呪いの入り江(9)「呪いの返り」
シルクレイシアは朦朧とする意識の中、親しかった人々の姿を見ていた。現実と夢が曖昧になって、頭がくらくらとしていた。
勝ち気で、美しくて、賢い、水の精霊に溺愛された、そういう完璧な女であったシルクレイシアはいつも仲間たちの中心だった。男も女も関係なくみんなで仲良かったけれども、はっきり言って男たちはみんなシルクレイシアに夢中だった。
良い男たちであった。英雄タゴンによって鍛えられた男たちは、強く、たくましく、勇敢で、優しかった。彼らの中の、最も優れていて、最も仲間から尊敬されているテティスがシルクレイシアの恋人だった。
しかし今はもう女たちしか生きていない。
男たちは最初の魔人討伐の戦いで死んでしまった。
ほんの一年前にはみんなで集まって、はしゃいで騒いでいたというのに、今は寂しくて仕方なかった。あれ以来、シルクレイシアは生きていくことの意味を見失っていた。
――私も会いに行くわ。
そんな風に思ったとき。
倒れて波に流されつつあった、シルクレイシアをある戦士が助け起こした。海竜の鎧を着て、首に海の守り石のペンダントをかけた偉丈夫であった。
――あなたが迎えに来たのね。
シルクレイシアはあの世へ行くというのに暖かな気持ちでいっぱいになった。
愛した人に抱かれて、海へと帰るのだと思った。全ての命はいつか藻屑になり、泡となり、やがて海の化身の一部となる。
二人の周りには平たくて長い体と尾びれを持つ水棲の虫、水中を泳ぐ巻き貝など、多種の水の精霊が集まってきていた。彼らは二人を海の深淵へと誘おうとしていた。
シルクレイシアはこの導きを受け入れるつもりでいたが、彼女を抱いていた戦士の方は違った。彼は槍を振って、精霊たちを追い払った。そして力強い足取りで、砂浜へと戻っていったのである。
魔人の血が降り注ぐ惨状の中、ドミニによって操られる不死の戦士はものともせずに歩いた。
※
ドミニの活躍は目覚ましかった。彼は戦いの最中で力に目覚め、本来ならば事前の念入りな準備が必要な死体操りを、その場で発生した死体を用いて使えるようになった。彼はこれによって魔人の血を浴びてしまった戦士たちを次々と救助した。
「もっと、やれ! 俺の戦士たち! お前達はもっとできる。俺とともに、栄誉のための戦いをしろ! その死は無駄ではなかったと、俺が言ってやる! お前達の命が希望になるぞ! 俺がそうしてやる!」
「ドミニ!」
声をかけたのはタゴンであった。彼は険しい表情でドミニを見上げていた。
「あ? おお! 我らの英雄ではないか! 先ほどの槍は見事であった! 魔人は滅んだ。俺たちの勝利だ!」
「そうだ。俺たちは勝った。最大の称賛をお前に送ろう。街の英雄の石碑にはドミニの名が刻まれるだろう」
「愉快だな。俺は、あー。俺は、えーっと。んー? んん? どうしたというのか、タゴン、お前、小さくなったか?」
「すまぬ。俺は責任を果たす」
タゴンは槍を振り、ドミニの首をはねた。ドミニの首は吹き飛び、ぼとりと落ちた。
「見えもせんほど、すばらしい槍の技!」
ドミニは首だけになった状態で叫んだ。
肥大化していた肉体は滅び、代わりに首からぶくぶくと肉が吹き出して、またたく間に巨体となった。
「腹が減ったなァ。いったいどうしたというのか。……俺は誰だ?」
ドミニは闇の呪術の使いすぎによって、激しい返りを受けて、化身となってしまったのであった。化身になるということは姿かたちが変わってしまうだけではない。その存在そのものが人間ではなくなり、人間に害する怪物と化す。そして一度化身になってしまったが最後、決して人に戻ることはできない。
カミットが駆け寄ってきて叫んだ。
「ドミニ! だめだよ! 僕たち、せっかく勝ったのに!」
「なんだァ。お前は、……美味そうな臭いがするぞ」
ドミニが触手を伸ばそうとしたときであった。
海の沖の方から、海面を歩いてくる人影があった。
夜明けが来たかのように輝いていたのは、その人影が背後に作る巨大な火球。
海面には青い火が無数に浮かび、これが流出していた魔人の血を浄化していた。
やってきたのは大きな海笛を抱えたネビウスであった。彼女の赤髪は普段よりもいっそう赤熱してまばゆいほどに輝いていた。
ドミニは叫んだ。
「我が友! ようやく来たか! 俺の活躍を語り聞かせよう! 今夜は宴ぞ!」
「大丈夫よ。私は見ていたわ。あんたのことは見直しちゃったわ」
「嗚呼。嬉しいなァ。美味そうだなァ。お前、俺と一緒になってくれないか」
ドミニは巨体をひきずりながら海へと移動し始めた。
ネビウスは海笛を水中に浸して、大きく深呼吸してから、息を吹き込んだ。ふァらふァらと不思議な音色が辺りに響き渡り、海中には虹のような輝きが広がり、幻想的な色合いを織り成した。
ドミニは山のような巨体になった体で海を泳ぎ、ネビウスへ向かっていった。
ネビウスはドミニを待ち構えるようにしてその場に留まり、海笛を吹き続けた。
やがてその笛に呼ばれた者が姿を現した。ネビウスの背後の海面がにわかに盛り上がり、海を割って出てきたのは、鯨のような巨躯を持つクリオネであった。羽のように広がった四肢は既に臨戦態勢であり、その体を巡る赤や黄の輝きの筋が絶えず激しく光っていた。
前方より覆いかぶさろうとしてきたドミニ、後方には深淵に住まう怪物。
ネビウスは海笛から口を離して、ドミニを指差して言った。
「やっちゃって」
クリオネの怪物が体を揺らすと、嵐のような暴風が起こり、ドミニの巨体をばらばらに切り刻んだ。
衝撃は入り江で事態を見守っていた者たちの方まで漏れなく届き、どうにか意識を取り戻していたシルクレイシアが水の呪いで防波堤を作ったが、それでもなお何人かは衝撃に飲まれて吹き飛ばされた。
またもドミニは首だけになって空を舞った。
「良い景色だ。夜明けは近い」
彼は呟いた。
そして海に落ちるのではなく、彼はネビウスに受け止められた。ネビウスの手の中で優しく抱かれると、彼はタゴンにやられたときとは違って肉体の復活をしなかった。
ネビウスは左手からは青い火を、右手からはわずかに赤い火を出し、これでゆっくりとドミニを包んだ。
「暖かいなァ」
「あんた、がんばったわねェ」
「そうだろう。もっと褒めろ!」
「ふふふ」
「眠たくなってきたな。ネビウスの治療を受ければ、俺はまた元気になれるよな」
「ええ、なるわ」
「良かったなァ。俺みたいなのが、英雄のような扱いだ」
「あんたは英雄になったわ」
「そうかァ?」
ドミニは柔らかい笑顔で、やがて眠るように目を閉じた。
ネビウスの火は彼を燃やし、最後は灰になった。
風が吹き、海賊の王の遺灰は海へと誘われていった。
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