渓谷の村(1)「羊、医者」
空の都から逃げた空賊たちは雲に覆われた渓谷に向かった。空賊たちが帰還すると、ほんの僅かの間だけ雲が掻き消えて、渓谷を形成する山の急斜面に築かれた木造集落が現れた。これが渓谷の村であった。
数十名もの男たちが木組みの広場に降り立つと、足場は恐ろしげにぎしぎしと軋んだ。カミットたちも無事に到着し、ネビウスとも合流して、無事に逃げられたことを喜びあった。カミットはまっさきにネビウスに尋ねた。
「ネビウス! あの雲はなに!?」
あちこちの家の上を縄に繋がれた白い塊が連なってふわふわと浮いていた。
「ヒツジよ。羊毛は風の精霊を蓄えるから、ああして浮かぶの」
「空賊なのに羊飼いなの?」
「羊を飼えば誰だって羊飼いよ」
「そっか!」
親子が呑気に話していると、空賊はバルチッタを取り囲んで、ぼこぼこに殴り始めた。ネビウスは割って入って、殴る蹴るを止めさせた。
「どうしちゃったのよ。無事に帰れて良かったんでしょ」
ならず者のブート人は我慢ならない様子で叫んだ。
「そいつの儲け話に騙されて、浮船を失った。たった二隻しかなかった内の一隻だぞ!」
「あらまァ。気の毒ね」
「串刺しにする!」
「あんたたちってそればっかり。いいかげんにしなさい!」
ネビウスは蹲っているバルチッタを庇って立った。空賊は罵声を浴びせて、ネビウスに殴りかかりそうなほど怒っていた。そうして大騒ぎになっていると、ブート人の年老いた男が従者を連れてやってきた。空賊は静かになって、その老人に道を開けた。この間にバルチッタはひいひい言いながら、よろよろと立ち上がり、ネビウスに縋り付いた。老人はゆっくりと歩いてきて、ネビウスに言った。
「燃えるような赤髪と褐色の肌の乙女、炎の賢者ネビウスか」
ネビウスは頷いた。
「あんたが村長?」
「ムームルだ。私が渓谷の村の長である」
「私はあんたの村の間抜けな男たちを助けてあげたの。感謝してちょうだい」
「私はお前をもてなさねばならぬようだ」
「愚か者のバルチッタのことなんだけど」
「お前様の好きにせよ」
「助かるわ。彼はまだ使えるかもしれないの」
男たちに家に帰るように命じられた。本来であれば船を失って逃げ帰った者たちには相応の罰が与えられるはずだったが、今回はお咎めなしであった。それから、集落に損害を与えた他所者は串刺しと決まっていたが、バルチッタも許された。
村長のムームルは村の利益を考えていた。彼はネビウスに感謝してこのような対応をしたのではなかった。彼にしてみれば、たった一隻の船の犠牲で炎の賢者ネビウスをこの集落に招けたことが僥倖なのであった。
村長の家でネビウスたちは歓待を受けた。羊乳酒を飲み交わしながら、ムームルはネビウスに言った。
「私がまだ若かった頃、おまえ様はこの村に来た」
ネビウスは首を傾げた。
「覚えちゃいないけど、そうなんでしょうね」
「ネビウスに教えられたことがあったから、俺はここに来れたのさ」
バルチッタはすっかり立ち直っていて、上機嫌で酒を呷っていた。
大人たちがしっぽりやっている横でカミットは羊肉をがつがつと食べた。それから、興味を引かれて、羊乳酒を舐めてみた。これは彼にはまだ早くて、舌先から伝わる苦味と鼻を突き刺す臭いで気絶しそうになった。何とか堪えても、頭がくらくらして眠くなり、ミーナの膝枕で寝てしまった。
ネビウスは宴会を少し早く切り上げて、カミットを背負って寝室まで運んだ。同じベッドで寝なくなってからしばらく経つが、寝ぼけていたカミットはネビウスに張り付いて離れなかったので、この晩は親子で一緒に寝たのであった。
※
渓谷の空にポツポツと見えるとても小さな雲は実は空に浮かぶ羊であった。彼らが食べるのは空を回遊する浮遊植物であり、日中はこれらを求めて空を漂う。
羊たちがふわふわ、むしゃむしゃとやっているのをネビウスは村から見上げて観察した。
「どの子も元気そうに見えるけどね」
ムームルによって遣わされた羊飼いの男が言った。
「病にかかった個体は見つけ次第殺しているのだ」
「正しい判断よ」
「しかし根絶できていない」
「若くて丈夫な子だと病を持っていても症状が出ないのよ」
「呪術師の祈祷は役に立っているのか?」
「一応やらしておきなさい。彼らのおかげで何かを防げているかもしれないのだし」
村の主産業である牧畜にとって、羊の流行り病は大敵であった。近頃は特に酷く、例年に比べて羊の飼育数が六割ほどまで減っていた。ネビウスは病の羊を見つけ出すことを期待されていたが、羊の数は谷全体で千頭近くいて、一人や二人で調べ尽くせるはずもなかった。
ネビウスは病にかかった羊を見に行った。専用の屠殺場に運ばれていくぐったりとした羊は空を飛ぶための加護も失い、男たちに引きずられていくのであった。ネビウスはバルチッタを呼び出して、彼と一緒に羊たちの病状を観察した。村の羊飼いは病の羊を怖れてできるだけ触れないようにしているが、こういったことにはバルチッタは怯まなかった。彼は呼吸が浅くなっている病気の羊を口や鼻や目を指で触診しながら確信を持った様子で言った。
「やっぱ呪いの感じじゃねえよな」
「正解」
隣で別の羊を診ていたネビウスが言った。バルチッタは片方の眉を吊り上げた。
「師匠面すんな。途中で放り出しやがったくせによ!」
「甘えんじゃないわ。あんたみたいな愚図の根性なしを五年も面倒みた私の忍耐を知るべきよ」
「けっ! 俺を破門したことを後悔するぜ」
「今ん所、あんたを弟子にしたことを後悔しているわ」
かつて師弟であった二人は一緒にいる時間が増えると口喧嘩が絶えない。それでいて仕事を終えれば、夕飯を囲み、酒を飲み交わした。バルチッタはかつて青年であった頃にネビウスから医術を伝授されていた。
伝統的なブート人集落では呪術師が祈祷することで病や怪我を治そうとしてきた。それでいて外部の医者を信用しないわけではなかった。評判が広まると、住民がバルチッタに体調の相談をしに来ることがあった。ネビウスにはムームルが偉大な仕事を頼んでいると噂になっていて、つまらないことならその弟子の方に相談しようとなったわけである。バルチッタはこういった人々を罵倒して追い返した。
「俺は商人だ! 治療を受けたきゃ賄賂を持ってこい!」
ネビウスは「ケチな男」と言って呆れた。バルチッタがやらなくとも、ネビウスは診断や治療を受け付けた。ネビウスが村人から愛される一方、バルチッタはますます嫌われるのであった。
終わりの島全域におけることであるが、医者職を名乗れる者は稀な存在であった。職人組合の掟により、古の民の弟子として修行を積んだ者しか認められなかったからである。そうであれば儲かりそうなものだが、職人組合は治療の報酬を極めて低く定めていて、治療行為そのものでは通常は営利活動が成り立たなかった。そういった背景があり、バルチッタがかつて初めて犯した掟破りは治療行為に伴う賄賂の授受であった。
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