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ネビウスクロニクル  作者: 石井
空の都編
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狼の森(7)「母の呪い」

 母は子を愛していた。緑の苔に覆われた不気味な赤ん坊を初めて見たとき、彼女はなんてかわいい我が子と思った。掟により夫がその子を連れ去ったとき、彼女は自身の体を引き裂かれる思いがした。その後は自らの手で育てることが叶わなくとも、オオカミの群れの片隅でどうにか生きながらえているのを見つけたとき、それまでの苦痛と憎悪だけで埋め尽くされていた心に、瑞々しい優しさ、湧き上がる慈しみを覚えた。


 我が子がお腹を空かせているだろうと思って、彼女は食事を持っていって、オオカミの縄張りの水場近くに置いた。しかし料理は食べてもらえず、放っておかれて腐っていた。オオカミに食べられないように、特別なハーブを入れたのが好まれなかったのだと彼女は考えた。


 彼女はオオカミの縄張りに何度も赴いて、我が子を観察した。父親譲りでヨーグの外見的特徴が顕著な子は渓流で魚をっていた。母はいよいよ大胆になり、渓流の近くで焚き火をして、魚を焼いた。これらを放置しておいて、こっそり隠れて観察していると、ついに彼女の子がその焼き魚を食べたのであった。母は喜びのあまり涙を流した。


 こんなことを続けていると、火を警戒したオオカミなどが時折様子を見に来たが、不思議なことに襲ってはこなかった。一度はオオカミの群れの長である苔むした老オオカミまで出てきたことがあったが、このときも何も起こらなかった。女は哀れな母親をオオカミたちが憐れみ、見逃してくれたのだと思った。


 欲が出てきていた。母は今ならば我が子と新しい関係を築いていけると淡い期待を抱いた。あるとき彼女は思い切った行動に出た。母の作った料理を食べている我が子の元へ姿を現し、優しく語りかけた。


「愛しい子、あなたの母よ」


 緑色の苔に覆われた、醜くて、可愛い子。その子は母からじりじりと距離を取って、決して近づかせようとはしなかった。母は苦しみに耐えかねて、ばっと我が子に抱きつこうとした。するとその子の体を覆っていた緑の苔が弾けて飛び散った。触れた部分は刺されるように痛み、肌を黒変させた。母があまりの痛みでのたうち苦しでいる間に、子は逃げてしまった。


「待ってちょうだい。私の子。かわいい、かわいい、私の子……」


 呼びかけは虚しく響いた。哀れな母は地べたに倒れ、泥まみれになっていた。皮膚にはその後癒えぬことのない黒い染みがいくつも残った。芽生えていた慈しみの心は再び陰り、新たな憎しみは村の幸せそうな全ての母と子に向けられた。満月の夜更けになると、森の暗がりに魚の骨を集めて骨塚の祭壇を作り、そこで呪いの儀式に熱中するようになった。


 その女は新たな子の誕生を呪ったとして、厳しい鞭打ちの刑に処せられた。呪わなければ鞭打ちなどされないというのに、臨月の妊婦がいると知るや、女の足は自然と森の祭壇へ向かっていた。そして夜を通しておびただしい数の魚を殺して、呪いの供物とした。その度に女は鞭で打たれた。黒い染みのある肌はさらに鞭の跡が赤く目立つようになった。それでも彼女は呪い続けた。


 暗く、辛い日々が続いた。灼熱の赤髪と褐色の肌をしたネビウスが訪れるまでは。ネビウスは十数年前にも狼の森(ルプスシルヴァ)を訪れており、彼女はどんな呪いも解いてくれるのだと村では語り継がれていた。母の懇願を受け、ネビウスは子を助けに森へと向かった。母は安堵した。十年くらいの間で、ほとんど初めて穏やかな気持になれた。


 今、彼女はまた鞭で打たれていた。「呪ったか」と聞かれれば、いつものように「呪った」と答えたからだった。今回の刑はこれまでで一番激しかった。刑を終えたとき、彼女は意識が朦朧としながらも、家路を歩いているつもりでいた。しかし彼女はいつの間にか湖の桟橋のふちに立っており、バランスを崩して倒れ、水の中に沈んでいった。





 ネビウスとカミットが村に戻るために走っていると、オオカミたちが追いかけてきて並走した。ネビウスは何やら意思疎通した様子で近寄ってきたオオカミの背に飛び乗った。オオカミたちにしてみれば連れて行く必要もないカミットは置いていかれそうになった。彼は少し遅れてきた緑に覆われた老オオカミ、苔の呪い子に飛びついてよじ登ろうとした。苔の呪い子はカミットがしがみつくのも構わず走っていたが、カミットが滑り落ちて転がると、わざわざ戻ってきてカミットを口に咥えた。


「僕だって乗りたいんだよ!」とカミットが喚くと、苔の呪い子はカミットを地べたに下ろし、体勢を低くして背に乗るように促した。カミットは「やった!」と無邪気に喜んだ。苔の呪い子はカミットを乗せて、ぐんと勢いよく駆け出した。すぐに先行していたネビウスに追いつくと、カミットは自慢げに言った。


「ネビウス! ぼくも乗せてもらえたよ」


「あらまァ」


 ネビウスは目を丸くして、苔の呪い子を見た。素知らぬ顔でいる苔の呪い子に、ネビウスは苦言を呈した。


「私も甘い、甘いとは言われるけれど、あんたには負けそうね」


 やがて湖畔の村(ゲヒカ)が見えてきた。柵に囲まれた村では門のところに衛兵が立っているはずだが、湖の方で騒ぎになっており、村の中は人の気配が無くなっていた。オオカミと連れ立って戻ってきたネビウスとカミットは村の通りを走り、湖に直行した。

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