第213話 兎の巣穴街(9)
カミットはハルベニィを心配して、朝早くに彼のアパートを訪ねた。
「おはよう、ハルベニィ! 元気してる?」
ハルベニィはいつも通りであり、いかにも鬱陶しそうにして、
「おう、最高に気分が良いぜ」と言った。
ハルベニィはすぐに出かけようとしていた。
彼は珍しくもカミットを誘った。
「お前、どうせ暇なんだろ?」
「うん! どこ行くの?」
「暇つぶしだよ。思いついたことがあるのさ」
こう言いながら、ハルベニィはある場所に向かった。
それは狐倶楽部の秘密の館だった。
館の広間には布がかけられた例の鏡があった。
ここでハルベニィが一本の書簡を取り出した。カミットはそれを昨夜見たばかりであったが、今回もまたぎょっとして驚いた。
「バルチッタの馬鹿野郎が神殿から名簿を盗んだんだよ。こいつにはな、俺の母ちゃんや弟、妹たちが死んだと書かれていたんだとさ」
「そっか。残念だったね」
「本当にな。ネビウスは世話焼きだよな」
「ネビウスは優しいからね」
「俺もそう思うぜ」
ハルベニィは名簿書簡を広げる。彼は古代の謎の文字がぎっしりと書かれた書簡を読むことができない。
次には彼はその名簿をカミットに渡した。
「こいつを鏡に映してみてくれねえか」
「んん? いいけど……」
カミットは言われたとおりに、鏡に名簿を映してみた。
その瞬間、鏡と名簿がぴかりぴかりと光り、その不思議な光りが反射して、カミットに浴びせかかるようにして集まってきた。カミットは驚いて、うっかりして名簿を放り投げた。
そのときハルベニィが慌てて名簿を拾った。鏡の反射光はハルベニィにも降り注いだ。
カミットとハルベニィは二人してどたばたとして騒ぎを起こしてしまい、商人衆の他の面々が集まってきた。カミットは彼らに一応は詫びたが、当のハルベニィがすっかり固まって動けなくなってしまっていた。
その後、落ち着いてから、カミットはハルベニィに言った。
「あのさ、良かったね! ハルベニィのお母さんたちは死んでなかったね!」
古代の鏡は古代文字が記した情報を光に変えて、カミットとハルベニィに伝えたのだった。その伝わり方は人が物事を理解する様式とは違って、全ての内容をただちに認識させるものだった。このことをカミットはあまり驚かなかったが、ハルベニィは衝撃を受けていた。
ハルベニィはしばらく呆然としていて、カミットに質問した。
「鏡が伝えたことと、ネビウスの言ったことは、どっちが本当だ?」
「ネビウスが読み間違えたんじゃない?」
「鏡が言ったことを信じるんだな?」
「うーん。ネビウスにもう一回読んでもらう?」
「いや、それはしなくていい」
ハルベニィは決意して言った。
「母ちゃんたちに会いに行く」
※
ある屋敷の庭に美しい夫人が出てきて、洗濯物を干し始めた。そこに小さな子どもたちも着いてきて、母親の家事仕事を手伝った。女は穏やかな様子であり、いっそ幸せそうですらあった。
その様子をハルベニィは塀の外から眺めていた。
カミットは心配して言った。
「話しかけにいかないの?」
「そうするつもりだけどな」
彼らは勝手に入っていくわけにはいかなかった。
その屋敷はある神官の邸宅であり、家の門はもちろんのこと、近所のそこら中に屈強な衛兵が立っているのだ。兵士たちはどんなに小さな賊でも許すことはなく、見つけたらただちに殺しにかかってくるというものである。
そこは地上にある神官の街だった。ネビウスの居宅もこの近くであり、カミットにとっては知った街であった。
しかしハルベニィにとってはこの街こそが牢獄の都で最も危険な場所だった。地下の盗賊たちは恐るべき荒くれ者たちだが、そんな彼らですら神官の街には手を出せない。多数の衛兵もそうだが、闇の呪術を操る神官はさらに恐ろしい存在だったのだ。
ハルベニィが困っていたので、カミットは代わりに衛兵に話しかけた。カミットは日頃からこの近所をうろつき回っていて、その黄色い花髪が大変に目立つこともあって、よく知られていた。彼がネビウスの子であることも周知のことであり、衛兵はカミットの頼みを受けて、屋敷の夫人に使用人に話しを通してくれたのであった。
幸せな屋敷のお庭で、ハルベニィは彼の母に対面した。
最初、ハルベニィが何も言えないでいると、母親の方が彼に駆け寄って抱きしめた。
「あんた、生きていたの……!」
この一言と抱擁でハルベニィはわっと泣いてしまった。
「母ちゃん、ごめんなァ」
「謝るのは私のほうだよ。あんたには何もしてやれなかったわ」
親子の再会はカミットに感動をもたらした。彼は温かい気持ちになって、愛の素晴らしさを感じたのであった。無関係の彼がいるのは良くないかも知れないと思い、そっとその場を去ろうとしたときだった。
ハルベニィが言った。
「父ちゃんもいるんだ。すげえ稼いできて、銀もたくさんあって。だからもう、母ちゃんに辛い思いはさせないよ。だからまた一緒に……」
ハルベニィがいろいろ言うほどに、母親の方は気まずそうにして、何やら言うべきことを迷って、言葉を選んでいる様子になった。
そうしていると、屋敷の方から屋敷の主人らしい男が出てきて、どうやらその男は神官らしく、彼がカミットに話しかけた。
「ようこそ、ネビウス・カミット。魔人殺しの英雄が私の妻に用があると聞いたのだ。急なことでもてなしはできないが、歓迎しよう」
「よろしくね! 僕の友達のハルベニィがお母さんに会いに来たんだ!」
その男はカミットの発言を受け、ハルベニィを見やり、そして妻に聞いた。
「それは?」
「私の娘でございます。こんな身なりでございますが、とても頭が良くて、悪いこととかはまるでしない本当に良い子で……」
ハルベニィの母はすまなそうにして言った。
「死んだと思われていた子供か。良かったな」
「こうして訪ねてきてくれたのでございます。どうかお許しを」
「許す。それがカミットの友人ということも、何かの縁なのかもしれない」
「ありがとうございます」
「だが、あまり長居させるなよ」
「はい、はい。仰せの通りにいたします」
男はカミットに対して「ゆっくりしていかれよ」と言い残し、その場を去った。
カミットはぼやぼやしていたが、ハルベニィの方は理解が早かった。彼は詳しいことを聞かず、笑顔を作って言った。
「母ちゃんが元気で良かったよ。それじゃあ、またいつか……」
「ええ、またね。元気でやるんだよ」
神殿名簿は市民の住居や家族の変更を細かに記録していた。夫と長女が出稼ぎのために去った後、一家はすぐに困窮した。折しも終わりの島の呪いの巡りが狂い始めた時期と重なり、呪いに関わる様々な問題は下級市民の生活をさらに圧迫した。
母親は子供たちを養うためにあらゆる種類の仕事をし、奇跡的にある神官の目に止まり、生活の支援を手にした。その男は前の夫よりもよっぽど安定した収入を持っており、人格は高潔で優しさに満ちていた。新しい生活はその女の人生において、これまでで最高の幸福と平和に満ちていた。彼女がかつて持っていた物は、まだ無垢の小さな子どもたちを除けば、それらの古くて汚れた物を置くべき場所が新しい家にはなかったのだ。
カミットとハルベニィは邸宅を後にし、どんよりとした雰囲気で、通りをとぼとぼと歩いていた。カミットはかけるべき言葉を見つけられず、なんとなくハルベニィと手を繋ごうとした。
ハルベニィはカミットの手を払った。
「同情すんじゃねえぞ」
「でもハルベニィはかわいそうだよ」
「うるせえ! 俺はかわいそうなんかじゃねえ!」
そう言いながら、ハルベニィはぼろぼろと泣き出してしまった。
カミットはもう一度ハルベニィと手を繋いだ。ハルベニィは手を振りほどこうとしたが、カミットはぎゅっと握って離さなかった。




