第191話 階層都市(5)「旅立ち」
カミットは年明けには太陽の都を発つと思い込んでいたが、実際にはネビウスは旅立ちを春過ぎ頃と想定していた。
というのも、ネビウスには、彼女の一族の会議に参加して、最重要議題の議決を見届けるという目的があったからである。それは何事もなく完了したので、ネビウスはほっと安心したのであった。
この一年の間、四年に一度開かれる古の民の一族会議は連日開催されていたが、それがついに閉幕を迎えようとしていた。
最終日には皆の取りまとめ役であるヴェヴェが広場の演説台に立ち、彼のこだわりの傘帽子などの旅の道具について、その使用感などを四時間ほど解説した。その間、ネビウスはヤージェを撫でながら、彼と一緒にうとうとしており、会議参加者たちの拍手によって目を覚ました。
ヴェヴェは古き一族を取りまとめる立場でありながら、若々しい青年の見た目をしていて、それでいて話し方は老人のようだった。
彼は話したいことを存分に語り尽くして、会議の閉幕後に満足した様子でネビウスに言った。
「今年の会議は有意義であった。最も古き者の一人である君が参加してくれたことは大きな意義を持った。実に十二年ぶり、三回ぶりの参加だったとは私は驚いた。その前はたしか五十年近く招待を無視してきたようだが、次の四年後の会議には是非とも出席してくれ」
「それまでこの会議が存続していればね」
「不吉なことを言う」
「冗談よ。私の勘はいい加減だから安心しなさい」
「ふむ。予言が早く届けば良いがな。まさに海を漂う流木の気分だな。良き流れを期待するばかりだ」
古の民は終わりの島の外の地域にも暮らしている。終わりの島の古の民はより予言の力に優れた一族の同胞の見解を求めることに決めたのであった。
直近では彼ら自身は何もしないという結論に至ったことについて、ネビウスもまた異論を唱えなかった。大昔から変わらず、古の民とはそういう人々であった。
※
ある春の日のこと。
エニネはお腹がすっかり膨らんで、邸宅でゆったりと過ごしていた。
お産はまだ先だと思われていたが、ネビウスが定期検診の予定日ではないにもかかわらず、急にふらりと現れた。彼女はエニネに「楽にしていなさいよ」などと声をかけて、コウゼン邸で我が物顔でくつろぎ始めた。
エニネも話し相手が出来て退屈しなかったので、ネビウスを受け入れた。
そうしていると今度はカミットがやってきた。彼はネビウスに呼ばれたのである。
ネビウスは日の傾きをやたらと気にしていて、またエニネの体調を注視していた。
そして破水と陣痛が起こった。
エニネは混乱し、焦った。明らかな早産であり、子供は無事に生まれてこないと思ったのである。
このときネビウスは即座に動き出した。彼女はカミットに指示をして、いくつかの呪いの植物を作らせた。
コウゼンの邸宅では多くの家事奴隷を所有していて、必要な道具や薬品は速やかにかつ大量に届けられた。
エニネはネビウスに縋りついた。
「どうしよう。私の赤ちゃんが。まだ生まれてきてはいけない時期よ」
ネビウスは力強く言った。
「私に任せておけば大丈夫よ」
「こんなに何ヶ月も抱いてきたのよ」
「分かっているわ。あんたの愛はその子をきっとこの世に迎えられる」
家事奴隷たちがエニネを抱えて、寝台に上げた。ネビウスはカミットに用意させた呪いの植物の触手のいくつかをエニネに接続し、また適宜投薬なども行った。
こうしてネビウスの厳重な管理の下でエニネのお産が始まった。難産であり、コウゼンが公務を終えて夜遅くに帰宅しても、まだエニネは苦しんでいた。コウゼンの一族の者や、エニネの親族、ドゥリメやカリドゥスなども呼ばれてきていて、邸宅の居間は多くの人でごった返していた。彼らはお産が上手くいくかどうか、誰もが不安げにしていた。
エニネが大量の汗をかいて、顔面蒼白で呻いていると、コウゼンはそれを見て慌てふためいた。彼はネビウスに聞いた。
「妻と子供は無事なのか」
「いまのところはね」
「私にできることはないのか」
「ないわ」
「出血が酷い。あんなに出るものか」
「そういうものよ」
「エニネの寝具は汗でびっしょりだ。替えたりしないのか」
「必要に応じて替えているわ」
「水分補給は」
「やっているわ」
「あの植物はいったいどういう……」
「うるさいわね! 大人しく待っていなさいよ!」
ネビウスが怒鳴ると、コウゼンはコーネ人の豊かな体毛を逆立てて、彼の尻尾は驚きでぴんと立った。彼はエニネの寝室からすごすごと退散したのであった。
そうして夜明け前のこと。
人々が見守る中で産声が上がった。
ネビウスは赤毛をしたコーネ人の赤ん坊を取り上げ、すぐにその子に呪いの植物を取り付けた。その植物は赤ん坊に蔦と根を張り、栄養豊かな水泡で肌を包むことで、成長を助けるのだった。
ネビウスはそうした上で、その赤ん坊をエニネに抱かせた。エニネは生まれたばかりの子を見つめて、愛しさ溢れる声で語りかけた。
「私の子。生まれてきてくれたのね」
コウゼンはその子供を覗き込んで言った。
「……なんて小さい」
エニネは彼に言った。
「あなたの赤毛だわ」
「そのようだ。私の父や私と同じ赤毛だ。まさに一族の証だ」
この赤ん坊は一家の一族の者たちに対して、その場で公表され、コウゼンとエニネの間に第一子が誕生したことが知らしめられた。
※
春が終わりつつある頃、ネビウス一家は家の掃除を済ませ、ついに太陽の都から出ていくことにした。
エニネやコウゼンの他にも職人組合の上役などまでが、街の外門まで一家の旅立ちを見送りにきたのであった。
カミットはエニネに言った。
「いっぱい、いろんなことを教えてくれてありがとう! また会おうね!」
「こちらこそ。あなたと一緒に過ごせて良かったわ」
エニネは柔らかく笑って言った。
カミットとエニネが話している間、コウゼンがネビウスに言った。
「近年、牢獄の都の状況はあまりにも不透明で、我々は懸念している。太陽の都がどうにか安定したらば、こちらから剣師を派遣する予定だ」
ネビウスは呆れて笑った。
「守り子が堂々と言うものかしら」
「……という話を私の妻が言っていてな」
「同じことでしょ」
ここでカミットがコウゼンに言った。
「僕もコウゼンみたいに強くなって、皆を守れるようになるからね!」
カミットのこの発言はコウゼンには意外だった。
「おや。私みたいに?」
「呪いなんかに頼らなくたって、強くなるよ!」
「それは、……嬉しい宣言だな。君は既に魔人殺しの英雄だ。それに飽き足らず、さらなる高い志を持つことはすばらしいことだ。君の英雄の道がさらに続いてくことを祈っている」
「ありがとう!」
カミットとコウゼンは握手をした。
人が多くいる中で、ミーナは端の方で気配を消していた。ミーナは金色の髪と美貌が際立つ少女だが、人々の注意から逃れることに長けていた。
ネビウスがいざ旅立たんとコウゼンたちに別れの挨拶を告げると、ミーナはネビウスにたたたと駆け寄った。
このとき初めて、コウゼンはミーナに注意を向けた。
「ネビウスのもう一人の子のミーナだね」
ミーナはネビウスに抱きつき、怯えながら答えた。
「ええ、そう。私はミーナ」
「君は神官見習いの中でもとりわけ優れた資質を持つと聞いたよ。君が偉大な神官になった日には、私達が再び会う日が来るかも知れないね」
「……うん。分からないけど」
ここでネビウスはミーナを抱き寄せ、ニタニタと笑って言った。
「あんたみたいな屈強な大男が若い美しい娘に急に話しかけるんじゃないわ。怖がっているじゃないの」
コウゼンは驚き、気まずそうに頭をかいた。
「私は守り子だぞ。神官見習いに話しかけるのは普通のことだ」
「うふふ。冗談よ。真に受けないでちょうだいな。さて、そろそろ行くわ」
こうしてネビウス一家は太陽の都を後にした。
一年ぶりの旅であった。
カミットは久しぶりの旅の装いであり、彼の腰には兎の刺繍がされた小鞄がぶらさがっていた。
ミーナがそれに気づいて言った。
「カミット。その月の化身の小鞄、どうしたの?」
「ハルベニィにもらったんだ!」
「……なんで?」
「僕が贈り物をしたら、お返ししてくれたんだよ」
「ハルベニィって誰?」
「友達だよ。ハルベニィの話はいつもしているのに覚えてないの?」
「男の子? 女の子?」
「ん? えーっと」
ミーナはにわかに気色ばんで、恐ろしい気配を漂わせていた。
ネビウスの足元にいる子猪のヤージェは怯えて縮こまっていた。
ここでネビウスが口を挟んだ。
「ハルベニィは祝祭のときにミーナと一緒にいてくれた子よ」
するとミーナはいつものおとなしい雰囲気にすっと戻った。
「そうなの。彼がハルベニィなのね。良い人だったわ」
カミットはミーナがこのように言うと喜んだ。
「ハルベニィは僕の友達だからね!」
一家はいつもの調子で歩いて、北を目指すのであった。
太陽の都編 おわり




