第214話 兎の巣穴街(10)
ハルベニィはすっかり落ち込んでいた。
カミットは彼を元気づけたかったが、その上手いやり方が思いつかなかった。カミットがあれこれ言葉をかけても、ハルベニィの深い悲しみに沈んだ心には少しも届かないように思われた。
通りの分かれ道でハルベニィが行ってしまおうとする。
「もういいよ。疲れたから、俺は帰る」
カミットは繋いだ手を離さなかった。
ハルベニィはため息をついた。
「離せよ」
「いやだ」
「お前と一緒だと余計に気疲れするんだ。頼むから一人にしておいてくれよ」
「んん……。いやだ!」
カミットはどうすればよいのか分からず、だとしてもハルベニィをこのまま帰してはならないと確信しており、そうだというのに今の彼はあまりに無力で、そのことが悔しくて、目には涙が滲んだ。
ハルベニィは舌打ちして、
「ガキがよ。甘ったれやがって……。泣きてえのはこっちだぞ」と呟いた。普段の嫌々ながらもカミットを受け入れいているときとは様子が違い、今のハルベニィには本当に怒っている気配があった。
二人が気まずくなって沈黙していると、ぶひ、ぶひ、と子猪の鳴き声が元々あったものが聞こえるようになった。
カミットの足元にはいつも彼の相棒の子猪のヤージェがうろちょろしていた。ヤージェはカミットたちを心配そうに見上げていた。そうしていると彼は突然「ふごふご!」と嬉しそうに鼻を鳴らし、カミットを離れて駆け出した。
カミットは叫んだ。
「あっ! ヤージェ、だめだよ。戻ってきて!」
しかしその心配は必要なかった。
ヤージェが走っていった先には、燃えるような赤髪をしたネビウスがいて、ヤージェは彼女に飛びついて抱き抱えられた。
「あら、あら。カミットがいるのかしら。今はミーナとお勉強に行っているはずだけど……」
ネビウスはいつもと変わらぬ様子で呑気なものであった。彼女はヤージェを抱っこして撫でながら、カミットとハルベニィのところへやってきた。
「あなたたち、どうしたのよ」
「どうもしねえよ」
ハルベニィは場を取り繕おうとした。
ところが聞いた本人であるネビウスの方では、その視線が例の神官の邸宅の方に注がれていた。
ハルベニィはため息をついて、ネビウスに聞いた。
「母ちゃんのこと知ってたんだな?」
「はァ? なんのことかしら」
「母ちゃんは生きてた! 弟や妹たちも! みんな、生きてたじゃねえか……!」
「あらま。それは良かったわね」
「良かったって、それはそうだけど、俺には良かねえよ!」
「そうやってぎゃあぎゃあ言わないでちょうだい。こんな道端でするような話じゃないし、うちに来なさいな」
ネビウスはハルベニィを家に招き、温かいミルクやお菓子を与えた。
ハルベニィは最初はそれらに手をつけるのを躊躇っていたが、一度飲んだり食べたりすると、そのあとは一気にごくごく、ばくばくと食べた。本当は彼はいつもお腹を空かせていて、普段の質素で栄養のないパンや粥ではそれほど食欲をそそられなくても、ネビウスのとっておきのお菓子となればその魅力には抗いようがなかった。彼は夢中で飲み食いしながら、それと同時に涙をぽろぽろとこぼした。
カミットにとってはいつもの食卓という場所だが、ハルベニィがいることは彼にとって特別だった。ネビウスが手作りするお菓子は普段の食事で出てくることはなく、今日はどうやら予め準備していたらしいと彼は気づいた。カミットはネビウスがハルベニィを見つめるその横顔を観察した。そうしてみても、いつものことではあるが、ネビウスの真意は読み取れなかった。
そのネビウスがハルベニィに優しく語りかける。
「親と子はいつまでも一緒にいることはできないのよ。いつかは別れが来るの」
ハルベニィは苦しげに言う。
「こんな別れはあんまりだ」
「苦しいでしょうね。愛が強ければ強いほど」
二人の話しを聞きながら、カミットは彼自身のことを考えた。彼もまた、いつかネビウスと離れ離れになるときが来るのだ。来年までは一緒に荒れ地の都に行くことになっているので、それはまだ先のことだろうが、そのときはいつか必ず来る。
しかし、本当にそうなのだろうか。カミットは名案を思いついた。
「あのさ! 会いたくなったら、会いに行けば良いんだよ!」
ハルベニィはカミットに冷めた目を向けた。
「阿呆。俺の母ちゃんと兄妹は神官の家に入った。下級市民が関わりを持つことはもうできねえんだよ」
「ええ!? なんで!」
「なんでも何もあるか!」
「でも、あの神官のおじさんに僕はいつでも来てよって言われたよ! だからハルベニィは僕と一緒にさ……」
「うるせえ、うるせえ。お前は本当に馬鹿だな。何も分かっちゃいない」
ハルベニィの言い草があまりに冷酷で、カミットは悲しくなった。何を言っても、どう手を尽くしても、彼がハルベニィの問題を解決することはできないように思われた。
カミットとハルベニィが気まずくなると、ネビウスが徐ろに立ち上がり、分厚い書簡を抱えて持ってきた。それはカミットには見慣れた物だった。
「職人組合の初級職になるための覚書集よ。これを十四歳になるまでに一言一句、丸ごと理解して覚えられれば、普通の市民でも職人組合職員になれるのよ」
ハルベニィはふはっと吹き出して嘲笑った。
「んなもん無理に決まってんだろ」
「カミットはこれを一ヶ月ちょっとでやったのよ。普通の子供だと少なくとも数ヶ月はかかるみたい」
「……なんだァ? 急に息子自慢かよ。耳が腐りそうだからやめてくれよ」
「たいしたもんだわと私は思ったのよ」
「勉強して、言葉を暗記したからなんだってんだ。そんなもんで人間の価値は決まらねえよ。職人組合や神殿なんて、頭が鈍いグズばっかりだろ」
「あんたは頭が良いんだから、そういう道に進めた可能性もあったわ。上手いことやって、貧民街の下級市民育ちから守り子の妻にまで上り詰めた例もあるのだし」
「俺は俺のやり方で生きていくんだ。組織や誰かに頼って生きるなんて絶対に嫌だ。そんな弱い、惨めな生き方なんて」
「あんたのお母さんには頼る人が必要だったわ」
ここでカミットは閃いた。彼はネビウスの示唆することを理解し、解決策が見つかったような気がして、気持ちがめきめき元気になった。
「僕はハルベニィが困ってたら助けるよ! 頼りにしてくれたら嬉しいよ!」
この宣言に対し、ハルベニィはうんともすんとも言わず、俯いただけだった。
一方のカミットはすっきりしてしまい、もはや悩みもなかった。眼の前のハルベニィが落ち込んでいるのをただちに元気にさせることは諦め、今後彼が悩んだり落ち込んだりしたときにはできるだけその心に寄り添えるようにしようと思ったのであった。
このようにして、ハルベニィと彼の母にまつわる悲しい事件が静かに終わろうとしていたときであった。
家の戸が乱暴に叩かれ、品のない声が聞こえてきた。
「よう! ネビウス! この哀れな男に酒を寄越しやがれ! まだまだ飲みたりねえぞ!」
声の主はバルチッタであった。彼は近頃は毎日のようにネビウスを訪ね、酒を浴びるように飲んでいた。
ネビウスは苦笑いして、
「今日は追い返しておくわ」と言って、席を立った。
このときハルベニィが決意した様子で、勢いよく立ち上がった。彼は玄関口でネビウスがバルチッタとやりとりしていたところに入っていった。
バルチッタは彼の子供であるハルベニィがここにいたことに驚いた。彼は既に酒を飲んできており、顔は赤らみ、足どりはふらついていた。彼はハルベニィを口汚く罵った。
「てめえ、こんなところでなにを遊んでやがる! 銀を稼いでこいよ!」
「親父。話がある。ちゃんと聞け」
「ああん!?」
「……母ちゃんたちは死んでなかった」
バルチッタはこれを聞くと、一瞬で酔いが冷めたようだった。
「なんだと。どういうことだ?」
「母ちゃんはこの四年で生活していけなくなって、養ってくれる男と再婚した」
「ふざけるな。この俺の女に手を出したのはどこのどいつだ!」
「神官だ」
バルチッタは言葉を失った。神官が相手では復讐のしようもなく、それどころか地位も金もすべてを持っている男とはバルチッタにあらゆる点で勝っていた。
ハルベニィは続けた。
「俺たちは街を出て、商売をしよう。もうこの街に用はねえのさ」
ところがバルチッタはぼんやりと虚ろな表情をして、ハルベニィの言葉が聞こえていない様子だった。
「そんなわけねえ。俺たちは約束をしたんだ……。俺は約束を守ったんだぜ……」
バルチッタは覚束ない足取りでどこに行ってしまおうとする。
それをハルベニィが心配して、着いていこうとした。
そうしてハルベニィがバルチッタの隣に寄り添おうとしたとき、バルチッタは奇声をあげて、ハルベニィを殴り飛ばした。
不意のことで、ハルベニィは顔面を正面から殴りつけられ、路地に転がった。彼は鼻血を垂らし、呆然としていた。バルチッタはさらにハルベニィが倒れているのを踏みつけようとした。
ここにネビウスが駆けて行って、バルチッタの暴行を止めさせた。
バルチッタは唾を吐き捨て、ふらふらと歩いて行ってしまった。
その後、彼が向かった先は神官の住宅街だった。彼は手当り次第に神官の邸宅の前で喚き散らした。
「俺は帰ってきたぞ。俺は約束を守ったぞ!」
その声が届いてしまい、ある邸宅の門から美しい婦人が出てきた。バルチッタの妻であり、ハルベニィの母である女性である。
バルチッタは破顔して、彼女に駆け寄った。ところがその両者の間には衛兵がさっと立ちふさがった。
「どけっ! お前ら、人の女に近寄るんじゃねえぞ」
婦人は泣きながら言った。
「あんた。こんなところに居ちゃまずいでしょう。早く帰ってちょうだい。あんたが約束を守ってくれて、生きていてくれて嬉しかったわ。
でも、もう私達は会えないのよ。どうかあんたも元気でいて……」
婦人は衛兵たちに頼んだ。
「この人をここから遠くにやってあげてちょうだい。どうかあまり乱暴にはしないで」
ところがバルチッタは激しく暴れ、さらに大声で喚いた。
すると屋敷の方でかんかんと警笛の鳴る音がしだした。
婦人は顔色を青ざめさせて、必死になって言った。
「あんた、ここから逃げてよ。お願いだから」
「お前が一緒に来るまで帰らねえぞ。俺は、俺は!」
十数人の憲兵が集まってきて、バルチッタを殴りつけた。こてんぱんにやられて、バルチッタは顔中をあざだらけにし、どこもかしこも血だらけになった。
そうしてついに彼は縄で縛り上げられてしまった。
彼は焦点の定まらない目で妻を見た。
「これは夢か。死んだと思っていた、愛するお前がそこにいるぞォ……。子どもたちの声が聞こえるなァ……」
憲兵はバルチッタがぶつぶつ言うことに苛立ち、さらに殴りつけて気絶させてしまった。
※
医療収賄、窃盗、薬物及び呪いの頒布、脱獄、脱税、市民権の偽造など。
これらの掟破りがそれぞれ複数に渡り、バルチッタには地底鉱山で労役をした後の極刑という判決が下された。
第205話~第214話
「兎の巣穴街」おわり




