第189話 階層都市(3)「神秘のこと」
エニネは上級職になってからはより高度な職務を担当するようになった。そのため彼女が職位のかけ離れたカミットを直接指導する機会は激減した。
カミットは初級職員として同じような業務を毎日行うようになると、またもや退屈に苛まれるようになった。エニネにも会えず、年上の同僚は気が合わず、彼は仕事がまったく楽しくなくなってしまった。
そんなある日のこと、カミットは一ヶ月ぶりくらいにエニネに会った。彼はエニネの執務室を訪れるなり、エニネの顔色の悪さに驚いた。
「エニネ、大丈夫!?」
エニネはいかにも辛そうだったが「大丈夫よ」と答えた。彼女はカミットにいくつかの試験の指示を出し、与えていた宿題について口頭試問した。
カミットがそつなく回答すると、エニネはほっとした表情を見せた。
ところがそのあとエニネの体調が急変して、彼女は手元に用意してあった桶に吐いてしまった。カミットは驚いてパニックになったが、エニネが「こういう日もあるの。気にしないのよ」と言った。
このことをカミットはネビウスに話した。
するとネビウスはエニネの火傷の治療の際に、勝手に診察して、告げたのであった。
「あんた、妊娠してるわ」
「そうでしょうね」
エニネは平然と言った。
「仕事はどうするの?」
「座ってできる仕事で良かったわ。全く支障がないのよ」
「母親が馬鹿だと子供が割を食うのよ」
「あなたよりはずっとまともな母親になる自信があるわ」
「あんたの仕事は気持ちの負荷が強すぎるでしょ。仕事はしばらく休みなさい」
「絶対に休まないわ。そんなことをしたら、やっぱり女だからって言われるに決まっているもの。今後の昇進にも響きかねないわ」
「あんたなら大丈夫よ」
「てきとうなこと言わないでよ」
エニネはネビウスの指示を断固として受け入れなかった。
このことをネビウスがコウゼンに密告すると、結婚して一ヶ月程度経つ若い夫婦の最初の喧嘩が勃発した。
コウゼンはエニネが仕事を休むように説得しようと試みたが、エニネは心を閉ざし、耳を貸さなかった。コウゼンは辟易として言った。
「なぜ君はそうも頑ななのか。仕事の席を守りたいなら、私が力を貸せば可能だ。必要な配慮と支援は全てできる」
「けっこうよ。この私の地位は私が手に入れたもの。あなたに頼りたくないの。私は夫に隷属する妻ではいたくないから」
「私は君が想像しているよりも遥かに世間の夫たちよりも妻に甘くしているぞ」
「当然ね。私はそこら辺の夫に媚びるだけの無能な女たちとは能力が違うもの」
「君はそんなことを言うべきでないよ。全ての市民は彼らの母によって育てられるのだから」
「あらァ、道徳を教えてくれてありがとう!」
エニネは声の調子は落ち着いていたが、内心はすっかりキレてしまっていた。彼女はその晩はコウゼンと一緒の寝台で寝ることが嫌になって、夜中だというのに家を出ていこうとした。
コウゼンは屋敷の玄関口でエニネを引き止めた。
「どこへ行くつもりだ」
「職場よ。やり忘れた仕事を思い出したの。あそこの椅子は寝心地もいいから、うとうとするのにも最適よ」
「いい加減にしろ。子供染みているぞ」
「あなたに私を躾ける権利はないわ」
「妊婦が夜に家を出て、職場の硬い椅子で寝ることを注意するのは、もはや夫の責務ですらない。この世の常識がそれを命じているんだ」
そんな風に言い争いをしていたときであった。
エニネの母のドゥリメが使用人を引き連れて押しかけてきた。ドゥリメは大量の高級な食べ物や衣類に加えて、さらに花束まで拵えていた。
「エニネ、私の賢くて美しい娘! とってもおめでたい話を聞いて、私、居ても立ってもいられなくて来ちゃったわ!」
ドゥリメはエニネにずけずけと近づき、エニネのお腹をべたべたと撫でた。
「私のかわいい赤ちゃんがここにいるのね!」
「お母さん、……こんな夜中に来られても困るわ」
このように言いつつ、エニネはコウゼンを憎悪すら込めた瞳で睨みつけた。彼女はコウゼンがドゥリメに妊娠を教えたと思ったのである。コウゼンは困惑していて、「私はまだ誰にも言っていない」と弁明した。
その真相はドゥリメがあっさりと明かした。
「お昼に黒い不気味な梟が手紙を寄越したの。なんだか気味が悪かったけれど、封を解いたら、とっても嬉しい予言が書かれていたのよ!」
エニネの怒りの対象はすぐにネビウスへと移ったが、この場にネビウスはおらず、エニネは母の勢いに押されて、その晩は大人しくしていることになった。
その後、実際にはエニネの妊娠に伴う体調の変化は本人が思っている以上に深刻であり、ネビウスの頻繁な診察と治療無くしては日々の平穏な生活すらも危うくなった。エニネは「もう二度と子供は作らないわ」などと呪詛のような言葉を吐きながら休職に至ったのであった。
※
そこは美しい花園であった。
カミットは森の呪いを使って、レッサの家の庭で植物の世話をしていた。彼はその指導者であるレッサに言った。
「エニネは赤ちゃんができたんだって」
「集中しなさい」
レッサはぴしゃりと言った。
カミットは数秒の間だけは黙っていたが、彼はどうにかその話をしたいと思い、考えを練って、また喋りだした。
「花にも雄と雌があるんでしょ」
「そうよ」
「雌の花は赤ちゃんが出来たら、仕事を休まないといけないの?」
レッサはため息をついた。
「コウゼンの妻の話は例外的だわ。他人が口出しすることじゃない」
カミットには知る由もないが、この話題は非常に繊細であった。そのことはレッサの弟子である赤肌のヨーグ人のジンがよく知っていた。
彼はカミットの素行面を注意しないが、このときは珍しくも、レッサの居ない場所で注意した。
「師匠にコウゼンの話はするな」
「なんで?」
「……彼らは不仲だからだ」
「そうなの? なんで?」
「良いか、他人の事情を詮索するな。それは他者の尊厳を無視する行為だ。無礼で、無遠慮なのだ」
「んん! なんで!?」
「私の伝えることが理解できないというなら、お前はまだあまりにも幼い子どもということだ」
その事情とは、かつてレッサとコウゼンが恋仲であり、レッサが妊娠と出産を拒否したことにより、彼らの婚姻が成らなかったというものであった。
カミットはジンの注意にまったく納得しなかった。
レッサの指導の後で、彼は暇さえあれば出かけているバルチッタの露店酒場でハルベニィに愚痴を言った。
「エニネがお休みになったから、エニネに会えなくなっちゃったんだよ!」
いつものことだが、ハルベニィは料理をしたり、酒を注いだりしながら、カミットの話をほとんど聞かずに、いい加減な相槌を打った。
「そうかい。大変だなァ」
「そういえばエニネはお酒とか煙草もたまにやるって言ってた! 贈り物にしたら喜ぶかな?」
ハルベニィは「そうだなあ」と言いかけて、ハッと気づいて、
「阿呆! この常識知らずがよ!」とカミットを叱りつけた。
「ええ!? なんで!」
「酒も煙草も毒がある。毒の分を差し引いても、それでもまあ美味いから大人はやるが、腹ん中の子供には強すぎる毒だ」
「そうなんだ!」
「やれやれ。そんなことも知らねえのかよ」
カミットはハルベニィにだいたいどんなことを言われても気にしないが、無知を見下されるのは辛かった。
「だってさ、僕の育った秘境の里では、みんなは古の民の人たちだから、妊婦はいなかったんだよ」
「古の民は子供が生まれねえのか?」
「うん。たぶん」
「じゃあ連中はどうやって生まれてきたんだ?」
「んん? 分からない」
「なんだよ。知らねえのか」
カミットはこのことをハルベニィに教えてあげたいと思い、帰宅してすぐにネビウスに質問した。するとネビウスはうふふと笑って、「秘密よ」と言った。カミットが食い下がっても、ネビウスは決して教えなかった。街に暮らす彼女の一族の者たちもまた、この質問に答えることはなかった。




