成功をお祈りしています」
「だいじょうぶ、ぜったいに上手くいく」
このまま世界を支配せんとするかのごとく、魔王めいた不敵な笑みを浮かべてグントラムは朝食の席を立った。
もちろん、その右ほおにえくぼはない。
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……その日、北方の竜ノルデヴィング連合と、南方の虎エルギア帝国のあいだで、包括的で広範な緊張緩和を主眼とする歴史的協定が結ばれた。
もっとも、交渉当事者たちの手記によれば、仲介役であるグリュナス王国執政グントラムの提言と主張に、両雄の交渉団は終始圧倒され、半ば握手を強要されたようなものだったらしい。
いつもにも増してグントラムの頭脳の冴えと弁舌の切れがすさまじく、なにひとつ穴を突くことができず、揚げ足も取れなかったと、帝国側の交渉団長オリベイラ公爵のぼやきが、公の従者のひとりの私的なメモに残っている。
条文を手前勝手に解釈し直すことで、不本意な和解はいずれご破算にできるだろうと引きあげた両雄交渉団だったが、グントラムの提示した妥結案は悪いものではなく、武力に訴えることで得られる権益が、非武装中立を守ることでグリュナス・ブライアンス同盟から提供される利得より大きくなるとは思えないものであった。
連合はブライアンスが保有する複数の港湾への寄港権を認められ、西大洋航路の安全がより高まった。
帝国は非武装商船であれば南方大陸とのあいだを往来するにあたって航海中の安全を保障され、これまで3隻中2隻はブライアンス艦隊に拿捕されていた状況から、大幅に海洋交易の安定度が増した。
連合、帝国ともに海外交易の増進によって国内経済も発展し、社会階層を問わず、人々の関心は争奪から共栄へと移っていくことになる。
両雄の首に鈴をつけるという大仕事を終えたグントラムは、約束どおりヒルトとともに南洋へハネムーンに出かけた。
小麦色に陽焼けして帰ってきた義弟夫妻を見て、王妃ディアナが「わたくしも南の海に行きたい」と言い出し、それをきっかけにグリュナスとブライアンスでバカンスブームが巻き起こる。
最初のうちは富裕層にかぎられた贅沢だったが、旅客分野に商機を見出した複数の船舶運行業者の参入と、はるばる別大陸や絶海の孤島まで出かけなくても南洋気分を味わえる手近な保養地の開発によって、じょじょに多くの人々に楽しまれるようになっていった。
連合と帝国にもバカンスブームは広まっていき、行楽産業の隆盛には広範囲での政情安定が必要とされるがために、恩恵を受ける人々のみならず、政庁にとっても平和を維持する動機のひとつとなる。
もちろん、連合、あるいは帝国で、不穏な策動がうごめくたびに、グントラムが素早く手を回して危機を事前に摘み取りつづけたことこそが、平穏を長く保つにあたって最大の効力を発揮したのだ。
歴史に永続する平和はない。しかし、史上空前の破局をもって終わるのではないかと不吉にささやかれた、ノルデヴィング連合とエルギア帝国の対峙は、両雄が存続するあいだに全面戦争を迎えることはなかった。
・・・・・
グリュナス王国の執政グントラムは、独身のころ「眠らずの君」と異名を取り、夫人ヒルトとの結婚後もしばらくは夜を徹して政務をこなしていたが、南洋へハネムーンに出かけて以降、仕事が立て込んでいてもきちんと寝むようになった。
1日に18時間は政務にあたっていたのが、だいたい半分になったが、以前は執拗に再確認や見直しをしていたところを即決し、グントラムのこなす仕事量は結果的に変わらなかったという。
これは、後世の知見からすれば、無休で根を詰めて仕事をするより、適切な休息を取ることでパフォーマンスが良くなったのだと説明できる。
「安眠姫」ヒルトは、科学的根拠にもとづいていたわけではないながらも、夫を正しい生活習慣へ導き、グリュナスに安定と発展をもたらした。
グントラムとヒルトは国王オットーから公爵と公爵夫人の称号を贈られ、ふたりの血筋は長くグリュナス王統を支え、表看板の王家と実務の公家という両輪体制は、ノルデヴィング連合とエルギア帝国が史書の中のみの存在となって以降もつづいた。
どんなときでも黒幕じみた不敵な表情を浮かべているグントラムだったが、ヒルトの前では「とてもかわいい」顔を見せていたという。
取りつくろいのない「グリュナスの鉄面皮」の真の笑みは、ヒルトのほかには、実兄オットーだけが知っている顔であった。
おしまい