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ネビウスクロニクル  作者: 石井
海の都編
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槍岩の海(3)「深淵の訪問者」

 時が止まったようにして、誰もが動きを止め、ネビウスの見つめる先を注視した。


 ネビウスは槍を構え、この戦闘で見せたものとは比較にならないほど大きな火をいくつも周囲に漂わせた。


 ゆっくりと、それは泳いでやってきた。


 人の姿にも見えるそれは、透明な体をしており、羽のように広がる手足を揺らして泳いでいた。身体のいたるところで、透けて見える内部が赤く発光しており、伝説的に冥府の使者とされる存在とも似ていた。そして頭部の触覚は獲物を求めて揺れ動いており、捕食の際にはこれが大きく展開して獲物を包み込むのである。


 それは鯨に匹敵する大きさをしたクリオネであった。


 ただ大きな生物であればこの島には有り触れているが、この異様な存在が普通と違うのは、それが在来の生物ではなく、近年になって急に現れるようになった唯一の個体であるということだった。


 ネビウスの目的は海賊討伐ではなく、この巨大クリオネの調査だったのだ。ネビウスはいつもと違って慎重だった。槍を構えてはいるが威嚇はせず、魔除けが通じるのかどうかを確かめようとしていた。


 互いに大きく動かず、一定の距離を取って泳いだ。互いに手を取り合って踊っているようであった。


 ところが、しばらくするとクリオネの触手が素早く伸びてネビウスを取り込んでしまった。


 シルクレイシアは絶句した。


 カミットは頭が真っ白になった。


 シルクレイシアが水の呪いで攻撃を仕掛けるよりも先に、海藻が海底を突き破って爆発的に伸びだしてきて、クリオネの怪物を取り囲もうとした。


 クリオネの怪物は頭を赤く光らせた。


 その瞬間、目に見えない力が海藻をばらばらに切り裂いてしまった。衝撃が伝わり、周囲の水流は激しく乱れた。


 シルクレイシアは怯んで攻撃の手を止めた。海の怪物を多数見てきた彼女にしても、このクリオネの怪物は異常な存在であった。生半可な攻撃が通じないのは今の一瞬で明らかだった。有効な攻撃をするならば、取り込まれてしまったネビウスごと貫くしかないように思われた。


 それでも諦めなかったのはカミットであった。彼はシルクレイシアのように深くは考えられず、渾身の怒りでもって、森の呪いに呼びかけた。


 周囲の海底がぐらぐらと揺れ始めた。次に生み出されたのは、鉱物のような表皮を持つ植物の蔦であった。これが無数に重なり、魚群のようになって、クリオネの怪物に挑戦した。


 このとき、クリオネのネビウスを包んでいた触手が開いて、ネビウスが開放された。森の呪いはネビウスを貫きそうになる直前で止まった。


 ネビウスはにこにこと笑っており、カミットに向かって、頭の上で両手で丸を作った。カミットは大急ぎでネビウスに近寄って抱きつき、クリオネの怪物を睨みつけた。


 クリオネの怪物はゆっくりと向きを変え、再び海の深淵へと戻っていった。


 ネビウスはシルクレイシアに合図をして、彼らは浜に向かって泳いだ。





 浅瀬に上がるなり、シルクレイシアがネビウスに詰め寄った。泳いでいる間はネビウスが水言葉に応じなかったからだ。


「あんな化け物がどうしてこの海にいるのよ!」


「海のことを私に聞かれてもね」


 ネビウスはへらへらと笑った。


 シルクレイシアはさらに苛ついた様子で言った。


「聞いていたのと話が違うのよ!」


「話は分かるやつだったわ」


「信じられない。何だって言ってたのかしら」


「人の言葉を話すわけじゃなくて、私達を食べないってだけよ。安心でしょ? ここら辺のヨーグがちょっかい出してくるのにはムカついているみたい」


「凶暴化して襲ってきたらどうするつもり」


「あれは他所よそ者だから、この島のこととは関係ないわ。槍岩の海は月の縄張りと海の縄張りの中間地点だから、海流の影響でうっかり迷い込んだんじゃないかしら。本来の縄張りがあるならそのうち戻っていくわ」


「ねえ。その言い方だと、やっぱりあれって化身なのよね? 海の化身(ヴェイテ)以外で怖いなんて思ったことがないんだから」


「化身かどうかは分からない。だけどあの水の刃は」


「刃?」


「目に見えないくらい細い触手をばーっと出して、周りを一気にズタズタにしたやつよ」


 シルクレイシアはため息をついた。


「私には何が何だか分からなかったわ」


「あれは嫌ね。あれに巻き込まれたら死んじゃいそうだわ」


 ネビウスはくっついたまま離れないでいるカミットを見た。彼はむすっとした顔でずっと黙っていた。


「坊や。驚かせちゃったかしら」


 カミットは首を横に振った。彼はぽつりぽつりと話し始めた。


「僕はネビウスが死んじゃったら嫌だ」


「うん、うん」


「あの怪物には僕の呪いが全く効かなかった」


「そうね」


「このままじゃ僕はネビウスを守れないよ」


 ネビウスは微笑み、カミットを優しく抱きしめた。


「ああいうでっかいのはね、私達が小さな体で向かっていって殺そうと思ったって上手くいかないのよ。こっちが抱きしめてあげるのがコツね」


「あんなに大きいのを抱きしめるの? ネビウスは食べられちゃってたよ」


「気持ちよ。大事なのは気持ち!」


 親子のやりとりを見ていたシルクレイシアは「良くない教え方ね」と苦言を呈した。


 そして、そんな三人に対して、水面下から迫る者たちがいた。


 海中で戦ったヨーグの男たちがいっせいに飛び出してきて、カミットたちを取り囲んだ。男たちの多くは陸の言葉を喋らなかった。一人だけ、進み出てきた細身の男だけが陸の言葉でネビウスに話しかけた。


「化けクラゲを鎮めるとは、すばらしい呪術師だ」


 ネビウスは首を傾げた。「クラゲ、クラゲ?」とぶつぶつ言って、ぽんと手を叩いた。


「クリオネのことね!」


「しかしそれだけだ。俺たちの縄張りに入ってきたのだから、お前たちは人質になってもらう」


「へェ。良い商売やってるのね!」


 ネビウスがとぼけた受け答えをしていると、シルクレイシアは焦れて前に出た。彼女は自分とカミットとネビウスの周りに水泡を漂わせた。


「引きなさい。戦いは終わったわ。アンタたちじゃ私達には手も足も出ないのよ!」


「違う。死ぬまでが戦いだ。俺たちは」


 男は言葉を途中で切った。彼は表情に恐れを表してネビウスを見ていた。


 ネビウスは左右の青と赤の瞳をぎらりとさせて男を睨んでいた。彼女はたっぷりと抑揚のある口調で言った。


「海賊らしくないわ。アンタたちがそんな潔かったら、とっくに全滅してくれていたでしょうに」


 ネビウスは指をパチンと鳴らした。恐ろしげに漂っていたシルクレイシアの水泡が弾けて消えた。シルクレイシアは不快感を露わにしてネビウスを睨んだが、ネビウスは無視して続けた。


「望み通りここで皆殺しにしても構わないのだけれど」


 ネビウスは周囲に無数の火の玉を現して海賊を脅かし、彼らの怯える様子を満足げに観察した後、火を消して、笑顔で言った。


「下っ端じゃ話にならないのよ。偉いやつに会わせなさい」


 海賊たちはネビウスを恐れきっており、武器を下ろした。


 唯一の陸言葉を話せる男が「人質としてでなければ連れていかれぬ」と言った。


 ネビウスは「それじゃあ、人質ってことにしましょ」と言って了承した。


 シルクレイシアはネビウスの耳元で囁いた。


「ネビウスは海賊を退治してくれるのかしら?」


「まさか。様子が変だから気になっただけよ」


「様子見で済むと思う?」


「先のことは分からないわ」


 シルクレイシアはネビウスの本心を探りたそうにしていたが、ネビウスは曖昧な返事に終始した。

お読みいただきありがとうございます。

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