狼の森(3)「老オオカミ」
カミットはネビウスとトートが何を話しているのかさっぱり理解できなかった。トートが帰ったあとで、彼はネビウスに尋ねた。
「ネビウス! お産ってなに?」
ネビウスは小首を傾げた。
「お産はお産よ」
これは説明になっていなかった。彼女は思案顔でカミットをじっと見つめて、質問の意味を理解した。
カミットが幼少期を過ごした秘境の里では子どもと言ったら、それは養子のことであった。そこでは赤ん坊は籠に入れられて届けられるものであり、それ以外の事例は存在しなかった。子どもが「どこから来るの?」と問えば、親は「遠いところだよ」とごまかすばかりであった。秘境の里では捨て子を育てるにあたり、血縁隔絶を掟としているため、生みの親や血筋に興味を持たないようにさせるのである。
ネビウスはうっかり教えるのを忘れていた親と子にまつわる知識について、曖昧に説明した。
「男と女が愛し合うとね、子どもができるのよ」
「愛し合うってなに?」
カミットが追求すると、ネビウスはへらへらと笑った。
「そんなこと私に聞かれても困っちゃうわ」
ここでミーナが自ら会話に入ってきた。
「愛していると結婚するのよ!」
カミットはこれでピンときた。彼は東の港街や海の都で守り子の弟子として結婚式を見たことがあった。若い夫婦がこれから家庭を持つ、その門出を祝う日は幸福に満ちていた。
「そういうことか!」
このままカミットとミーナが結婚について騒ぎ出しそうになると、ネビウスは注意した。
「結婚は大人がするものよ。十五歳で成人するまでは興味を持ってはだめよ」
ネビウスがこうも強引な言い方をするのは珍しく、かえってカミットの興味を引いた。
「なんで?」
「親が育てられもしないのに、子どもが生まれちゃうと大変なことになるからよ」
「なにが大変なの?」
ネビウスはカミットをまっすぐ見て、淡々と言った。
「働いていないと、稼ぎがないと、ご飯を食べていかれないのよ」
カミットは納得して「そっか!」と言って頷いたのであった。
※
森を気ままに歩いていると、カミットは旅立ったばかりの頃を思い出した。一年とちょっと前、カミットは秘境の里から旅立った。それから最初の数ヶ月を過ごしたのが、荒れ地の辺境にある廃墟の村であり、その時期はしばしば近くの林に出かけて狩りの練習をしたものであった。カミットは大人しくしていられず、日中はいつも林をうろついていて、ネビウスからは「死んじゃってもしらないよ」などと言われたのが懐かしく思いだされる。東の港街で多くの経験を積んだ今では恐れるものなどないように思えた。
カミットは湖畔の村から大分離れたところまで探検を進め、狼の森の昼間でも暗くジメジメとした森を歩いていて、急に気がついてしまった。荒れ地の林と似ているなァ、などと呑気に考えていたのはおかしな話しであり、この森では木が大きく高かったし、地を覆う草や蔦は重なり合うようにして、しかも木々に絡みついて立体的に広がっていて、視界はすこぶる悪い。
思い出の林と既視感があったのは、村の近くでは木々が剪定伐採されており、ほどよく日差しが差込み、気持ちの良い雰囲気があったからだ。本来の狼の森というのは、暗く、深く、怖ろしい森であるのをカミットは思い出した。
このとき野性的な勘が働き、カミットは来た道へと一目散に駆け出した。
すると周囲のあちこちでオオカミの遠吠えが聞こえ始めた。
足場が悪い中、カミットは夢中で走った。
彼の背後ではオオカミが十数頭で追いかけてきていた。そのうち一頭が木々の太い梢を渡ってきて、カミットの真上から飛びかかった。
カミットは上からの攻撃に気づいてすらいなかったが、彼の周りに発生した低木がわっと広がり、
襲ってきたオオカミを跳ね飛ばした。カミットは背後の衝撃に驚いて足を躓かせ、地べたを転がった。
オオカミたちは初撃で失敗したとしても、転倒したカミットを見て好機と見て、多少のリスクを厭わなかった。彼らは次々に突進して、飛びかかった。森の呪いは木々や蔦を現して、オオカミを撃退した。
カミットは森の呪いが戦っている間に立ち上がって、今度はその生まれて以来の相棒に向かって吠えた。
「ちゃんと倒してよ!」
森の呪いはオオカミを圧倒する威力を発揮できたはずだというのに、彼らに致命傷を与えなかった。カミットは湖畔の村に来るまでにも、ネビウスがオオカミを殺さないことにも苛立っていたが、それというのはネビウスの温情主義があるので仕方ないと思っていた。しかしこのような状況で森の呪いがネビウスの真似ごとをするのはカミットには許しがたかったのだ。
オオカミたちは森の呪いが守るばかりであるのを良いことに、カミットに粘着していた。彼らは森の呪いの守りを崩せなかったが、途中から方針を変えた様子で、カミットの行く手を阻むことに専念し始めた。カミットは訳が分からないながらも、森の呪いに守られて、湖畔の村を目指して、一歩一歩進んでいた。
そんな彼の元に、深い森の奥から何かが近づいてきていた。
※
木々の暗がりから姿を見せたのは、体を苔で覆われた巨体の老オオカミであった。他の個体と比べて二倍近い体躯を誇っており、格の違いは見た目に明らかだった。皮膚を覆う苔はぞわぞわと蠢いており、この苔むした老オオカミはただのオオカミでもないようであった。
それなりに多くの怪物と出会ってきたカミットではあるが、オオカミという生き物ほど好戦的でヒトに害為す存在に遭遇したことはなかったし、それらの親玉が異形の存在ということであると、いよいよ恐ろしくなった。
カミットが足を震わせていると、それまでは低木の状態で戦っていた森の呪いがめきめきと成長して巨樹となり、カミットを肩のようになった梢に座らせて持ち上げた。
苔むした老オオカミと森の呪いの巨樹は互いに動かず、しばらく睨み合った。若いオオカミが焦れて吠えると、苔むした老オオカミはその個体を睨みつけて黙らせた。
睨み合ってばかりで一向に動き出さない両者の間に、ふぁさっと黒いフクロウが降り立った。カミットは強力な助っ人が来たと思って喜んだ。
「夜の王! 来てくれたんだ!」
黒いフクロウこと夜の王はカミットの元にふわりと飛んできて、鋭い爪で引っ掻こうとした。カミットは不意のことに対応できず、慌てふためいて巨樹の肩から落ちてしまった。森の呪いが綿のクッションを出してカミットを助けたので怪我はなかったが、カミットは放心して動けずにいた。
しかし寝ている場合ではないので、カミットが気持ちを奮い起こして起き上がると、オオカミたちの姿は既に無かった。
カミットは湖畔の村に戻り、この怖ろしい体験をネビウスに報告した。
ネビウスは言葉を選ぶ様子で、ゆっくりと話した。
「呪いは呪いを呼ぶのよ。この森の最も古いオオカミは苔の呪い子でね。坊やの森の呪いが気になって出てきたのでしょうね。群れには呪いを見つけたら長を呼ぶようにさせているんじゃないかしら。本当、良かったわ。森の呪いが群れのオオカミを殺したりしていたら、大変なことになっていたはずよ」
「夜の王が僕をいじめてきたんだよ。僕は彼に文句を言いたいよ」
「あいつが何を考えているのかは分からないけれど、今回ばかりは喧嘩を丸く納めるために出てきたんでしょうね。坊やがやったことだから見逃してちょうだい、って伝えたんじゃないかしら」
「そうなの? 分かんないや」
「オオカミだって散々働いたのにご飯がもらえないんだから気の毒ではあるわ。用もないのにオオカミの狩場に入ってはだめよ」
カミットは少しいじけた。
「ネビウスは僕が心配じゃないの?」
「私が心配したって、坊やは勝手に飛んでいっちゃうんだわ」
「シルクレイシアにも同じことを言われた。飛んでいくなって」
ネビウスは「ふふふ」と笑って、カミットを抱きしめたのであった。
カミットはこれ以来、勝手に森に出かけるのは控えるようになって、暇が出来るともっぱら湖に入って魚捕りをするようになった。




