第187話 階層都市(1)「逢瀬」
「ゆっくりやってよ。いきなりはだめよ」
「ごちゃごちゃうるさいわね。そおれ」
ネビウスは薬に浸した湿布をエニネのお腹にぺちゃりとくっつけた。
その触れた部分から鋭い痛みが瞬時に広がって、エニネは「ぎゃーっ」と悲鳴を上げた。彼女が寝台から飛び上がって逃げようとすると、ネビウスは即座に捕まえた。体格ならばネビウスの方が小柄だが、古の民の怪力はエニネを抑え込んで逃さなかった。
エニネはネビウスを罵った。
「慎重に、丁寧にやりなさいよ!」
「文句があるなら、別の医者を探しなさい」
この治療はエニネの全身の火傷を治すための行為だった。ネビウスはエニネの治療のために頻繁に時間を割いたが、彼女は多忙であったので、毎回の治療をなるべく大雑把に短く終わらせようとしていた。
その火傷はエニネがカミットを助けるために負ったものであったので、エニネにも言いたいことがあった。
「あなたの子供のせいでこうなったのよ!」
「あんたが勝手にやったことでしょ」
「なんて言い方なの! あなたみたいなのが人の親だなんて信じられないわ」
「おだまり」
ネビウスは彼女を黙らせるためにまたも不意打ちで薬の湿布を打ち付けた。エニネは悲鳴を上げた。ネビウスはにたにたと笑いながら、その治療を続けたのであった。
ネビウスによる治療は街角にある診療所で行われた。大都市には古の民が建設した医療施設があり、医神友人会に所属する医師が不定期で診療相談を受け付ける場となっている。このような施設は、今回のようにネビウスが医師として利用することもある。
祝祭の大事件の後、エニネは職人組合職員として後始末に追われていた。彼女にとって、この診療所は数少ないゆったりと過ごせる場所だった。治療が終わった後ではネビウスとエニネはお茶をしながら喋った。
「今日もひどい目に合ったわ」
「毎回ぎゃあぎゃあ騒がれる身にもなって欲しいのよ」
いつでもそうだったが、ネビウスの足元では子猪のヤージェがぶひぶひ鳴いていた。そんな彼がこのときはある匂いを敏感に察して、ネビウスに身を寄せた。
医師見習いの徒弟がある人物を案内して、ネビウスの診察室に連れてきた。
部屋に入ってきたのは赤髪のコーネ人、今は守り子となったコウゼンであった。
「あら、早かったのね」とネビウスは自然と言った。
エニネとコウゼンは対面して、互いに硬直していた。
先に言葉を発したのはコウゼンだった。
「火傷の具合はどうか?」
エニネは他人行儀に答えた。
「調子は良いですよ。名医に見てもらっているので」
「快方することを祈っている」
「ありがとうございます」
次にコウゼンはネビウスに話しかけた。
「早く着きすぎたようだ。先客の予定があったか」
ネビウスはおやつの魚の干物を齧りながら言った。
「そうね。あんたは外で待っていてちょうだい」
エニネは慌てた。
「守り子を待たせるわけには行きませんので、私はもう行きます」
エニネがそそくさと去った後で、ネビウスとコウゼンは本題に入る前に軽く話した。
「あんた、あの子と知り合い?」
「彼女は職人組合の最も有望な若手だ。公務で関わることもある」
「そうなのねェ」
「彼女の火傷は治りそうか?」
「目立たなくはできるわ」
コウゼンは項垂れてため息をついた。彼は出口の方を見ていて、思いついて言った。
「すまない、ネビウス。今日の治療はまた後日にしてもらえるか?」
「構わないわ」
このように話していたところに、裏口からカミットがどどどと駆け込んできた。太陽の神殿での戦いのときにはコーネ人のように変貌した彼であったが、今は元のジュカ人の姿に戻っていた。
「コウゼン! こんにちは!」
「やあ、カミット。こんにちは」
コウゼンは部屋を出ようとしていたが、一旦立ち止まってカミットに微笑みかけた。
カミットは今度はネビウスに言った。
「ネビウス! エニネはもう帰っちゃった!?」
「ええ、たった今だけど」
「そっか! じゃあまだ近くにいるね」
カミットが走っていこうとすると、ネビウスが彼を呼び止めた。
「カミット。ちょっと今忙しくて、お手伝いが必要なの」
「そうなの?」
「エニネには私から言っておくから良いかしら?」
「んん? 良いけど……」
ネビウスがコウゼンに目配せをすると、コウゼンは手の仕草で感謝を示し、彼は診察室を出た。
※
エニネは治療を受けた後ではネビウスとお茶をして、そこでカミットと待ち合わせていたが、コウゼンの訪問によって逃げるように出てきてしまっていた。彼女は診療所を出た後でそのことに気づき、医院の外の路地で立ち止まった。
すると診療所からコウゼンが出てきて、彼が足早にエニネに向かってきた。
エニネは彼に話しかけた。
「どうなされましたか?」
「少し話そう。神殿の戦いが終わってから、もう一週間が経つが、私達は一度も会えていなかった」
「守り子様はお忙しいでしょうから」
「そういう話し方はしなくていい」
「そう仰られましても……」
このときちょうどコウゼンの付き人として、彼の弟のエージが付き従っていた。エージは兄の要望を察して、ちょうど良い貴賓宿の一室をすぐさま手配した。
豪華な調度品が並び、テーブルはもちろん、天蓋付き寝台まである部屋だった。そういう場所でコウゼンとエニネは話した。
エニネはテーブルの椅子に座り、途端に馴れ馴れしく話しだした。
「それで? 私に用事が? お互い暇ではないのだし、手短にお願いね」
コウゼンはソファにゆったりと座った。
「葡萄酒は?」
「このあと仕事だもの」
コウゼンはエニネの返事を無視して、宿の奴隷に酒を給仕させた。さらに食事なども運ばれてきた。
エニネもそれほど初心ではないので理解はしていたが、一応は言った。
「私、予定があるのだけど」
「取りやめてくれ」
「嫌よ。一時間後には出るわ。結婚のことなら考え直してね。私達の結婚はあまりにも政治的だわ」
コウゼンは葡萄酒を飲みながら、
「そうかもな」と言った。
コウゼンが何やら言い淀んでいると、エニネはますます苛立った。
「私があなたとキスをしたのは、そのときあなたを拒んだら物事が上手く行かないと思ったからよ」
「私は女心が分からなくてね」
「ええ、そうみたい」
「君は私を愛していないのか?」
「はあ? これっぽっちもないわ」
エニネが断言すると、コウゼンはくすりと笑った。彼はエニネを睨んで言った。
「嘘だな。君は私を愛しているはずだ」
「いい加減にしなさいよ。もう帰っていいかしら」
コウゼンは立ち上がり、エニネに近づいた。エニネが後ずさると、コウゼンは彼女を逃さず、抱き寄せた。
「君は自分の意思がある人だ。たとえ私が守り子であるとしても、無駄な時間を過ごすためにわざわざここまで来るはずはない。重要な予定があるというなら、最初からそちらに行けば良いのだからね」
エニネは長い溜息をついた。
「それで?」
「君はどうしたい?」
「今すぐ帰りたいわ」
「駄目だ」
コウゼンはエニネにキスをして、彼女を寝台に押し倒した。
結局、彼らは昼頃からずっと一緒に過ごして、夜中には部屋のテラスの露天風呂に二人で浸かっていた。そこでようやく彼らは二人のこれからについて話した。
「私、考えたのだけれど、あなたは名家の娘と結婚するべきだわ。その方が合理的よ。私とあなたの協力関係は夫婦でなくとも可能なのだし」
コウゼンはエニネの背後から彼女を抱きしめながら、くすりと笑って言った。
「君は重大な勘違いをしているな」
「なによ」
「私は愛している女を妻に選ぶと昔から決めていた」
「ん、……そういうの要らないんだけど」
コウゼンはエニネの火傷痕を慈しむように撫で、舐めた。
このとき初めて、エニネの方からコウゼンにキスをした。
後日、コウゼンはエニネとの結婚を公示した。




