第3話 秘境の里(3)「里の外、血の香り」
明け方になって、ネビウスは外に出ようとして玄関扉を引いた。すると扉の形にそのまま真っ白な壁ができあがっていた。豪雪によって、家の周囲が封鎖されてしまったのである。ネビウスは手のひらから火を吹かして、これらの雪を部分的に溶かしてどうにか外に出た。
昨日まで緑の丘であった里は今や雪に覆われて真っ白な銀世界となっていた。うっかりすると雪に埋もれて落ちていってしまうが、雪鳥の羽毛を編み込んだブーツを履けば、雪原の上を軽やかに歩ける。昨夜までの吹雪は嘘のように今朝は晴れており、雪原は陽光を反射して輝く白であった。ネビウスは吐く息の白さを見て、頬に触れる空気の仄かに刺すような痛みを感じて、いよいよ新しい旅に出るのだと実感していた。
「ネビウス! ネビウス!」
カミットの叫ぶ声がした。彼はネビウスが登ってきた雪のトンネルを這ってきていた。雪原に空いた穴から小動物のようにして顔を出すなり、カミットはネビウスを見つけて笑顔になった。そして慌てて駆け出してきて「あっ!」と悲鳴を上げて、ずぼずぼと柔らかな雪の中に埋もれてしまった。ネビウスが助けるまでもなく、カミットは森の呪いで蔦を生やすことで自分を浮上させた。
「ネビウス! すごい雪だね!」
「初めてじゃないでしょ。里の外には何度か連れて行ったことがあるわ」
「そうだけど、こんなに積もっているのは初めてだよ」
「それもそうね。こんな状況でわざわざ出かけないものね」
ネビウスはカミットにも雪鳥のブーツを履かせて、雪原を歩けるようにさせた。さらに二人しておそろいの毛皮のコートを着て、頭にはニット帽を被って、首にはマフラーも巻いて、こうして防寒装備を整えて、ついに旅立つときがきたのである。
雪原を歩くと、兎や鹿が駆けているのを見たり、遠くから狼の遠吠えが聞こえたりした。カミットはこれまでにもネビウスのピクニックについて里の外に出たことがあったので、これらのことはさして真新しくもなかったはずなのだが、様子が違っていたことは、大きな熊に出くわしたときであった。秘境の山の熊は他の巨獣と凌ぐほどの並外れた体格をしており、その太い腕を振れば大木をもへし折るほどである。カミットは遠くの藪にのそのそと動く影を見て、嬉しくなって指笛を鳴らした。
すぐさま顔色を変えたネビウスがカミットの頬を叩いて、これを中断させた。カミットはこれまでネビウスに打たれたことがなかったので、衝撃を受けて呆然としたが、ネビウスの方はこれに構っている余裕はなかった。
「大変、大変!」
ネビウスはブツブツ言いながらカミットの手を引いて連れていき、二人は近くの木陰に隠れた。ネビウスはカミットの口を手で塞ぎ、空いた片方の手から何やらモヤモヤとした煙を吹かせて二人を包むようにして充満させた。
巨体の熊がズシン、ズシンと重厚な足音を響かせて近づいてきた。
熊はしばらくの間、鼻をひくつかせて周囲の臭いを嗅いで、辺りを見回していたが、やがてゆっくりと去っていった。
ネビウスは安堵のため息を漏らした。
「坊や。獣たちが友達だったのは、昨日までのお話し。今日からは違う。彼らは坊やたちとは別の生き物なの」
「僕は翼獣の背に乗って空を飛べたし、大熊とだって木の実を分け合う仲だった」
「もう、そういうことはないの」
カミットはそれほど聞き分けが良い子どもではなかったが、ネビウスの真剣な説教に面食らってしまい、何も言い返せなかった。里の大人でネビウスほどカミットにああだこうだと言わない大人はいなかったのである。そのネビウスが普段のお気楽さを一変させて、険しい表情を崩さず、常に周りを警戒している。このピクニックは重大な危険を伴うのだとカミットも察していた。
少し歩いたとき、カミットは風の中に血の臭いを感じた。その臭いは大熊によって食べられた鹿の亡骸から放たれていた。
奇妙な秘境の里には血の臭いがしなかったことをカミットは思い出す。あの里の住民たちは箱詰めされた肉をどこからか仕入れてきて、それを煮込んだり焼いたりして食べていたが、どういうわけかそれらから血の臭いはせず、心をざわつかせる独特で不思議な香りだけがしたものであった。それらを食べるとき、カミットは他の野菜を食べるときと全く同じ感覚で食べていた。
そして今、カミットは里の外を知った。
木々が茂り、獣たちが駆ける雪原では、命が命を食べることで生きていた。
シカが倒れた白雪の上には鮮烈な朱が染み出して広がっていた。