第6話 廃墟の村(3)「追われてきた女の子」
ネビウスは廃墟の村に少し滞在すると言ったが、大きな変化の無いまま、三ヶ月が過ぎようとしていた。その間、カミットは村のあちこちで森の呪いを使った工事を試すようになり、傷んだ道や魔除けの祠の屋根などを修繕した。これらの慈善事業をネビウスがたいそう褒めたので、カミットは良い気分になって村のどこかしらを毎日直したのであった。
ところで、カミットは例の「何もかも任せない」というルールを守っていた。本当は巨樹を使って重たい石材なども運ばせてしまったら簡単だったが、森の呪いでやっていいのは道具と材料の準備までで、それ以降は手作業でこつこつ取り組んだ。材料についても、石や粘土が欲しくなったら、林に出かけてかき集めてきた。
その日、すっかり歩き慣れた林道で、カミットは初めての匂いを感じた。
彼は「いい匂いだな」とぼんやりと呟き、誘われるようにして、獣道を進み、茂みの中からその先を伺うと、女の子が倒れていた。
カミットは首を傾げて「んん?」と唸った。
里の民以外の人と会ったのはこれが初めてだった。その女の子は服装からして、様子が変わっていた。彼女は雑巾の布を継ぎ接ぎしたような酷い服を着ていて、いったいどうしたのだろうとカミットは不思議に思った。カミットがじっと女の子を観察し続けていると、いつの間にやら背後に現れていた呪いの木が、その根っこでカミットを蹴り上げ、藪の中から突き飛ばした。
うぎゃ、と叫んで、カミットは女の子の前に倒れ込んだ。
カミットは立ち上がると、動かないでいる女の子にそっと手を伸ばした。この動きをなぞるようにして、森の呪いの蔦と根が女の子に伸びていき、女の子の擦り切れた皮膚を癒やし、暖かな生命力を吹き込んだ。
やがて女の子はむくりと起き上がった。ところがその女の子はカミットを見るなり、悲鳴を上げて、尻もちをついた。女の子は表情を恐怖に染めて「ジュカ人」と消え入りそうな声で言った。
カミットは怯えている少女を改めてまじまじと観察した。
長い金色の髪、雪のように白い肌、輝く青い瞳、ほっそりとした体つき。これらの外見について、カミットは次のように思った。
「ネビウスより弱そうだ」
それからまた黙って、カミットは女の子を観察した。
沈黙が続くと、女の子が恐る恐る聞いた。
「私を食べないの?」
カミットはその女の子の発言を奇妙に思いつつ、冗談で聞き返した。
「食べていいの?」
女の子は体を震わせて、首をぶんぶんと横に振った。
カミットは女の子が怖がっているのが面白くてアハハと笑った。廃墟の村に戻るまでの間にも女の子を脅かして、彼女の反応を楽しんだ。
村に帰ったところ、いつもは優しいはずのネビウスがこのときは腕組みをしてカミットを睨んだ。カミットと女の子のやりとりがなぜかネビウスになぜか知られていたのである。
ネビウスは「坊や、優しさってなんだろうね。ちょっと考えてごらん」と静かに諭した。カミットは「里を出たら、ネビウスが意地悪になった」と言って悲しんだ。
その女の子はシリウス・プロメティアと名乗り、年齢はカミットと同じ十歳だった。ネビウスはその名を聞いたとき、へェ、と呟き何やら意味ありげな相槌を打った。ネビウスは詮索をせず、プロメティアに食事を与え、干し草のベッドで休ませた。
カミットは焚き火を使って料理をしているネビウスにこっそり聞いた。
「ミーナをどうするの」
「あの子が坊やに愛称を許したの?」
「そう呼ばれてるって」
「そう。……あの子をどうするかだけども、どうもしないわ」
「そっか。ミーナはどこから来たんだろう」
「さあねえ」
「どうしていろいろと聞かないの。僕たちは彼女の名前しか知らないよ」
「私たちとは関係ないわ」
ネビウスは粥を椀に注ぎ、味見をして笑みを浮かべた。ネビウスはカミットの分も用意して、二人で焚き火を囲んで夕食を食べつつ話した。
「あの一人ぼっちの女の子に私からああしろ、こうしろとは言わない。けれども、ここから追い出したりして、獣に食べられるようにするのも酷だから、あの子の好きにさせる」
「ネビウスは優しいね!」
「優しい? 私が? どこが?」
「ネビウスは優しくないの?」
「んん?」
親子はずずずと粥を啜りながら、互いに首を傾げたのであった。
※
その晩、廃墟の村を不気味な影が取り囲んだ。三人は家屋内のベッドで雑魚寝をしていたが、ネビウスがいち早く異変に気づき、次いで、プロメティアが悲鳴を上げて飛び起きた。ネビウスは一瞬で反応して、プロメティアの口を手で塞いだ。カミットも騒ぎに気づいて慌てて起き上がった。
ネビウスが低い声をしておそろしげに告げた。
「二人とも、騒ぐんじゃないよ。この村は月追いに囲まれているわ」
プロメティアは息を呑み、うずくまって震えた。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し、彼女は頭を抱えた。
カミットはお気楽に言った。
「ネビウス、やっつけてよ!」
ところがネビウスはいつもの柔らかい笑顔で彼に応えることなく、なんと剣を持ち出してきた。カミットはようやく事態の深刻さに気づいた。ネビウスが剣を抜くところなど、手にしたところですら、彼は一度も見たことがなかった。ましてや、今から戦いに向かおうとして、その表情から感情が消え去るところなど。
知らない顔をした母がカミットに言った。
「私は戦うけど、化け物相手だからどうなることやらって感じよ」
カミットはネビウスが剣を手にした姿を見ると、動揺していたのは少しの間のことで、次には闘志を漲らせた。
「僕も戦うよ!」
「ねえ。坊や、よく聞いて」
ネビウスはカミットの肩に手を置いて、膝をつき、目を見て語りかけた。
「呪いは本当は怖いものなの」
呪いと聞いて、プロメティアが頭を上げて、察した様子でカミットを見つめた。
ネビウスは続けた。
「月追いは天秤から零れ落ちた連中の成れの果て。呪いを殺し尽くせると思い上がった連中の影なのよ」
ネビウスは立ち上がり、家の入り口の方を向いた。
ボロ布のような黒い外套を着た、目と鼻を持たない、口だけの顔を持つ怪物が斧を持って立っていた。カミットは先程までの勇ましかった自分が消えてしまい、圧倒的な恐怖によって、体が強張って動けなくなってしまった。森の呪いが少しも反応せず、強大な呪いすらも月追いに立ち向かうことを躊躇しているように思われた。カミットは月追いがあまりに異質で恐ろしい存在であることを知ってしまい、もはやこの場を切り抜けることは誰にもできないとすら思った。
「怖がるんじゃないよ!」
ネビウスは叫び、細長い剣を抜いた。
月光に刀身の鮮やかな青が煌めくと、月追いは驚いて逃げ出した。ネビウスは駆け出していった。
廃墟のあちこちでおぞましい叫び声と剣と斧の打ち合う音が激しく響いた。ネビウスは夜通し戦い続けて、月追いを追い払った。