妹に何もかも横取りされている転生した悪役令嬢の私と婚約破棄しようとしてももう遅い
「リタ・アンゲルス、お前との婚約を破棄する!」
パーティー会場に響く王太子の声。彼が抱き寄せているのは大きな瞳にこぼれ落ちんばかりの涙をたたえた庶民の娘。
パーティーに参加していた人々は一瞬息を呑み、それから王太子の婚約者であるリタに視線を送った。
リタはいつものように、あらゆる感情をその美しい顔で覆い隠そうとした。しかし今日ばかりは、彼女の瞳からは諦めと絶望の入り混じった叫びが聞こえてくるようで――
そこまで読んで、私は手紙から顔を上げた。
「納得いかない」
「そう言われましても」
手紙を届けに来た王家の使いである青年は、早く帰りたいという感情を少しも隠そうとしない表情で言葉を返した。
春先の侯爵家の中庭に勝る美しさはこの世にあるのか。私はきれいに整えられた低木を見渡し、つるバラの絡みついた東屋の屋根を見上げ、心を落ち着けようとした。しかし自然の美しさをもってしても私の心は全く落ち着かなかった。
「大体、婚約破棄するっていう大事な要件を手紙で伝えてくるってことが納得いかない。それに婚約破棄の手順にここまでこだわってるのも納得いかない。極めつけはこれよ。『彼女の瞳からは諦めと絶望の入り混じった叫びが聞こえてくるようで――』彼私の演技力がどれほどのものだと思ってるの? プレッシャーに押しつぶされそうよ」
彼のことだから息を呑むパーティーの参加者とやらには数人の役者を紛れ込ませておくのだろう。プロの仕事に囲まれながら素人の私に目だけで語れと? 何て残酷な男なんだ。
「そう言われましても」
使いの青年は本当にもう帰りたいのだろう。私が何を言っても喋る鳥のように同じ言葉を繰り返すだけである。
東屋の屋根で休んでいた小鳥がピィと鳴いて飛び立っていった。それを合図に私は立ち上がった。
「行くわよ」
「行く? 行くってどこへ?」
ようやく会話のキャッチボールをする気になった青年が、驚きこちらを見上げ尋ねる。私は愛する婚約者からの手紙を彼の目前に掲げた。
「あなたも知っているはずよ。彼、本当は私のことが大好きなの。私のことを愛してるの。私がいないと生きていけないの。そんな彼がこんな手紙を送ってくるなんて、きっと私には言えないトラブルを抱えているに違いないわ。だから、これから彼のことを尾行して、真相を突き止める!」
「一人で行ってくださいよ」
「私とあなたの仲じゃないの」
「私の名前も覚えていないでしょう」
足と腕を組み、ここから絶対に動かないという強い意思を見せる青年を前に、私はため息をついた。それから一枚の金貨を取り出し、思わせぶりに手のひらに乗せて、もう片方の手を頬に当てた。
「まぁ、こんなところにお金が。邪魔だわ、どうしようかしら」
「お供しましょう」
一秒と数えることなく立ち上がった青年に、私は「よろしく」と言って金貨を渡した。
私たちは政略的に婚約をした関係だったけれど、それでも私は彼のことが好きだった。彼は子供の頃から愛想がなく無口で、愛の言葉など囁かれたこともなかった。だけど、手紙のやりとりでは、彼は本当の顔を私に見せてくれた。再び会える日が待ち遠しい、君は世界一美しい、木陰に引き込んでキスしたい、そんな言葉を惜しむことなく文字にして贈ってくれた彼に、心を奪われないなんて無理。普段の彼の態度が冷たければ冷たいほど、私の心は燃え上がった。これはまさしく真実の愛だと、私は確信していた。
「真実の愛ねぇ」
狭い馬車の中で同乗者のことを鼻で笑ったら、その事実をごまかすことはまず不可能だと思ったほうがいい。彼の場合は、はなからごまかすつもりがなかったのだろうが。私は隣に視線を向け、純粋な疑問を投げかけた。
「あなたもそう思うでしょう? 子供の頃から私と彼のことをそばで見てたんだから。隠しきれない愛を感じ取っていたはずよ」
「あなたは確かに殿下にぞっこんでしたが、殿下の方はどうだか。あの人自分以外に興味がないんで」
「まぁ! それでも彼の従者なの? 彼は愛情深くて頭が良くてユーモアのある最高の人よ。手紙を読めば分かるわ」
ムキになって主張すれば、青年は呆れたような面白がっているような、簡単に言えば私から見て癇に障る表情を向けてきた。
「本当に殿下以外に興味がないんですね。私はあの方の従者じゃありません。召使いです。雑用全般押し付けられてる、下僕よりももっと下の位置にいます」
「まぁ、ほんとに? だって、いつも一緒にいたのに」
「たまたまでしょ」
私はいったん正面を向いて納得したふりをした。しかしどうしても気になって、再び隣に視線を戻した。
「あなた誰なの?」
「やっと興味が湧いてきました?」
「素性の知れない人間が、大事な彼の近くをうろついてるなんて恐ろしくて」
「そうですね、詳しくは言えませんが、王家の中の、誰かの子です。要するに、公に出来ない関係の間に生まれた子供ってことです」
「まぁ……」
「害はありません。誰も憎んでないし。そりゃあ隠されてるってのは気分のいいものではありませんし、子供の頃は悩みもしましたが……」
「まぁ! あれ見て!」
「なんですか? 人がせっかく心に秘めし闇を打ち明けようとしてるって時にどうかしました?」
「彼がいた」
「まぁ」
二人で馬車の窓際に寄って外を見る。王立劇場からぞろぞろと現れる王太子とその一行。彼の隣には社交界の華と称される伯爵家の令嬢。
「どうして彼女が彼の隣に?」
「今日は彼女にしたみたいですね」
「今日は?」
「さぁ気が済んだでしょう。私も早いとこあそこに合流しなくちゃならないんで、もう解散ってことでいいですか」
「まぁ、こんなところに金貨が」
「あー」
彼はうんざりした顔で金貨を受け取り、私たちは王太子一行を乗せた馬車を追った。彼らは宝石店の前で停車し、彼は伯爵令嬢と連れ立って店の中に入り、十数分後、仲睦まじい様子で出てきた。私の婚約者は、私の手を握るべきその手で、私の指にはめるべき指輪を、私ではない伯爵令嬢の指にはめ、それから二人は周囲の目もはばからず熱い口づけを交わした。
「何、あれ。ねぇ、どういうこと? あれ」
「慰めになるかは分かりませんが、初めてのことではありません」
「私手紙以外何も貰ったことない……」
「慰めになるかは分かりませんが、あの方は愛を綴った手紙を、誰にも送ったことがありません」
何ということだ。彼はあの女に誘惑され騙されているんだ。何てかわいそうなの。私が助けてあげなければ。真実の愛の力で!
「やめた方がいいと思いますけどねぇ」
「はい金貨」
「どうも」
私たちは引き続き王太子一行を尾行することになった。移動中の馬車の中で、召使いの青年がふいに口を開いた。
「ところで、真実の愛がこの世にあるとすれば、それはキルクルス夫妻に最もふさわしい言葉だと思います」
「キルクルス夫妻? 公爵家の?」
「そうです。彼らは転生者なんです」
「転生者?」
青年は熱っぽく語り始めた。彼いわく、キルクルス夫妻は前世でも恋仲であり、現世と同様結婚する予定だった。しかしキルクルス夫人の実家はとてつもない悪徳一家だった。現世の公爵は前世では、彼女の一家を破滅させるためのスパイであった。公爵の活躍により一家は処刑され、公爵は心優しい庶民の娘と結婚し幸せな一生を終えた。そして二人は全く同じ名前同じ身分同じ状況の世界に転生し、キルクルス夫人だけが前世のことを覚えていたのである。
「夫人は同じ悲劇を避けようと堅実な生活を送り、一家を立て直しました。彼女の奮闘はリタ様もご存知でしょう」
「ええ、風のうわさで……」
「そんな彼女の健気な姿に心打たれた公爵は、彼女に恋をし、二人はめでたく結婚したというわけです! 運命にあらがい打ち勝った、これこそ真実の愛です!」
「確かに公爵の溺愛っぷりは有名だけど、でもどうしてあなたがそんなこと知ってるの?」
「本で読んだんです」
「本になってるの?」
「夫人が自分の経験を小説にしたんです。彼女庶民の生活を少しでも楽にするために出版社を立ち上げてビジネスを始めて」
そういえば以前お茶会でそんな話を聞いたことがあるような。私はこの話にそれほど興味が無かったが、彼は夫人の小説が相当気に入っているらしい。何も聞いていないのに話をやめない。
「これはあとがきで判明することですが、夫人は実は、ニホンという国に住むアラサーという人で、前世で読んでいた小説に出てくる悪役令嬢に転生し……おっと、ネタバレは良くないですね」
「いいわよ別に読まないから」
「読まない? 本当に?」
そうこうしているうちに王太子一行は美術館の前に馬車を停めた。私たちも馬車を降り、彼らを尾行する。美術館の中で彼は、伯爵令嬢と隙あらばイチャイチャしていた。私には笑顔の一つも見せてくれたことなどなかったくせに、彼女とは楽しそうにして、耳元で囁いたりしちゃったりして。
「もう帰りません?」
気遣わしげに問われるが、私はこんなことではへこたれない。私の彼への愛はこんなものではない。
「真相を掴むまで帰らない。きっと彼は嫌々彼女につき合わされて……あら、まぁ……」
そこまで言って、私は気づいた。とんでもないことに気づいてしまった。
「どうしました?」
「私……悪役令嬢だった……」
「は?」
「そうよ、それなら全て説明がつく。あー、思い出してきた思い出してきた」
そう、私はアラサーという国でニホンという名前で暮らしていた。そんな気がする。そして当時、馬車で舞踏会に行く途中、小説を読んでいたと思う、現世の私と同じように。その小説の登場人物に転生したのだ。悪役令嬢に!
「嘘だぁ」
「ほんとよ。覚えてるもの。きっと彼は私を破滅させるためのスパイなんだわ。だけど私のことを愛するあまり役目を全うすることができず、わざと嫌われようとこんなことを。婚約破棄を突きつけられるように仕向けてるの、私の名誉を守るために。だからあんな手紙を送ってきたのよ。怒らせようとして」
「筋は通ってるような気もしなくはないですが、あなたのご両親はとても堅実で善良な方ですよ。侯爵家は評判いいですし、破滅させられるとしたらどちらかというと殿下の方……」
「何てこと言うの!」
「しっ!」
青年は私の口を塞ぎ美術品の影に隠れた。宗教画の前でいちゃついていた王太子と伯爵令嬢は、こちらを一瞬振り返ったけれど、結局私たちには気づかなかった。
美術館をあとにし、再び馬車の中へ。青年は本格的にこの状況から解放されたくなったようで、真剣な顔で私に提案してきた。
「もうこんなことやめましょう。無駄な希望を持つよりも、ざまぁする方がよっぽどあなたの人生のためになりますよ」
「"ざまぁ"って何?」
「……ざまぁをご存知ない?」
青年は異界の生物でも見るような顔で問うてきた。まぁ無理もないだろう。私は転生した悪役令嬢だ。
青年の話によると、ざまぁとは他人を尊敬できなかったり裏切ったりするような人間に対する、あらゆる形の制裁のことを言うのだという。最近そのような内容の小説が流行っているそうで、制裁の内容は主に、成功して見返す、相手が困っていても助けない、というようなものであるようだ。ロマンス小説であれば、浮気や不倫をされた主人公が隣国の王子に愛され幸せになる、とか、あるいは婚約破棄を機に主人公の女性が魅力ある殿方にアプローチされるようになり、それを見た元婚約者が自分の本当の気持ちに気づき、改めて主人公を大切に扱うようになるといったものが多いという。私は話の途中から、あることに気づき愕然とした。
「まぁ、大変……」
「何がです?」
「それだわ」
「それとは」
「彼、私にざまぁされたいんだわ」
「は?」
そうだ、どうしてもっと早く気づいてあげられなかったの? 彼は間違いなく私のことを愛しているけど、でも子供の頃から照れ屋でぶっきらぼうで素直じゃなかった。私に優しくしたくても、プライドが邪魔してできなかったに違いない。だから私にざまぁさせて、それをきっかけに目が覚めたという体をとることで、私に心置きなく愛を囁けるようになりたいのだ。本当は私のことをあの伯爵令嬢みたいに扱いたいに違いない。
「なんか……涙が出てきました」
「まぁ、大丈夫?」
私は青年にハンカチを差し出すが、彼は別に泣いていなかった。
王太子一行は王城に向かっていた。つまり青年の職場である。
「探偵ごっこもこれで終わりですね。意外と楽しかったです。お疲れさまでした」
「まぁ、まだ終わってないわよ。あなたはこれから、王城に帰った彼があの女と何をするのかこっそり観察して、私にそれを報告するのよ」
「冗談ですよね」
私は返事の代わりに金貨を取り出し、青年の目の前に掲げて見せた。
「次から次へと……。前世は悪役令嬢じゃなくて手品師じゃないですか?」
「彼への愛が私をこんなふうにさせるの。私の彼への愛はもはやとどまるところを知らないわ。だから今さら婚約破棄なんてもう遅いの」
「もう遅い?」
金貨を受け取り馬車を降りようとしていた青年は、私の言葉に奇妙な反応をして動きを止めた。
「どうかした?」
「いえ、別に」
青年はそのまま王城へと向かった。
私はしばし馬車の中で待機する。逃げると思っていたけれど、青年は三十分と待たず戻ってきた。
「どうだった?」
「殿下とご令嬢は二人でお茶を飲んでいました。政治について熱心に語り合っています」
私は青年の顔をしばらくじっと見つめたあと、ため息をついた。
「嘘よ」
「やっぱり政治の話っていうのはやりすぎでした?」
「目が泳いでた」
「いや、それは顔が近かったせいです」
もう一度ため息をつき、頬杖をついて窓の外を眺める。さんざん振り回された哀れな青年は、隣でなすすべなく狼狽している。
「本当のことを聞きたいですか?」
「いい、もう帰る。あなたも帰っていいわ」
そう言っても、青年は一向に馬車を降りようとしなかった。私は少し不思議に思って、彼の方を見た。
「お金欲しいの?」
「いえ、屋敷までお供しますよ。どうせ暇なんで」
どん底にいるときこそ、人の優しさが心にしみる。私は御者に発車するよう伝え、そして青年に心からの礼を伝えた。
「付き合ってくれてありがとう」
「礼にはおよびません。人を遠くから観察するのって、好きなんで」
まぁ、なんて下手な気遣いなの。私は彼の不器用な優しさに思わず笑ってしまった。彼は気にすることなく、明るい声で言った。
「リタ様もあまり気を落とさぬよう。どんな風に浮気をされようとも、カーラ様よりはましですから」
「カーラ様? 隣国に嫁がれたあのカーラ様?」
「はい。カーラ様は生まれたときから妹君に、親の関心も友人も大切なものを何もかも奪われて生きてきました。最終的には婚約者まで。しかし彼女は隣国の騎士に見初められ、二人は今幸せに暮らしています」
「ざまぁしたのね」
「その通りです」
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「本で読んだんです。カーラ様は自分の経験をキルクルス夫人の出版社に寄稿なさったので」
「本を読むのが好きなのね」
「書くのも好きです。でもなかなか上手くいかなくて。熱心な読者は一人だけいるんですけど」
「まぁ、ではその方を大切にしなくてはね」
「そのつもりです」
話していて、私はふと気づいた。いやそんなはずはない、と思いながらも、しかしどう考えても、そうなのだ。
「……どうしました?」
探るような顔で尋ねられ、私は恐る恐る、隣を見た。
「気づいちゃった」
「へぇ、何に気づいたんですか?」
「落ち着いて聞いてね。私にも、実は、妹がいるの」
一言ずつはっきりと、事の重大さが伝わるように声にする。青年はゆっくりと瞬きしたあと、口を開いた。
「もはや尊敬し始めている自分がいます」
「本当よ、両親に愛されて、世間にも愛されてる妹がいるの」
「知ってます。希代の才能を持っていると言われてる彫刻家の妹さんでしょ。あなたより有名人じゃないですか」
「そうよ。つまり、だから、妹が私の婚約者を奪おうとしてるのよ」
「目を覚まして下さい。何のつじつまも合っていません」
肩を持って揺さぶられて、私は少し冷静になった。確かに、妹は彫刻にしか興味がなく私の婚約者が誰なのかすら認識していないということもあり得るほどである。それに、私の両親の姉妹に対する扱いに大きな差は無い。強いて言えば妹は創作に行き詰まると人格が変わるので、その分彼女に対して家族全員が慎重に接しているくらいである。
しかし、どう考えても納得いかない。彼は絶対に私のことを愛している。それ以外の考えを受け付けられない。絶対に相思相愛のはずなのだ。
屋敷に着いて、私は青年をお茶に誘った。日が傾き橙色に染まった美しい温室で、私は木箱に詰まった手紙の束を彼に見せた。
「読んで」
「いいんですか?」
「読書家のあなたならきっと分かるわ。彼がどれほど私のことを愛しているのか」
いや、読まずとも彼なら分かるはず。幼少期から、この愛を綴った手紙を何度も何度も私に届けに来てくれたのは彼なのだから。だけどやっぱり、中身を見ないことには分からないこともあるだろう。私はお気に入りの一つを手に取り、中身を広げて青年に見せた。
「ほら、この字見て。素敵でしょ? この字が大好きなの。彼、私の手を握ってみたいって、誰にも触らせないで欲しいって手紙で言うの。でも、私が手袋を外してそばに立ってても、一度も手を握ってくれたことがないの。恥ずかしかったのね。可愛いと思わない?」
また別の手紙を開いて、広げて見せる。
「これは社交界デビューする前の手紙。私と踊りたいけど、立場的に無理だって書いてある。彼真面目だから、結婚するまで私と踊っちゃいけないと思ってたのかも。でも結局踊ったのよ。その後しばらく手紙が届かなくなった。照れてたのね」
私は休みなく話し続けた。風邪をひいたときに、早く元気になるようにと美しい詩を作って贈ってくれたこと。署名にはいつも本名ではなく"サニア"という名前を使い、それは私と彼の間だけで通じる、彼の秘密のミドルネームであること。
話している途中で、私は涙が止まらなくなった。
「大丈夫ですか?」
優しい声で問われて、私は余計に悲しくなった。
「私、悪役令嬢じゃなかった。両親に愛されて妹にも何も奪われてなくて善良で堅実で優しくて天使のようで誰からも好かれるタイプの女だった。こんなの、こんなのあんまりよ……!」
私が悪役令嬢でなければ彼が浮気していることの説明がつかないのに!
悲嘆に暮れる私の前で、青年はのんきな顔でお茶を飲んでいる。
「そんなに殿下が好きですか? そりゃ、身分も高いし、金持ちですが、そんな奴他にもいくらだっているでしょうに」
「私は彼の心や言葉に惹かれてるの! 他のことなんて、どうだっていいわ!」
「本当にぃ?」
「本当よ! 私は身分なんて気にしない!」
身分と金ならもう持っている。これ以上はいらない。あと必要なのは彼だけなのだ。熱弁する私に、青年は「はいはい」と適当な相づちを返す。
「手紙でも書いたらどうですか? 今の気持ちを素直に伝えるのが一番だと思いますよ」
「……今は何もしたくない気分なの」
「では私が代わりに書きましょう」
勝手なことを言って、彼は使用人に声をかけインクとペン、便箋を用意するよう頼んだ。私は失意に沈んでいて、彼の行動をぼんやりと眺めることしか出来なかった。どうせ字で私じゃないとバレるのに、と考えていたら、あることに気づいた。私は這いずるように机に身を乗り出し、彼の手元に顔を近づけた。
「どうしました……?」
手元に顔を近づけられてペンを持つ手を動かせなくなった青年は、やむにやまれずといった態度で尋ねてきた。私は顔を上げ、至近距離で青年の顔を見た。
「おかしい。変だわ」
「頭が?」
「文字が」
私は愛する婚約者からの手紙を、彼が今記している手紙の隣に並べた。
「これ、あなたの字よ」
私はそう言ってすぐ、本能のようなレベルで、自分の発言を後悔していた。青年はにやりと口の端を上げ、ペン先でコッコッと書きかけの手紙を叩いた。それは何かのカウントダウンのようで、私を落ち着かない気分にさせた。
「さぁさぁ、現実を受け入れる時です」
「つまり……あなたは……」
「いいですね、その調子です。つまり、私は?」
「つまり……あなたは……彼の代筆をしていた?」
「違います」
ピシャリと不正解を言い渡され、私はいよいよ平静を失った。ちょっと待って、私はいつから、この手紙が婚約者からの恋文だと思っていたの? だって、私の婚約者の世話をしている男の子が渡してくれた手紙の内容が、私への好意を綴ったものだったら、誰だって婚約者からの手紙を届けてくれたんだって思うでしょ? この大量の恋文の差出人は間違いなく――
「サニア」
「はい」
正面から返事が聞こえる。私はゆっくりと彼の顔に焦点を合わせる。
「サニア?」
「何ですか?」
嬉しそうに尋ねてくる青年の顔を見て、私は思わず、腰を抜かした。椅子に座っていたから彼には分からなかっただろうが。
やばい、こいつやばくないか? だって私が勘違いしていることを分かった上で、誤解が解けないような内容の手紙を十年以上、私に向けて書き続けていたということになる。そんなことして何になるの? 何のためにそんなことをするの?
「どうしてこんな手紙書いたの? 私と彼の、婚約破棄の台本とか……」
「書いたらどうなるかなーと思って」
しれっと言ってのけるサニアを見て、私は逆に冷静になる。
「そういうの何ていうか知ってる。サイコパスでしょ?」
「あなたも結構才能ありそうですけどね」
何でこの男はこんなに楽しそうなの? 自分が何をしたか分かっているの?
「私がこの手紙を真に受けて、彼と婚約破棄するなんてことになったら、どうするつもりだったの」
「手紙を最後まで読めば分かります。あなたは颯爽と現れた隣国の貴族にプロポーズされますよ」
「あなた隣国の貴族なの?」
「何代かたどればそうでしょうね」
鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌良く、サニアは私の質問に答えている。危険だ。こいつはちょっとおかしい。私は内心パニックだったが、表面では上手く取り繕って、巧みに冷静さを装った。
「サニア、今までこんなにたくさんの手紙を書いてくれてありがとう。でも、もう終わりにしましょう。こんなこと良くないわ」
サニアは静かにペンを置くと、椅子の背もたれに片肘を乗せ、足を組み、まるで悪魔が生贄にでも向けるような、不敵な笑みを浮かべた。
「終わりに? なぜ?」
「私は婚約してるし、こんな手紙を書いてることが王家にバレたら、あなたもただではすまないし」
「意外と臆病なんですね。あなたは悪役令嬢だったはずでは?」
「私たち、身分が違いすぎる」
「身分なんか気にしないんでしょう?」
駄目だ。話が通じない。それ以前に、怖すぎる。罠にかかったネズミの気持ちはこんな感じだと思う。
しかし私は知性と機知とを備えた侯爵令嬢。誰もがあっと驚く斬新な方法で危機を乗り越えてみせる。
「お金欲しい?」
「いりません」
私の持てる経験と知識の全てを投入した切り札は、一秒で封じられた。本格的に冷や汗が出てきた。
「金貨の一枚や二枚じゃないわ。私の持ってるお金も、土地も、全財産あげるから。お願いだからこれ以上私と関わらないで」
惨めに懇願しても、彼は首を縦に振らない。それどころか、余計に嬉しそうな顔をする。
「いりません」
さすがにちょっと感心する。金にもなびかぬこの強い意志。今まで金につられて私の言うことを何でも聞いていたくせに。
「それほどまでに私のことを愛しているというの?」
「結婚すれば全財産は手に入ります。全財産イコール全財産。簡単な数学です」
「今結婚って言った?」
「するでしょ? 結婚」
「まぁぁぁぁぁ……」
両手で頬を押さえ、途方に暮れる。サニアは相変わらず楽しそうな顔をしたまま、机の上に広げていた手紙を全て、片手で払って落としてしまった。
私はバサバサと落ちていく手紙を無意識に掴もうとした。私の宝物。私を幸せにしてくれる言葉たちが汚れてしまう。
何とか一枚掴めそうだったのに、その手を奪われた。誰に奪われたかなんて確認するまでもないが、見ないわけにもいかない。正面を見れば、机の上に座って私を見下ろしている憎たらしい顔。とっさに立ち上がって逃げようとしたけれど、手を握られているので動けない。手紙を封筒から取り出すために手袋を外していたことを後悔する。
「まだ分かっていないようですね」
握っている手をぐいと引かれて、顔が近くなる。サニアは私の目をまっすぐ見て、まるで私を催眠にかけるみたいに、一言一句はっきりと告げた。
「あなたは、私のことが大好きだ。あなたは、私のことを愛している。あなたは、私がいないと、生きていけない」
一言聞くたびに、手紙の中の想い人と、目の前の人物が重なっていく。それを見透かしているみたいに、サニアは満足げに笑った。
「だから、もう遅いのでは?」
今彼の瞳には、諦めと絶望の入り混じった叫びが聞こえてくるような、私の瞳が映っているだろう。