狼の森(2)「ジュカ人、ヨーグ人」
湖畔の村の住民は朝になると桶を持って苔の湖を訪れる。深い森はしばしば見晴らしが悪いが、湖の畔に来れば、空の都を戴く孔雀山脈を望むことができた。森の外と隔絶された村で、村人たちは長らく変わることのない生活を続けてきた。湖の向こうの狼の森の暗がりから旅人が現れるまでは。
ネビウスたちは渓流を辿り、苔の湖に行き着いた。ネビウスは湖畔の村で余裕のある家庭の納屋の隅を間借りして宿を取った。ネビウスはいつものことだが、見返りに村の魔除けの祠を点検した。本来ならば閉鎖的で他所者を嫌う湖畔の村でも、ネビウスのような古の民は例外として取り扱うのであった。
ネビウスとミーナがもっぱら休息のために湖畔の村を利用した一方で、カミットは興奮してしまって休むどころではなかった。
湖畔の村は森の民、ジュカ人の集落だったのだ。彼らは葉っぱの毛髪と緑色の肌を持ち、植物の葉を縫い合わせた伝統の装束を着ており、ある種のジュカ人の定型を見事に表現していた。その佇まいは穏健で静謐、大声で笑い合ったり、騒々しく騒いだりする者はいなかった。良くも悪くもヨーグの港街とは雰囲気が正反対なのであった。
この機会にカミットはジュカ人についてよく観察をした。カミットは日焼けしているのもジュカ人としては奇妙だったが、村人たちとよりかけ離れているのは彼の服装だった。カミットがいつも着ている子ども用の短衣は彼の成長に合わせてネビウスが仕立て直しているもので、その生地は触り心地の良い滑らかな質感をしていた。ジュカ人の森の装束とは薬で処理をした葉を縫い合わせてドレス状にしたもので、男女を問わず、さらに子どもであってもあまり肌を露出させないのが仕来りらしかった。
カミットはぶらぶらと散歩して、澄んだ湖面で自分の顔が映るのを見た。彼は何となく髪の生え方の様子が普通のジュカ人と違うと気づいた。多くのジュカ人は頭頂部を中心として葉髪が同心円状に広がるが、カミットの葉髪は額から後頭部へ向かって流れるようであった。
しばらくの間、カミットは湖の畔で腕組みをして考え込んでいた。そんな彼の元に、水面下から泳いでくる影があった。カミットは気配を察し、飛び退いて槍を構えた。
水の中から、ぬっとヨーグ人の男の顔が出てきた。彼は緑がかった青肌をしており、海のヨーグ人とは少し様子が違った。そのヨーグ人は落ち着いた口調でカミットに聞いた。
「お前、村人か?」
「違うよ。僕は旅をしている」
カミットは警戒しつつ答えた。
「子どもの旅人? 一人か?」
「ネビウスが一緒だよ」
「炎の賢者か!?」
「んん? 分かんないこと言わないでよ」
「ネビウスは青い火の呪いを使うか?」
「うん」
「よし、分かった。ネビウスは今、湖畔の村にいるのか?」
「そうだけど」
カミットはそのヨーグ人が危険な相手には思われなかったので、槍を下ろし、きちんと話すことにした。
「僕はネビウス・カミット。君は?」
「俺は湖底の村のトート。もしかしたらネビウスは俺のことを覚えているかもしれぬので、伝言をしてくれ。昼過ぎにトートが湖畔の村に伺うと」
「いいよ」
カミットは何やら運命的な出会いに気持ちの高まりを感じて、村に走って帰り、ネビウスにこのことを伝えた。
ネビウスは渋い顔をして、カミットとミーナに言った。
「面倒な予感がするわ。すぐ出発するから準備をなさい」
しかし訪問者は昼を待たずにやってきた。
※
湖畔の村と湖底の村は本当に間近に位置していた。狼の森という隔絶された土地において、ジュカ人とヨーグ人は長らく良好な関係を築いてきた。このことは数十年に渡り、闘争関係を続けている森の外の両人種を見れば信じられない奇跡的な状態であった。もっともネビウスは十五年前に湖畔の村を訪れていたし、そのもっと前、大昔にもふらりとやってきたことがあったので、彼女にとっては湖を共有する人々の関係に驚くことはなかった。
湖底の村のトートはネビウスにある頼みがあってわざわざ湖畔の村まで訪ねてきていた。彼は納屋の藁のベッドで気怠そうにごろごろしているネビウスに低姿勢で話しかけた。
「妊婦がいるのだ。お産を助けてやってくれ」
「妊婦なんてどこにでもいるわ。私が一々面倒見てたらキリないのよ」
「特に危険な妊婦だ。優れた医者の手を借りたい」
ネビウスはわざとらしくため息をついた。
「私は前に来たときも忠告したわ。混血は止めておきなさい、ってね」
トートは苦々しい様子で唸った。
「惹かれ合う者たちを引き裂くことはできぬ」
「困ったわ。昔のあんたたちだったら、掟破りだなんだってカンカンに怒って、ぼっかんぼっかん打って殺してたのに」
「先祖は野蛮であった。俺たちは違う」
ネビウスはこの相談に対していつにもまして乗り気ではなかった。というのも、お産は急ぐことができない。その妊婦は既に臨月ではあったようだが、それでも二週間程度は湖畔の村で拘束されることになる。
今は夏の初めであった。夏の間に一気に孔雀山脈を登頂し、空の都に至ろうと考えていたネビウスにとっては、この期間は決して無駄にできるものではなかった。秋以降では、高山地域はしばしば吹雪に見舞われ、氷点下を下回る気温が当たり前となり、立ち入ることが難しいのである。
ネビウスはどうにかしてトートの頼みを断りたかったが、トートの方も決して引き下がらなかった。根負けしたネビウスはしばらく湖畔の村に滞在することにしたのであった。
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