第182話 太陽の祝祭(27)「実りの宮殿」
カミットは神殿から脱出する間にも、負傷による苦痛で意識が朦朧としていた。相棒である子猪のヤージェは自力では動けなくなっていて、そちらはより重症であり、呼吸が徐々に浅くなっていた。
怪我をしていると、いつもなら軽やかに進める階段が険しい山道のように思われた。もっと幼かった頃、カミットは野山を駆けて、絶壁から飛び降りたこともあった。そういうときにはいつも森の呪いが草花のクッションを作って、カミットを受け止めたものであった。
しかし魔人がいる現場ではしばしばそうであったように、今は森の呪いがカミットを助ける気配はなかった。旅立ってすぐの頃、ネビウスが最初に教えたのは、呪いを当てにするなというようなことだったとカミットは思い返した。
「ネビウス……」
カミットは彼にとって最も重要な人の名前を呟いた。意識がこの世とあの世の境を行き来するような感覚の中で、カミットはネビウスがどうか無事でいて欲しいと願った。
そういう状態で、どうにか一歩を踏み出したとき、カミットは樹木の階段の不安定な傾斜のせいで、足を踏み外してしまった。
カミットとヤージェは一気にごろごろと転がり落ちて、そのまま止まらないまま投げ出されるかと思われた。
その彼らを受け止めたのは、ここに大急ぎで駆け上がってきていたカリドゥス配下の傭兵たちであった。
馴染みの傭兵はカミットを抱きかかえて、声をかけた。
「よおし! よく生きてたな!」
カミットは夢を見ているような気分に陥りながら、彼らに言った。
「でも、ネビウスがやられちゃったんだよ。ヤージェも死んじゃいそうなんだ」
「とにかく逃げるぞ!」
カミットは傭兵たちに運ばれて、神殿を脱出した。
神殿前広場の隅の一画には職人組合が仮設の現場本部や救護施設を設けていた。
カミットが包帯を巻かれたり、呪いの秘薬を飲まされたりして、治療を受けているところに、エニネが駆け込んできた。
「カミット! なんて酷い怪我なの……」
カミットはエニネに会えて嬉しかったが、森の魔人に為す術なく打ち負かされて逃げて帰ってきたことが恥ずかしく辛かった。
カミットが何も言えないでいると、カリドゥスがエニネに聞いた。
「母さんは無事か?」
エニネはこの問いの意味をすぐには理解しなかった。彼らは兄妹であったが、母に対する距離感はかなり違っていた。エニネは普段から母のことを考えから消し去るようにしており、この大変な状況ではなおのこと大嫌いな母のことを考えたくなかった。彼女は苛ついて聞き返した。
「お母さんがどうしたの?」
「豪族の妻だぞ。犠牲式に招待されているだろ」
エニネは一瞬で顔色を青ざめさせた。彼女はすぐさま現場指揮の天幕に駆け込み、各種の名簿を確認した。エニネの母であるドゥリメはたしかに犠牲式に招待されており、そして彼女の名は救助者名簿になかった。
エニネはすぐさま杖を取って、駆け出していこうとした。そのエニネの手ををカリドゥスが掴んで止めさせた。
「母さんが死んだとしても、それはお前のせいじゃない」
「手を離して! 時間がないのよ!」
「お前にはすべきことがあるはずだ」
エニネは感情的に叫んだ。
「私がここで何もしないでいたら、軽蔑するんでしょう!?」
「そんなわけないだろ。お前の複雑な気持ちとやらを俺に押し付けるな」
カリドゥスは我慢強く言った。
「手遅れかもしれんが、母さんは俺が助けに行く。神殿の内部構造は頭に入れてきてある。母さんが招待されていた階とその方角を教えろ」
「それで兄さんが死んだら……」
「俺は傭兵だぞ。いつ死んでもおかしくないだろ。だがお前は違う。お前は職人組合の上級職になれる人間だ。太陽の都の未来を担う人間は死んじゃあならない」
「人の価値が異なるだなんて……、兄さんが私よりも死んで良いなんてことにはならないわ」
「人の価値は違うぜ。傭兵ってのは罪人や奴隷の次に身軽な連中だ。もちろん、お前はその模範回答を言い張るべき立場ではあるがな」
カリドゥスは仲間の何人かを指名して、彼に同行してくれるように頼んだ。すると傭兵団の他の戦士たちも、彼らはにかにかと笑いながら、カリドゥスに集まってきた。
カリドゥスは彼らに確認した。
「魔人討伐に加わらなければ、お前らに報酬は払われない。悪いが、俺のこちらの仕事は全くの無駄な努力になる可能性が高い」
すると傭兵の一人が答えた。
「俺達の賢いお頭が死んだら、長い目で見れば損だから仕方ないぜ」
カリドゥスはいつものように皮肉っぽく、少しは賢くなったみだいな、などと言いそうになったのを押し留めた。
彼は仲間たちに「ありがとう」と述べ、
「すまんが、俺の母さんを助けるために、俺と一緒に命を懸けてくれ」と明確に頼んだ。
傭兵たちはやる気に満ちて、大盛りあがりであった。彼らはカリドゥスの信望者であり、団長のために喜んで戦うつもりでいた。彼らの職業は傭兵であったが、実際にはカリドゥスの私配下戦士とでも言った方が適切な状態になりつつあったのだ。
エニネや他の職人組合職員にはまったく理解不能なやりとりであって、彼らは傭兵たちが騒ぐのを遠巻きから怪訝に眺めた。
カリドゥスたちが出発したあと、エニネが救護天幕を見に行くと、カミットがいなくなっていた。
※
火の呪い子である子猪のヤージェは瀕死の重症を負いながら、火の力を滾らせることで再び立った。彼はカミットが横になって休んでいるところにやってきて、カミットの服に噛みついて引っ張った。
カミットは頼りなく言った。
「ヤージェ、元気になったの? 良かったあ」
ヤージェはぶぎいぶぎいと怒ったように鳴いた。その鳴き方はカミットの弱気を非難するようであった。そうしていると、ヤージェは天幕から出ていってしまった。
カミットは心配になって、彼も這うようにしてヤージェを追いかけた。
神殿前広場は火口の魔人が暴れることで火球が降ってくるようになっていて、非常に危険な場所になっていた。
カミットはヤージェを呼んだ。
「ヤージェ。危ないよ!」
ヤージェは時折ちらりとカミットの方を振り向くが、彼は足を引きずりながらも前に進んだ。
カミットがヤージェを追いかけて、よろよろと歩いていると、今度はそのカミットをエニネが追いかけてきた。
エニネはカミットを掴み寄せて止まらせた。
「カミット! 何をしているの!? すぐに戻りなさい!」
「ヤージェが行っちゃったんだよ」
「火の呪い子でしょう? きっと呪いに呼ばれているのよ」
「違うよ。ヤージェはネビウスがきちんと面倒みてくれてるから大丈夫なんだよ」
「ネビウス……、でも彼女はもう」
そのときだった。
ヤージェは地面の匂いを嗅ぎながら進んでいたのだが、その彼が進む方向から、ぽん、ぽんと花が咲いて、その花の道がカミットの元まで続いてきた。
「僕の、森の呪いが呼んでいるんだ」
エニネはこの様子を不安な気持ちで眺めた。彼女はカミットに忠告した。
「それは良い知らせとは限らないわ」
「でも僕は行くよ」
エニネは覚悟を決めた。彼女はここでカミットを助けることが、道を切り開くような予感を得ていた。エニネはカミットが歩くのを支えた。
カミットは喜んだ。
「一緒に行ってくれるの?」
「だってあなた、もう歩けていないもの。行くしかないなら、私が一緒に行くわ」
「ありがとう……!」
花の道を辿っていくと、広場の中に木々が茂っている場所があった。カミットの森の呪いが作った呪いの木々は周囲に咲く花たちが特別な守りを発することで、火球にも動じていなかった。
ヤージェが木々の合間から中に入っていき、カミットとエニネもそれに着いていった。
びっちりと生えている木々を掻き分けて進むと、その中央には草木に覆われた空間がぽっかりとできていて、美しい花々が一面に咲いていた。
その中央にはネビウスが眠っていた。花や草木から無数の触手が伸びて、ネビウスを取り巻いていた。しかもその多くはネビウスの胸を貫いた槍の傷に集中していた。
カミットは歓喜した。
「森の呪いがネビウスを治してる!」
これにある声が応じた。大人の男の渋い声であった。
「そうだ。直に復活する」
人影は無かった。カミットとエニネは辺りを見回した。二人が視線を感じて見上げると、木の梢に黒い梟がおり、彼は夜の王であった。
ヤージェは夜の王に向かって吠えた。すると夜の王はふぁさりと飛んで、ヤージェに乗った。ヤージェは緊張して押し黙った。
夜の王は続けて語った。
「ニュトーンはしばしお前から離れ、ネビウスと共闘する。そうでなくては、あの暴れ馬を懲らしめることは困難だからだ」
カミットは首を傾げた。
「ニュトーンて何?」
「お前を世話している者のことだ」
「それって僕の森の呪いのこと?」
「そういう解釈で良い」
こうして話していると、周囲の木々や花からさらにぬめぬめした触手が伸びてきて、カミットとヤージェのことも治療した。
「そういうわけだから、お前はニュトーンを当てにしないで戦え」
「うん。分かった!」
ここまでは黙っていたエニネが我慢しきれず口を挟んだ。
「カミットは子供よ。まだ戦わせるつもりなの?」
夜の王はエニネをちらりと見たが、彼女の非難に対して回答はしなかった。
代わりにカミットが「僕は戦うよ!」とエニネに言った。
それから少し経つと、ネビウスに接続していた触手が一つ一つ離れていった。ネビウスの胸の傷は完全に塞がっていた。
ネビウスはぱちりと目を開いた。彼女は上半身を起こして言った。
「良い気分だわ」
カミットはわあと騒いで、ネビウスに抱きついた。彼は涙を流して喜んだ。
ネビウスはカミットを抱きしめながら、エニネに言った。
「ずいぶんよく面倒を見てくれているみたいね」
エニネは腕組みをして、にこりと笑って言った。
「とっても世話がかかるけどね」
ネビウスはヤージェの上にいる夜の王を見た。ネビウスはへらへらと笑って言った。
「さっきのは偶々よ。うっかりしただけ」
夜の王は目を細めて、手厳しく述べた。
「言い訳がましいぞ。勘が鈍りすぎだ」
「あんな不意打ち、許せないわ。すぐにぶっ飛ばしてやるわ。こんなに腹が立っているのはいつ以来かしら」
ネビウスが立ち上がると、夜の王はその姿をマントに変えてネビウスの肩に取り付いた。
ここからはある儀式が始まった。
ネビウスの足元から一本の木が伸びてきて、彼女の手元で控えめな林檎を差し出した。
ネビウスはその林檎をむしゃむしゃと食べた。
次に薔薇の茎が伸びてきた。
ネビウスはその茎をむんずと掴んで、地面から引っこ抜き、それをぶんと振った。薔薇の棘がネビウスの手に刺さって血を滴らせ、それが茎に沿って流れると、血を源にして微細な赤い薔薇が細い茎の表面にびっしりと咲き、赤々とした薔薇の剣になった。
それが合図だった。治癒をもたらす秘密の花園がたちまち外界へと開き、閉じられていた空間を捨て、周囲に広がり、木々や草花は爆発的な勢いで増えた。
かつて荒れ地にてカミットが怒りに任せて発生させた呪いの森があったが、それと同じ現象が起こっていた。太陽の神殿を中心として、呪いの森が作られようとしていたのだ。
ただし今回は、その現象はネビウスによってよく制御されていた。全ての木々は神殿を取り囲むようにして発生し、太陽の都のそれより下の階層へは進出しなかった。
実りの宮殿はその真の姿を現した。
あらゆる花や木、果実を生み出す植物の楽園が大神殿すなわち獄炎を吹かす火口を取り囲んでいた。吹き上がる火の粉や火球を楽園の花々が特別な粉を撒くことで無効化していた。木々は成長を続け、ついには神殿前広場全域に張り巡らされ、あらゆる火の災厄をその中に閉じ込めたのであった。




