第258話 鮫鰭丘(13)
初回更新時に一節目が漏れていましたので、修正追加しました。
とてつもなく大きな波が起こった。その波が壁のようになって近づいてきており、普段目にする光景でもなく、陸地からは実感を持って眺めることはできなかった。現実には、静かに、ゆっくりと、すべてを飲み込む水の破壊が迫ってきていた。
人々が高台に向かって逃げるので、カミットもそうしようと考えた。
ところが彼の相棒である火の猪、ヤージェは浜の方へ走り出した。
「なにやってるの!」
と叫ぶも、ヤージェは聞く耳を持たない。彼はその身にまとう火をさらに燃え上がらせ、使命を与えられた戦士の様子で海に向かっていった。
カミットはヤージェを追って、彼も浜にたどり着いた。潮が引き、取り残された魚たちがのたうち回っている、そういう大きな浜であった。
恐ろしい波が迫ってきていた。
ヤージェは海に向かって吠えて威嚇していた。さらにずどんずどんと地を踏みつけ、そこから火を起こし、周囲に燃え盛る炎を現した。
そんなもので迫りくる海の脅威をどう跳ね返そうというのか。カミットにはヤージェの行為の理由がわからなかった。
このままではヤージェは海に飲み込まれてしまう。火の猪がいくら強大な魔獣であるとは言え、大化身に匹敵する力を受けてはひとたまりもないはずであった。
迫る脅威に対抗できるとすれば、カミットには森の呪いしかなかった。彼は一生で最大の願いであると想って、助けてくれるように念じた。
それに対する森の呪いの回答は。
激しい大地の唸りをあげ、浜の砂の中から巨樹が現れた。その太い枝が手のようになってカミットを捕まえ、高く持ち上げた。カミットは、これなら大きな波にも耐えられるかもしれないと思った。そうであったが、森の呪いの思惑は違っていた。あろうことか、巨樹はカミットを海に向かって、ぽーんと放り投げたのである。
わああ、とカミットは悲鳴を上げながら、空を飛んだ。
風が海に向かって吹いていた。
綿の葉の羽は風を利用して、空に浮かぶ。
カミットは気づくと、海上の空にぷかぷかと浮いていた。綿の葉はどこから出てきたのか、おそらく森の呪いが作ったのであろうが、それがカミットを空に留め置いていた。
はっと気づく。
眼下には海。
怪物の黒い影が潜む海。
その水上に立つのは王・ディナミス。
すでに射程圏内であった。
カミットは森の呪いで木の弓矢を作った。
なんでもかんでも呪い任せにしていると人間が廃るのだ、とネビウスは言ったものであった。しかしそのようなことを言っていられる場合ではなかった。
やらねば、やられるのだ。
使えるものはなんでも使わねば。
守るため。
生きるため。
弓を引いた。
一射にて、必ずや射抜くと思いを込め。
集中し、狙いを定め、
射た。
矢は風に乗って、放物線を描いて飛んだ。
間違いなく命中する軌道であった。
やった、とカミットが呟いたとき、
王と目が合った。
はたして王の口元は笑みを浮かべていただろうか。王は剣で飛来した矢をいとも簡単に打ち払ってしまった。
途方にくれている間にも波は海賊の都に達してしまった。ヤージェは火の守りごと海に飲み込まれてしまっただろうと思われた。
さらに天候が急激に悪化し、降り注ぐ雨により綿の葉が重くなって、カミットは海にぼちゃんと落ちてしまった。
※
終わりの島の英雄が、海に落ち、波に襲われ、辛うじて溺れ死なずに必死で息をしようともがいている、こんな無様なことになっているのはどうしてだろうか。
中ツ海に来て以来、カミットは海賊に追い回されたときに続き、またもや万策尽きたという絶望感を抱いた。終わりの島にいたころはそのようなことは一度だってなかったというのに、これはどういうことであろうか。
5体の魔人を殺し、終わりの島の英雄であったというのに、その異名に偽りはないとはいえ、こんなにも通用しないものだろうか。ネビウスが居なければ、守り子たちの援助がなければ、彼もただの無力な若者の一人に過ぎないと悲観せざるをえなかった。
いや。しかし。それにしても。
こんなことではいけないのだ。
海賊どもは愚かすぎて救いようがなかった。
それをいいことにモノは暗躍していた。彼女はカミットが出会った人間の中でも格別に邪悪な企みをする人間であった。
ディナミスはもっと悪いかもしれなかった。この異国の王は底しれない闇を感じさせ、その真意は海賊の都の完全制圧であったようだ。
カミットは彼らの手のひらの上で踊り、良いように使われてしまった。海賊と憎み合うように仕向けられ、そのとおりに動かされてしまった。
こんな屈辱は今まで味わったことがなかった。カミットが海賊を馬鹿者たちと思って見下しているように、ディナミスやモノはカミットのことを見下し、馬鹿にしているのだ。餌をぶら下げてやれば、その通りに走る獣とでも思っているのだ。
この扱いを許してなるものか。
こちらのカミットは炎の賢者ネビウスの息子であり、終わりの島の偉大な守り子たちの親愛なる友人であり、いかなる魔人をも殺す英雄なのだ。それを知らぬと言って、軽んじられてはたまらないのだ。
尊敬と称賛をもって、カミットは尊重されなくてはならないのだ。
海の底は暗く、果てしない闇が潜む。その闇がカミットを飲み込もうという。
ああ、そうか。と気付いた。
海賊の都にも魔人がいたのだ。
人々の心に潜む闇が、彼ら自身の生活を脅かし、安寧の日々を破壊するのだ。そして彼らは今、その脆弱さゆえに、彼方より来た遥かなる深き闇によって飲み込まれようとしているのだ。
※
カミットは浜に流れ着くと、そこには王国近衛兵が待ち構えており、直ちに縄で縛られ捕らえられてしまった。
そうして連れて行かれたのは海賊の都全体を見渡す丘の上の広場であった。そこは海賊の都の政治の中枢であり、海賊五家族の者たちが不可侵の領域として承認し合った、特別な場所であった。
一連の騒動について、王はこの場で裁定を下すことを公示した。そのために海賊五家族の有力者やその配下の海賊たちが集められ、彼らの面前で裁判が行われた。
カミットは地面に転がされ、玉座の王を仰ぎ見ることになった。
王は冷酷な眼差しでカミットを見下ろしていた。
モノが罪状を読み上げる。
「外国人のネビウス・カミットは王に矢を射た。王法を犯す大罪であるゆえ、死刑とする。」
カミットは、彼自身はもはや何もできず、モノの死刑宣告を何の感慨もなく聞き流していた。
と、ここで裁判の場にハルベニィが飛び込んできて、王の前にひれ伏して頼み込んだ。
「王様。カミットは王様によく尽くした。矢を射たのは勘違いで、海から敵が来たと思い込んだだけなんだ。こいつはリノロ家を潰すためによく働いたことを勘定してくれ!」
ハルベニィは必死に頼み込もうとしたが、近衛兵たちが殴る蹴るをして、ぼこぼこにして黙らせてしまった。
カミットはハルベニィにすまなく思ったが、この場では黙ったままでいた。
王はカミットに問うた。
「最後に申し開きはあるか?」
カミットは淡々と答え、
「言いたいことはある。お前が敵なら、僕はお前を殺す」と。
ハルベニィはこれを聞き、
「てめぇ! イカれてんのか!? 王様に謝れよ! 死ぬぞ!」と絶叫した。
なおもカミットはやめなかった。
「僕を都合よく利用できるなんて思うな!」
これに対し、王は何に心動かされたのか、小首を傾げ、今までと違って興味のある様子で述べた。
「その気質のせいで、お前は死ぬようだ」
「お前みたいなやつの言う事聞くくらいなら、死んだ方がマシ!」
カミットが吠えて、吠えて、吠えまくっていると、段々と彼の顔貌は獅子のそれに変わりだした。
王・ディナミスは玉座から立ち上がった。彼はカミットの間近まで歩き、地面に転がっているカミットに対し、かがみ込んで顔を近づけた。カミットがライオンの鋭い牙で食らいつきそうな勢いで上半身を起こすと、ディナミスは即座にカミットの首を掴んで、地面に組み伏せた。
周囲の近衛兵や百人近くもの海賊の観衆がどよめきだつ。近衛兵などは大慌てでカミットを取り押さえようとするが、ディナミスが彼らに命じて近づかせない。
そんな中で、ディナミスはただお互い二人だけに聞こえるくらいの小さな声で囁いた。
「火を制御しろ」
「僕はお前に利用なんてされない」
「当面は敵を滅ぼすのに役立つだろうが、その火がやがてお前自身を殺すことになる。炎の賢者の真髄は青の火だ。その真の力をお前は知っているか」
「え……? ええ!? なんでそれ知っているの!?」
カミットはディナミスがネビウスについて、急に深く言及したので、驚いてしまって、すっかり怒りがどこかに飛んでしまった。もっと重要な情報をディナミスが持っているに違いないと思って、いろいろ聞かねばならないと思ったのだが。
この日、カミットの処刑は公のこととして、有力な海賊たちを集めて行われていた。リノロ家の占い師たちは逃亡していたが、彼らは遅かれ早かれ一網打尽にされると分かっていた。そこに降って湧いたのが、カミットの公開裁判とディナミスの登場である。哀れな海賊の反逆者たちはこの一事にすべてを賭けることにしたのであった。
ディナミスが公衆の面前でカミットに接近し、近衛兵たちが距離を取り、この瞬間しかなかった、と。うまく行けば、カミットがディナミスの首に食らいついてくれるかも。そう思わせたことも含め、すべてディナミスの思惑通りだったか。
そして事が起こった。
海賊たちの観衆の中に潜んでいた呪術師たちが一斉に杖を掲げ、火の妖術でディナミスを攻撃した。その勢いはすさまじく、カミットごと燃やしてしまう勢いであったが。
ぶひっ! と猪の鳴き声。
ディナミス王の背後に隠れていた、子猪のヤージェが飛び出したのだ。
ヤージェは火を受けても平気で、猛火を浴びて、それをガブガブと吸い込んでたちまち巨大な火の猪の姿になった。
と、同時にカミットの縄が解かれた。ディナミスがそうしたのだ。
カミットはディナミスをキッと見た。何もかも見通している風が気に食わないが、ヤージェを生かしておいてくれたなら、ひとまずは問題を先延ばしにしてよいのだ。後のことは後で話せばよい。そうであれば、今やるべきは当面の敵を打ち払うことだ。カミットを王と一緒に焼き殺そうとしたヨーグ人呪術師たちを、こちらは憎悪をもって睨みつけた。
土地で尊敬される高名な占い師であるとか言って、以前には手心を加えたこともあったが、もう容赦する必要はなかった。カミットはヤージェに飛び乗り、その手綱を引いて、呪術師たちに向かって突進したのである。襲い来る炎をものともせず、カミットとヤージェは呪術師たちを木っ端のように吹き飛ばしてしまった。
このとき、観衆の中に紛れ潜み、王の暗殺の機会を確実にせんと狙っていたのは、リノロ家のエイモンであった。この類まれなる呪術師が頼ったのは、結局は、付け焼き刃の火の力ではなく、生まれたときから共にあり、生涯磨き続けた水の妖術であった。彼は前夜より秘術の儀式で高めた土地の力でもって、その杖を乱舞するように振り回し、巨大な濁流を生み出し、それで王ディナミスを打ち殺さんと挑んだ。
カミットは陽動に引っかかり、もとより死ぬ覚悟でいた呪術師たちを討伐するのに夢中になって、王の危機に気づかなかった。
振り返り、「あっ」と叫んだとき、彼の脳裏に思い起こされたのは、かつて終わりの島の海辺の町で、炎の賢者ネビウスが海の守り子と相まみえた最初の瞬間であった。
恐ろしい濁流に飲み込まれようとしているのに、ディナミスは平然とした様子でそこに立ち続けた。まさかディナミスがエイモンの手加減を期待しているはずもない。そうだというのに、その彼は何の手立てもないのだ。いや、おそらく、この土地においては逆らいようのない状況なのだ。土地に根付く精霊の力はそれほど強大だ。
カミットはヤージェの上から飛び降り、夢中で地面を叩きつけ、めいいっぱい叫んだ。
彼の生涯の相棒に。
ニュトーン、その名を。
これに森の呪いが応じた。
ディナミスと彼を襲う濁流の間に巨大な樹木が次々生え現れ、エイモンが放った渾身の一撃である水の濁流に対する防波堤となった。
エイモンは力を使い果たし、その場で地面に膝をついた。そこへディナミスの近衛兵たちがわっと押し寄せ、槍でエイモンを滅多刺しにして殺した。
ディナミスはこの危機を顔色一つ変えずに乗り切ると、モノが安否を確認しに来たのに対し、彼女の手元の書紀板のパピルス紙を手に取り、「これはもう必要ない」と言って、カミットの罪状の記されたそれを捨てさせてしまった。モノは不満そうに王を睨みつけたが、反論はしなかった。




