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ネビウスクロニクル  作者: 石井
空の都編
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狼の森(8)「苔の呪い子」

 湖面に不気味な蕾が浮かんでいた。それは極端に大きかったし、突如として現れたことが人々の恐怖を煽った。村人は岸に集まって、その蕾がどのような花を咲かせるのか、恐れて見守っていた。火の矢を放ってみても、蕾の表面が湿った苔で覆われているせいで燃やすことはできなかった。ヨーグ人が水中から近づくと、蕾の根が動いて突き刺そうとするので、大変に危険であった。


 こうして対処のしようがなくなっていると、今度は村を堂々と突っ切って、苔の守り子がオオカミの群れを率いてやってきた。村人は狂乱して逃げ惑い、湖に飛び込んで逃げようとする者までいた。ネビウスはそんな彼らを無視して、湖に浮かぶ蕾をよく観察した。苔の守り子はネビウスに近づき、苔の触手をネビウスの腕に絡ませた。ネビウスはぶつぶつと呟いた。


「呪いが子から親に逆渡りしたのね。……仕方ないわ。やりましょ」


 ネビウスは青い剣を抜いて湖の蕾に向かって駆け出した。その背を追って、苔の濁流が起こり、湖面を緑色の膜が覆い始めた。恐ろしげな蕾は水面下から根を伸ばしてネビウスを串刺しにしようとしたが、苔の膜が水面を覆うことでその威力を低減させた。ネビウスは苔の張り巡らされた水面を飛ぶように走り、戦いの開始からほんの一瞬で間合いにまで距離を詰めた。


 青い剣で一撃。蕾を両断したかに思われたのだが、刃の触れた部分から緑色の苔が吹き出して飛び散った。ネビウスは剣を振り抜くことができず、触れた者に刺すような痛みをもたらす苔を浴びてしまい、「んぎゃ!」と悲鳴をあげて転がった。そして不運なことにまだ苔の膜が覆っていない水の中に落ちてしまった。


 これを見たカミットは激昂し、弓矢を持って突撃した。青い矢じりの破魔の矢で射ようと思い狙いを定めたときであった。蕾が開き、中から女が出てきたのだ。それはあの哀れな母親だった。彼女は毛髪が花びらからなる花髪かはつに変わっており、よくない呪いに蝕まれ化身になってしまったのであった。元になった人間を知っていたことで動揺してしまい、カミットは矢で射殺すことができなかった。そうして戸惑っていると、足元の苔の膜を突き破って、鋭い根が襲いかかった。カミットは足を絡め取られ、水中に引きずり込まれてしまった。


 カミットはとっさに森の呪いの力で水息の苔を作って飲み込んだ。こうすれば溺れてしまうことはなかった。さらに森の呪いに助けてくれるように願うも、こちらは反応がなかった。カミットは足を掴まれて振り回されて大変なことになったが、しばらくすると急に放り出された。辺りを見れば、無数の青い火の玉が水中に浮かんでおり、これらに衝突した呪いの根は当たった部分から燃え落ちて消滅していた。ネビウスは一際大きな火の玉を背にして、水上の呪いの花を見上げていた。湖の底には湖底の村(アンドコ)の水中集落があり、ネビウスはここで呪いの花による攻撃を防ごうとしていた。


 いったいどの苔だったり植物だったりが味方か敵かというのは見た目には分からなかった。しかしカミットには感覚的に苔の呪い子が操っている方がどちらなのかが判別できた。カミットは自力で泳いで、水面に張られた苔の膜を破って出ようとした。しかし苔の膜は強靭で自力で引き裂くことができなかった。そうしてカミットが膜の下でもがいていると、水上から大きな口が近づいてきて、カミットを咥えて引き上げた。カミットは水息の苔をすぐに吐き出して、助けてくれた老オオカミの苔の守り子に抱きついた。


 人智を超えたような存在と分かり合えた気がしてカミットは感動していた。しかし感極まっている場合ではなかった。苔の守り子は湖の上まで出てきていた。それというのは今しがた開花した呪いの花の化身と対峙するためだったのだ。


 呪いの花の化身は花びらを風に舞わせて、これで苔の守り子を攻撃した。花びらが当たると皮膚は擦り切れて化膿した。苔の呪い子はカミットを体で庇いながら、自らの全身を苔で覆った。カミットも危険を察知して、苔の呪い子に体を擦り付けて、苔の守りをもらった。


 苔の呪い子は花びらの吹雪を受けながらゆっくりと前進した。そして呪いの花の化身となった女を見下ろした。戦いらしきものはほとんど起こらなかった。それが本来の姿であったのか、老オオカミの上半身が膨れ上がって五倍か六倍ほどの大きさになって、その大きく開けた口で一息にして女を食べてしまった。ごくんと飲み込んだとき、周囲に飛び散っていた花びらや、水面下の根なども全て霧のようになって消え去ってしまった。


 湖を覆っていた苔の膜も徐々に消滅した。ネビウスが岸まで泳いで戻ろうとしていたところ、苔の呪い子はネビウスのことも咥えて引き上げた。苔の呪い子の背に乗っていたカミットは勝利のあとだというのに暗い面持ちだった。


「ネビウス。……あの女の人はどうなったの?」


「苔の呪い子が食べちゃったわ。海の祝祭と一緒よ」


「でも、それじゃかわいそうだよ」


「そうね。かわいそうだわ。本当にかわいそうなのよ」


 呪いの脅威は去ったわけだが、固唾を飲んで見守っていた人々にとっては苔の呪い子が今はもっと恐ろしかった。立ち向かおうとする者はおらず、彼らは怖ろしい森の主が去ってくれるのをただ祈るばかりであった。


 岸ではオオカミの群れが行儀よく座っておさの帰りを待っていた。彼らはどさくさに紛れて村の家畜を襲って、戦利品として積み上げていた。これは双方のトップどうしで結ばれた秘密の約束に基づいた行いであった。ネビウスと苔の呪い子が別れの挨拶を交わすと、オオカミたちは森の奥へと帰っていった。





 緑色の苔に覆われたヨーグ人の子。しかし彼は毛髪が葉っぱでできており、間違いなくジュカ人の母の血を引いていた。オオカミの群れの片隅で受け入れられてはいたが、奇異な見た目をしていたことや、運動能力はもちろん、嗅覚など様々な能力で劣ることからしばしば群れでいじめられた。四歳か五歳にもなったら獲物を取らねばならず、そうでないと群れでの立場はいっそう悪くなった。泳ぐのは得意だったので、彼は川で魚を獲った。群れの長に魚を差し出したとき、慈しむように舐めてもらえた。


 あるときから奇妙な女が縄張りに入ってきて、火を起こすようになった。群れのオオカミは女を食ってしまうべきだと主張したが、群れの長が呪いの臭いがするので触れてはならぬと命じた。女はしばしば魚を火で焼いて、これを放置していった。未熟なヨーグ人の子はいつも腹を空かせていたので、群れの長の命令のことはあったものの、女が残していった食事に手を出した。


 しばらく経ったころ、いつものようにむしゃぶり食べていた彼の前に女が現れた。彼は待ち伏せされたと思った。女が襲いかかってきたとき、彼の身に宿る呪いの力が女を跳ね除けた。女は倒れて泥まみれになり呻いていた。彼は木陰からそれを見ていて、なぜか胸が締め付けられる思いがして、群れのいる森の奥まで走って帰った。


 さらに時が経った。子連れの赤髪の女が森に立ち入ったことは群れの中で最大の懸案事項となっていた。彼も十一歳になっており、戦闘員として働かないわけにはいかなかったのだが、群れのおさの命令で今回も留守番となった。


 いつもの水辺で魚を探していると、岸に不思議な臭いのするジュカ人の子どもが近づいた。こいつを狩ればみんなに認めてもらえると思い、その子の手を掴んで水へと引きずり込んだ。その直後、とてつもない呪いの力が巨樹を生み出し、馴染みの渓流はめちゃくちゃに破壊された。狩りに失敗したかわいそうな彼は命からがら逃げ出した。その後もう一度狩りの好機に恵まれ、彼は得意の呪いで木の幹に擬態していたのだが、今度は赤髪の女が怖ろしい青い目で脅かしてきて、またも失敗した。


 このあと赤髪の女は堂々と森の最奥までやってきて、群れの長と親しげに馴れ合い始めた。赤髪の女が連れているジュカ人の子どもはたいそうな呪いの力を持っているとかで、こちらへの手出し厳禁ということも群れに周知された。


 そして呪いの花の化身が湖に現れた。群れの戦力にならない彼であったが、空っぽの村の家畜を襲うくらいのことはできた。このとき奇妙な胸騒ぎを覚えた。彼は湖へと走った。そこで見たのは、群れの長の本当の姿と、美しい花に包まれた女性が食べられてしまう瞬間であった。この世を去る直前に、その女性は彼に気づいて、その口が「愛している」と言った。


 彼は言葉を知らなかった。だというのに女性が伝えようとしたことがなぜか理解できた。涙が溢れ出した。胸は張り裂けそうで、行き場のない怒りと悲しみを覚えて、喉が潰れそうなほど泣き叫んだ。彼は群れの仕事を放棄して、森を走り出した。


 走って、走って、どこまでも。


「それが絶望だ」


 脳裏に言葉が響いた。言葉を知らない彼だというのに意味がはっきりと理解できた。彼は立ち止まった。次の瞬間、この近辺にいるはずのない翼を持つ大蛇が樹上から襲いかかり、彼を締め上げて捕まえた。


 頭が真っ白になって気絶しそうになった彼を、顔に口しかない異形のヒト型の化身、月追い(ルナシーカー)が凶悪な笑みを浮かべて覗き込んだ。

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