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ネビウスクロニクル  作者: 石井
牢獄の都編
197/259

第197話 牢獄の都(3)

 ほんの数ヶ月前までは、カミットにとって、ネビウスはこの世の最も確実な強者だった。しかし今は、その信念はネビウスと仙馬(ボレマロゴ)の戦いの衝撃的な展開を見たことによって揺らいでいた。ネビウスは多彩な技と特別な道具を有するが、それでも常に絶対的な勝利者であるとは限らないのだ。

 今、ネビウスと塔の魔人が戦っていることは、カミットに強い不安をもたらした。

 カミットが尊敬する男の一人に、傭兵のカリドゥスがいる。カリドゥスは彼自身の名誉や安全を横に置き、彼の母を助けるための危険ならば進んで引き受け、彼の一族に起こり得た悲劇を取り除いてみせた。

 その英雄の為したことが魔人殺しややりの達人というような分かりやすい名目を得なかったとしても、その行為を伝え聞いたときにカミットは憧憬しょうけいを覚えた。カミットもまた、やがてはカリドゥスのように家族を守る立場になるのだ。男とはくあるべきだと、カミットは確信した。

 見上げた空は狭かった。牢獄の都(ラクリメンシス)という狭苦しい都市では建物が密集していて、大通り以外のあらゆる路地は影によって暗かった。このような場所に閉じ込められていては、もしかしたら人はこの世の晴れやかさに気づけずに、くらよどんだ観念のうずに沈んでいくのかもしれなかった。

 カミットは彼の身に宿る森の呪いに語りかけた。

「ニュトーン。ネビウスが戦っている。僕はネビウスを助けないと……!」

 このようにその名を呼んだのは初めてのことだった。カミットは彼の森の呪いには固有の名があることを夜の王から教わったが、その本人からはこれまでに一度も名乗られたことはなく、言葉で話しかけられたこともなく、カミットはその名を呼んでよいのか分からず、今も戸惑っていた。

 カミットが返事を待つと、不思議な音が聞こえた。

 こぽり、こぽり。

 しゅー、しゅー、ぱちり。

 こぽ、こぽ、ぱちり。

 最初は耳鳴りがしたのかとカミットは思った。

 しかしカミットはそういう音の調子や抑揚よくように覚えがあり、この音が水言葉に違いないと気づいた。ヨーグ人などの水陸両棲人種では、水中においては水言葉によって特別な意思疎通をするのだ。

 カミットは情けなく頭をかいた。もう随分ずいぶん前になるが、海の都(ドンド)に着く前には水言葉を学ぶと宣言して、実際には少しも勉強しなかった。もし少しでもそういう努力をしていたら、今このときに長年の相棒の初めての言葉を聞き取れたかもしれなかった。

「ごめんよ。僕は水言葉が分からないんだ」

 カミットが項垂うなだれていると、彼の周りに花が咲き始めた。優しく、美しく、その花たちはカミットを慰めているようであった。

 次にはカミットの足元に巨樹が立ち現れ、彼が驚くのも構わずに一気に空へと打ち上げた。

 カミットが都市の空にぽーんと放り出されると、塔の魔人がすぐにカミットを弓で狙った。

 そのすきに突っ込んでいったのは炎のいのししであるヤージェと彼にまたがるネビウスだった。ヤージェの火の力は今はその乗手じょうしゅである炎の賢者ネビウスによって完全に制御され、彼らは屋根から屋根を走り渡る不安定な走行を軽やかな様子でこなした。

 光の矢をかいくぐり、ネビウスとヤージェは飛ぶように走った。

 その突撃は翼の大蛇を吹き飛ばした。

 塔の魔人は振り落とされると、巧みな身のこなしで建物の屋根の上に降り立った。彼はすぐに弓矢でやり返し、ネビウスの追撃を阻止した。

 ネビウスは青い剣で光の矢を弾いて防いだ。

 そうしながら、彼女はカミットに叫んだ。

「手出ししないのよ! もうちょっとで魔人もあきらめるわ!」

 カミットは建物の屋根に取り付いていた。彼はネビウスに言い返した。

「僕は戦うよ!」

 このときネビウスはカミットそのものよりも、彼の肩のあたりをにらみつけていた。

 カミットは無意識でいたが、そこには水泡が現れていて、その中にいるヒトとも獣とも判別し難い何者かの顔が満面の笑みを浮かべていた。

 ネビウスは怒りでこぶしにぎり、歯ぎしりして言った。

「約束を守りなさいよっ……!」

 こうしてネビウスが嫌がる一方で、

 カミットはやる気に満ちていた。

 彼は森の呪いと気持ちを一つにするために、しゃがみ込み、そこからゆっくりと、木が芽吹く感覚を想像しながら、ぐっと力を込めて立ち上がった。

 そうすると、ぽん、ぽん、と新芽が芽吹いた。

 量より質が重要であると、彼は気づいていた。巨樹を生み出しても光の矢で倒されてしまうので、今はもっと効果的な物が必要だった。

 カミットはもう一度、しゃがみ、それから力強く立ち上がった。

 新芽はにょきっと成長して、大きくなった。そのくきにはとげが生えていた。

 その儀式を繰り返すと、やがてそのくきは十分に太くなって、その表面には微細なつぼみがびっしりと生えそろった。

「やった!」

 カミットは歓声をあげた。彼の森の呪いは多彩な植物を生み出すが、その中でも赤薔薇(ばら)は特別だった。

 その薔薇ばらを咲かせるにはもう一つ儀式が必要だった。

 カミットは深く息を吐いて、覚悟を決めた。薔薇ばらくきに手を伸ばした。かつてネビウスがそうしていたのを真似て、その棘だらけのくきを握った。とげ皮膚ひふを貫き、血がしたたった。

 それも構わず、カミットは薔薇ばらくきを引き抜いて、ぶんと振った。血がくきを伝うと、その表面の微細なつぼみが花開き、赤薔薇(ばら)の剣になった。

 ちょうど薔薇ばらが咲いたのと同時に、カミットは全身の血肉が湧くのを感じた。血によって繋がった赤い剣からいくさへの渇望が流れ込んでくるように思われた。

 そのとき一瞬、カミットは視界が真っ赤になった。

 こぽり、こぽり。

 こぽ、こぽ。

 赤くなった視界に泡が現れては消え、それらが不思議な響きを生み出していた。

 もっとよく耳を澄ませると、それはカミットの知る言葉ではなかったはずだが、明確な意味を持つ思念となり、詩歌のような調子で高らかにろうじられた。

「怒りをたたえよ。

 その血をあがめよ。

 その剣を握れ。

 一門【アプレンティシーズ】の宿命を継承せよ」

 長年の相棒と意思疎通できたことは、それが全て血に染まった悪夢のような光景の中であったとしても、カミットにはめでたいことだった。言葉の意味が分かったとて、結局カミットは相手の言いたいことを理解できていなかったのだが、戦いに向かう戦士の激励の言葉のように解釈できたので、カミットは薔薇ばらの剣を高くかかげ、「おォ!」と雄叫びをあげた。

 やがて視界が現実に戻り、明瞭めいりょうになった。

 そこは牢獄の都(ラクリメンシス)の都市の高層、建物の屋根の上である。

 今もネビウスととうの魔人は戦っていた。

 ネビウスはときどきカミットに向かって何やら叫んでいたが、カミットの意識は闘志によって支配され、意味のある会話ができる状態ではなくなっていた。

 カミットは走り出した。

 体が軽かった。

 彼は飛ぶように駆けた。

 剣の扱いは学んでこなかったが、今はその剣の方から流れ込んでくる意識があり、どうすれば良いのかが全て分かっていた。

 カミットはとうの魔人の背後から飛びかかって奇襲した。

 魔人は光の剣の二刀流でもって、正面ではネビウスを抑え、背後ではカミットを迎え撃った。

 赤薔薇(ばら)の剣は光の剣とぶつかり合って、花びらを散らした。その花びらが魔人の黄金の皮膚を切り裂いた。

 魔人は一瞬だけひるんだ。

 そのすきは一秒の半分にも満たなかったが、

 カミットは空中で身をひねり、次の一撃を振り抜いていた。

 赤の刃が魔人の頭を斜めに切り裂き、顎を割り、彼の体で唯一赤い色をしている部分である、魔人の舌を切り裂いた。

 とうの魔人は絶叫し、うめき苦しみ、倒れ込み、屋根の斜面を転がり落ちる中でその姿を黒いきりに変えながら消滅した。

 カミットは魔人を完全に殺さねばと思い、追いかけようとした。

 するとネビウスが彼を捕まえて引き止めた。

 カミットは獰猛どうもううなり、ネビウスの首に噛みついた。

いたっ。やめなさい! 坊や!」

 二人で押し合い、もみ合いになっていると、ここにヤージェが突進してきて、彼がカミットに噛み付いて、ネビウスから引き剥がした。

 その間に、ネビウスが腰にぶらさげている小袋から、ヤージェにつけているような手綱たづな紐を取り出して、それをカミットの首に取り付けた。

 するとカミットは我に返った。彼は今しがた起こったことを全て覚えていたが、どうしてそのようなことになったのか、分からずにいた。

「んん? あれェ?」

 カミットが混乱していると、ネビウスが彼を抱きしめた。

「大丈夫よ。もう心配いらないわ」

 カミットがネビウスを抱き返そうとしたとき、カミットはその彼の手が毛皮に覆われ、指先には鋭い爪があることに驚いた。

 以前にもそのようなことがあったが、今カミットはコーネ人のような見た目に変貌していたのだ。彼の口には凶悪な牙が生えていて、それで噛みつかれたことでネビウスは首元から血を流していた。

 カミットは変貌によって凶暴になり、それをやったのが自分であることを理解して、恐ろしい思いがした。

「ネビウス。僕、そんなつもりじゃ……」

「ええ、大丈夫。今は落ち着いて」

 ネビウスはカミットをなだめるような優しい言葉だけを口にした。

 彼女はカミットの髪を柔らかくでた。

「元気な黄色。あなたの花髪かはつはそういう色だったの」

 変わっていたのはコーネ人のような見た目になったこと以外にもあった。

 カミットのつぼみの髪が黄色い花を咲かせていたのだ。

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