第225話 最期の牢獄(11)
ミーナは月の大神殿でカミットの無事を祈っていた。彼女の周りにはプロメティアたちが並び立ち、その背後には月追いが控えていた。神官などは立ち入ることができず、夜に呪われし者たちだけがここに居ることを許されていた。
ミーナが礼拝堂で月の化身の像に頼み込んでいるところに、白毛をした巨体の化け猫とジオクラテルがやってきた。彼らは岬の古塔から第二剣師の遺体を運んできて、それを祭壇に置いた。
そしてジオクラテルが古代の手鏡をミーナに渡した。
ミーナが鏡を見ると、そこに兎の顔が映っていた。その顔がミーナに話しかけた。
「始まりの守り子様に言葉を返して差し上げて……」
鏡に映った兎が長い舌をべろりと見せた。ミーナはその意図を理解した。大昔に第二剣師の口から切り取られた呪いの舌はミヤルからミーナに渡され、今はミーナの口の中にあった。
ミーナは祭壇に置かれた遺体に恐る恐る近づいた。第二剣師の遺体は防腐処理がされており、普通の遺体とは違う様子で、形状が生前の様子を維持していた。
舌を届けるのがミーナの役割らしかった。ミーナがどうすればよいのかわからずに居て、遺体の顔を覗き込んだときだった。
第二剣師の遺体は急に動き、ミーナの顔を掴んでガッと引き寄せ、その口に噛みつくようにして繋がりあった。口どうしを通じて、その中で呪いの舌が本来の持ち主へと移ると、遺体は再び動かなくなった。
ミーナは遺体を押し返して拘束を解き、その場にへたりこんだ。これで第二剣師が復活するかと思われたが、まだ何かが足りていなかった。ミーナは手鏡を遺体の方へ向けた。すると鏡にフードで顔を隠した少女の姿が映り、彼女が語りだした。
「カミットの妹のミーナ、よくここまで来たわね」
「あなたが第二剣師ね。カミットが大変なの。彼を助けて!」
「もちろんやってあげる。私が助けてあげるわ。でも今のままでは動けない」
「どうしたらいいの?」
鏡の中の少女が祭壇の奥の巨大な価値の天秤を指さした。
「価値の大天秤があるでしょう? その大皿に呪いが蓄えられているから、あれをひっくり返すのよ」
「そんなことをして大丈夫なの?」
「余計なことを考えないのよ。言われた通りになさい」
「どうやってひっくり返すの?」
「私の体を片方の大皿に乗せるだけよ」
「それだけ?」
「早くしなさい」
「分かったわ」
ミーナは第二剣師の遺体をずりずりと引っ張った。彼女が手こずっていると、他のプロメティアなどが手伝おうとしだした。ミーナはこの少女たちのことを追い払い、あくまでも第二剣師の復活を自分だけの手柄にした。
天秤は巨大であり、その皿に物を乗せるために中二階に上がらねばならなかった。階段で遺体を引っ張り上げるのは一苦労であり、ジオクラテルが手伝った。ミーナはこのことも不快に思ったが、ジオクラテルのことは言葉の通じない獣と見なし、報酬を分ける必要もないので許容した。
そうしてようやく価値の天秤を見下ろせる場所までやってきた。大皿の中にはどろどろとした不気味な液体やら気体やらが大量の虫のように蠢いていた。
ミーナはジオクラテルと一緒に第二剣師の遺体を大皿へ落とした。
その重みは天秤の均衡を著しく乱し、片方の皿を深く落とした。その勢いによって大皿がひっくり返り、どろどろとした呪いの実体が、見た目よりも多くの量が、止めどない様子で濁流のように溢れ出て、洪水のようになった。
呪いの洪水はしばらく続き、ようやく止まると、崩壊した天秤の横に可憐な少女が立っていた。高貴な姫君の衣装は遺体のときと変わらず、それを着る人は今は生気に満ちていた。彼女は子供っぽく笑って言った。
「今頃ネビウスは大慌てだわ……。きっと飛んでくるわね……」
少女は顔を隠していたフードを取り去った。
青い花髪が美しく、そしてその顔貌は兎そのものだった。
少女の名はシェラ。滅びし森の王家のウサギ族の最期の一人であり、彼女こそが継承一門の創設者であった。
このシェラに対し、ミーナが頼み込んだ。
「始まりの守り子様! 私、言われた通りにしたわ。だから、その……、私、月の守り子になりたくて……」
シェラはこれ以上無いほどの優しい笑顔でミーナに言った。
「月の化身には一つ言っておきましょうね。あなたはとっても良い子だったわ」
※
沖の海上では純白のクジラと緑花のライオンが激しく争っていた。海の化身と森の呪いの戦いは最初は拮抗していたが、地の利を持つ海の化身が徐々に優勢になった。そもそも高々一つの呪いが大化身に対抗していることが不自然ではあったが、この場にいる者たちにとっては重要な観点ではなかった。
カミットたちは森の呪いの浮草でどうにか耐えていた。彼らは大いなる者たちの戦いを遠目に眺めるばかりであったが、いくらか冷静になってきてハルベニィが言った。
「おい。お前の呪いの化け物、押されてねえか?」
カミットも自信がなくなってきて、不安な口ぶりをした。
「どうにかしてくれるはずだけど」
「ここは海だぜ。海で海の化身に勝てるやつがいるのかよ?」
「うーん? どうにかしてくれると……」
「くそっ。どっちにしろ、なるようにしかならねえか」
海の化身は呪い殺しの水を自在に操り、大きな波を起こして、緑の獅子を弱らせた。
そうしていよいよ森の呪いの敗色が濃厚になってきたときであった。
カミットたちがぷかぷか浮かんでいる場所のその下を巨大な何かが泳いでいった。それは赤い光を放っており、何やら不気味な気配であった。
ハルベニィはまたも狂乱した。
「今何か通ったぞ!? またやべえのが来たんじゃねえか!」
「……もしかして! ハルベニィ、しっかり捕まってて!」
カミットがそのように注意した直後だった。
ちょうど海の化身と森の呪いが戦っているあたりで、海面が持ち上がってきてまた別の怪物が現れた。
海上に出てきたのはその頭部と上肢であり、骨格ならば人にも近かった。しかしその姿は瑞々しさに満ちた透明な様子であり、その体を巡る血管の脈動が輝いて見えるという異様な有り様であった。それは近年になって終わりの島近海に現れた冥府の使いと呼ばれる怪物であった。
冥府の使いと森の呪いが海の化身を挟み込む形となると、戦いは一時的に穏やかになった。
カミットはその怪物の来訪に大喜びした。
「やったァ! ネビウスが助けを呼んでくれたんだ!」
このように呑気に喜んだのも束の間。
海の化身は呪い殺しの水をさらにたくさん撒き散らし、森の呪いはそれに毒の花びらを舞わせて対抗し、さらに冥府の使いが赤い触手を細く長く大量に振り回した。三体もの怪物が大暴れし争っていると、これだけでもとんでもないことだったが、今度は暴風が吹き荒れた。
カミットにとっては耳に懐かしい空の化身の鳴く声が聞こえた。
さらに遠方の空には雷雲が立ち込め、これは仙馬に違いなく、それが一直線に向かってくる。これを迎え撃つべく、太陽の都の方角から太陽の化身が炎の矢となって彗星のように尾を引いて飛んでいった。
「あれェ。……なんだかすごいことになってきた」
ハルベニィもパニックを起こすことすらなく、ただただ諦めていた。
「もうメチャクチャだァ。この世の終わりだなァ」
実際、もはや人の身では何が起きているかすら把握できないほど、戦いの規模と威力は規格外の域に入った。嵐、大波、雷鳴、業炎、あるいは怪物たちの血しぶきなどもあり、カミットたちはそのどれかに巻き込まれて一瞬にして消え去る可能性もあったのだ。
だがその激しすぎる戦いには一つだけ利点があった。この様子を常に見張っていたのははるか上空の浮島にある赤い輝き、すなわち月の化身であった。月の化身は決して罪を見逃さないはずだったが、大化身やそれに対し得うる怪物たちが大暴れしたことで、カミットやハルベニィはその監視の目を逃れたのである。
その一瞬の好機をカミットの森の呪いは逃さなかった。密かに伸ばした蔓と蔦がカミットたちを海中へと引き込み、彼らを特別な蕾に包んで保護し、それが冥府の使者へと引き渡された。
カミットたちは海の化身ですら感知しない、深い海の底へと逃れたのであった。




