第165話 太陽の祝祭(10)「魔物飼い」
その男は野山を自在に歩いていた。彼の名はシグルマといった。ぼさぼさの金髪と日焼けした肌をしていて、ナタブの旅人のような見てくれであった。
シグルマが背負っていたのは檻であった。その中には子供の猪を閉じ込めていた。その小さな猪は檻の中で暴れて、牙から火を吹いた。シグルマは「熱っ、熱っ」などと言って少しだけ嫌がったが、それでも平気で檻を担ぎ続けた。
シグルマは昼ごはんのときには、荷を降ろした。彼は小さな猪が檻の中で暴れるのを見て、意地悪く笑った。
「お前の飼い主は誰になるかなァ」
シグルマは木の棒を猪の牙にぶつけて、火を点けた。それを使って焚き火をして、鍋を火にかけて、料理を始めた。彼は野菜や肉を切ったり、鍋を煮込んだりする間、楽しげに歌った。
「美味いのは良いぞォ。食うのは愉快ぞォお」
そうして彼が楽しく昼食の準備をしていたところに、どどどどっ、と何かが駆けてくる音が聞こえてきた。
シグルマは「なんだあ!?」と叫んだ。彼は鍋などの調理道具を全て放り出し、大急ぎで猪の檻だけを担いで走り出した。
その直後、大きな猪が群れで襲撃してきた。その突進の破壊力はすさまじく、シグルマが広げていた野営の道具ばかりでなく、周囲の岩や木までまとめて破壊した。
間一髪で襲撃を免れ、シグルマは山の斜面を飛ぶように走って逃げた。彼は走りながら、思わぬ危機的な状況に憤慨していた。彼は隠れ身の術の達人であり、猪の鼻と言えども、隠れた彼を見つけ出すことはできないはずであった。したがって何らかの影響により、その術が破られたのである。
シグルマはコーネ人も認めるであろう運動能力で、たん、たん、たんと小気味よい音を立てて、大きな岩や木を飛び移った。そうして見晴らしの良い大岩の上に立った。
付近の山々を見渡すと、尋常ならざる気配があった。シグルマは興奮して大きな声を出した。
「新たな魔物か!? なんと!」
思いがけない幸運に彼は笑い、その場で悠長にしていたが、その足元には猪が突進してきていた。
「馬鹿の獣どもめ!」
シグルマは猪たちの突進によって足場が破壊される寸前に飛び上がった。そしていつの間にやら手にしていた煙球を「ほうれ!」と叫んで、ぽん、ぽん、と眼下の猪たちに向かって投げつけた。煙玉は炸裂して煙を吐き出した。その煙幕は視界を遮るばかりでなく、異臭を放つことで猪たちの鼻を狂わせた。
その間に、シグルマはまんまと逃げたのであった。
※
カリドゥスたちは猪の群れが大暴れしているところを遠巻きに観察していた。そこで煙がぼんと沸いたので、彼らは驚いた。
カミットが叫んだ。
「人がいる!?」
カリドゥスは頷いた。
「そうみたいだな。地元の猟師とかなら良いんだが」
この時点では、カリドゥスは気の立っている猪には慎重な接触が必要だと考えていた。そのため不用意に近づかないように仲間たちに指示を出した。
その直後だった。
煙幕の中から怪しげな旅人然とした男、シグルマが飛び出してきて、よりにもよってカリドゥスたちが潜んでいる茂みの方に一目散に駆けてきた。
カリドゥスは舌打ちをした。
「くそ! 猪が来るぞ!」
カリドゥスが言うまでもなく、傭兵たちは剣や槍、大盾などを構えていた。
シグルマは大きな荷物を背負っていたというのに、信じがたい身軽さで斜面を駆け上がってきて、カリドゥスたちを見つけ出している様子で叫んだ。
「狩人ども! 猪が暴れているのでここは危険だぞ!」
警告をしているつもりらしかったが、シグルマこそがその猪をカリドゥスたちの元に連れてくるのであった。
その後はまともに話し合う時間もなかった。
カリドゥスたちは突進してくる猪の群れを迎え撃った。傭兵たちは怪物退治の専門家であった。彼らは猪の岩をも砕く凄まじい攻撃を、盾で上手く受け流したり、互いに助け合って、どうにか凌いだ。
不思議なことに、怒り狂っていた猪たちだというのに、彼らはしばらく暴れたあとには、鼻をひくつかせて何かの臭いを探し始めて、やがて傭兵たちを追い回すのを止めて去ってしまった。
嵐のような猪の襲来の後、その元凶であるシグルマの姿はどこにもなかった。
※
シグルマはカリドゥスたちを囮にして、自分だけ逃げていた。それから渓流のほとりで改めて休憩した。
彼は檻の中の小さな猪を見やり、
「俺はお前を助けてやってるんだからな」と言って、にんまりと笑いかけた。
食事は台無しにされてしまったが、煙草は外套のポケットに入っていた。彼は大自然の気持ちの良い空気の中で一服して、悦に入った。
そんな彼にカミットが声をかけた。
「こんにちは!」
シグルマはいつのまにか真横に立っていたカミットに仰天して、ひっくり返って転んだ。
「なんだァ!?」
「ネビウス・カミットだよ! よろしくね!」
カミットはシグルマにしてみると、ぞっとするような笑顔でにかにかと笑っていた。シグルマはどんな魔物もへっちゃらだったが、その彼がなにやらこのジュカ人の男の子に嫌な気配を感じ、警戒を強めた。
「どうやって俺を追ってきた!?」
「臭いがしたよ」
シグルマは気配を隠す妖術をしっかりと使っていたはずだが、先程から上手くいっていなかった。猪にも気づかれたし、カミットにもなぜか追跡されていた。
カミットはシグルマに質問した。
「おじさんは何ていうの?」
「ああん? 俺か? 俺はそうだなァ。何ていうんだろうなア」
シグルマは名乗るつもりはなかった。彼はこの不気味なカミットからとっとと逃げたいと思っていて、どうにか誤魔化そうとした。
カミットはシグルマが答えないでいると、さらに質問した。
「ネビウスとは友達?」
「あ? ……ネビウスだと?」
シグルマの目の色が変わった。彼は瞳を危険にぎらつかせて、カミットを睨んだ。
「小僧。俺がそうだとなぜ分かった?」
「だってナタブって感じがしないよ?」
シグルマは金髪であり、日焼けしていても褐色というほどにはならない肌の色をしていて、ナタブと思われることがほとんどであった。
他方で、ナタブと似て非なる人々とは、ある一族しかいない。白髪と褐色の肌が古の民に最も多い外見であったが、中には例外もいる。
シグルマはナタブの姑息な盗人のような気配を一変させて、古き一族の尊大な話しぶりで名乗った。
「古来人の魔物飼いのシグルマとは俺のことよ。そうとも。一族の誰もがこの俺のことを知っている」
「シグルマはネビウスの友達!?」
カミットは期待に目を輝かせていた。
シグルマは一瞬の思考を挟んで、「そうとも!」と力強く言った。
「俺と彼女はとても親しかった」
「そっか!」
「お前はネビウスの倅か?」
「うん!」
「ちょうどいい! 古き友には土産が必要だな! お前に良い物をやろう!」
シグルマは邪悪な笑みを浮かべて、檻に閉じ込めていた子どもの猪を見やった。
2022年11月14日「第26話 東の港街(4)新しい友」の描写の修正とルビの追加をしました。




