第161話 太陽の祝祭(6)「家庭の話」
その日の朝、エニネは体に気怠さを感じて、宿舎の部屋のベッドから這い出た。顔を触れた時、手のひらの肉球と指先の鋭い爪に驚いた。おそるおそる頭の上に手をやると、大きな耳が触れた。この日を境にエニネの外見はナタブからコーネ人に変わってしまったのだ。変わらなかったのは元々の栗毛だけだった。
エニネは掟を思い出して、神殿に行った。エニネは神官に霊魂の見定めをしてもらい、見た目が変わろうともエニネ本人に違いないと証言してもらった。
エニネは仕事の性質上、コーネ人になっても何も変わらないと思っていたが、実際の反響は大きかった。同僚は職場でエニネの変貌を歓迎し、祝宴を開いた。元々よく面倒を見てくれていたコーネ人の上司はさらに目をかけてくれるようになった。コーネ人の初級職員や徒弟などはこれまでよりもエニネによく相談してくるようになった。このときからエニネの仕事はあらゆる面で上向き始めた。
そして現在に至るまで仕事は順調であった。
義兄のカリドゥスはエニネに再度の面会の申請をしてきていたが、エニネは無視していた。
ある日、エニネが仕事から帰ると、カリドゥスが宿舎の前で待ち構えていた。彼は怒ってはおらず、余裕たっぷりな様子でエニネに話しかけた。
「ずいぶん忙しいみたいだな」
「新しい弟子ができたから指導があるのよ」
エニネは平然と言った。
兄妹は互いに作り笑顔をして話した。
「やってくれたな」
「魔人は見つかっていないのよ。彼に槍を振り回させても仕方ないでしょ」
「訓練はどれだけやっても良いんだぜ」
「魔人が出るまでは飲んだくれてるだけでしょ」
エニネの指摘に対し、カリドゥスは戯けて首を竦めた。
エニネは冗談めいたやりとりから雰囲気を一転させ、カリドゥスを睨んで言った。
「彼は私の弟子になった。もう決まったことよ」
「おい、おい。俺が怒ってやってきたとでも? 実は今日は別の用事で来た。最近、母さんには会ってるか?」
エニネは警戒して目を細めた。口の中が乾きだしていた。彼女はきちんとした話し方ができるように、一呼吸置いてから答えた。
「いいえ」
「そうだろうな。お前は立派な仕事をしているから忙しいもんな」
「……嫌み?」
「俺だって母さんに会ったのは二年ぶりだった。勘当した放蕩息子が英雄になって帰ってきたんだ。感動と涙の再会さ」
「良かったわね」
「だが問題があってな」
「回りくどいわね。早く言いなさいよ」
「再婚するらしい」
「え、……はァ?」
エニネは驚いてしまって、ぽかんと口を開けた。
二十六歳の息子を持つその女性は今は四十歳を超えていた。エニネは高齢での結婚が悪いこととは思わないが、彼らの母の結婚は今回で三度目であった。
カリドゥスは説明を足した。
「息子は魔人殺しの英雄。娘は職人組合の出世候補。そいつらの母親の時価はかなり良い感じらしい。政治的な意味でな」
エニネは失笑した。
「信じられない。馬鹿馬鹿しいわ。何回同じことすれば気が済むの」
「俺はこんな仕事をしているからどうでもいいが、かわいい妹は知っておくべきだろうと思ったから、わざわざ足を運んで教えてやったんだぜ」
「分かったわ。ありがとね」
エニネが深刻に悩みだすと、カリドゥスは笑いかけて言った。
「気楽にいけよ。どうせ手がつけられないんだ」
こんな助言をされたところで、エニネはたちまち頭が重たくなる感じがしていた。放蕩息子の兄と勤勉な娘である妹はそもそもの生き方や考えた方が異なっていた。
エニネはため息混じりに言った。
「義兄さんとお母さんはほんと似てるわ」
この発言に対し、カリドゥスはほとんど反射的に言った。
「お前もだろ」
エニネは腹を立て、カリドゥスに雑な感じで別れの挨拶をして、宿舎の部屋に帰った。彼女は寝台に倒れ込み、枕に顔を埋めて、しばらく息を止めた。限界まで苦しくなってから、息を吸うと、いくらか気持ちが明瞭になったように感じた。
※
カミットは職員組合で徒弟修行を始めて以来、毎日朝から晩まで働いた。昼と夜の食事は職場の食堂で済ませるので、家は寝るだけの場所になっていた。朝もゆっくりする時間はないので、今では家族の団欒はすっかり無くなってしまった。
カミットとネビウスは数日の間、ほとんどまともに会話をしていなかった。二人が親子になって以来、十二年間で初めてのことだった。カミットはエニネがネビウスの代わりの話し相手になってくれていたので、特に気持ちの面で不足は感じていなかった。
ところがある日の夕方に食堂へ向かう直前に、そのエニネがカミットに言ったのだ。
「うっかりしてたわ。あなた、まだ子供だものね。私は夜も働くけど、あなたは夕方には帰って、家で食事をしなさい」
「え? なんで! 僕、もっとがんばれるよ!」
「だめよ。あなたは妹もいるでしょ?」
「妹って言っても同い年だよ」
「家族を大事にできない男は永久に半人前よ」
「んー! でも、僕は……」
「でも、じゃないのよ。師匠の命令よ」
カミットは本当は癇癪を起こして叫びたかったが、今はエニネだけが彼の唯一の拠り所だったので、ここを失うわけにはいかないと思って我慢した。
夕闇の中をとぼとぼと歩いていると、自然とため息がこぼれた。カミットはネビウスともミーナとも気まずくなっていたので家には居場所が無いと感じていた。最近は特に報告もせずに遅くに帰宅していたので、どうせ今更帰っても彼の分の食事は無いだろうと思われた。
家に付くと、玄関扉の取手に手をかけるのが億劫で、彼は扉の前で項垂れて、しばらく突っ立っていた。
すると扉が内側から開いた。
顔を出したのはミーナであった。
「おかえり」
「うん。ただいま」
カミットがこう言うと、ミーナははにかんで笑った。
「ご飯、食べた?」
「まだだよ」
ミーナは本当に嬉しそうに、にかりと笑った。
「もうできてるよ。早く食べよ!」
ミーナはカミットの手を取り、食卓へ引っ張っていった。
ちょうどネビウスが台所の方から鍋を運んできて、食卓に置いたところだった。肉や野菜が煮立っていて、食欲をそそる匂いが香り立った。
ネビウスはまったく今までと変わりない様子でカミットに声をかけた。
「今日は早かったのね。ちょうど良かったわ」
今までずっと当たり前だった食卓を囲む日が再び訪れた。
一家の中で、朝食はミーナの当番で、夕食はネビウスが作るというのがこの一年くらいで定着していた。
カミットはネビウスの料理を何日かぶりに食べたのであった。温かいスープを飲んでいたら、カミットは悲しい気持ちが急にこみ上げてきて、涙が止まらなくなってしまった。
ネビウスとミーナはそれぞれ驚いた。
「あらま」
「大丈夫?」
カミットは涙を拭って言った。
「ネビウス、ミーナ。僕、家族を大事にできるようになりたいよ」
ネビウスは柔らかく笑いかけた。
「あなたは大丈夫よ」
ミーナはネビウスに賛同して、こくこくと頷いていた。
カミットはネビウスが渡した手ぬぐいで涙と鼻水をごしごし拭いた。
ネビウスはずっとそうしてきたのと同じ調子で、優しい声でカミットに聞いた。
「今日はどんなことがあったのかしら?」
カミットはようやく笑うことができた。「あのね。今日はね」と言って、彼は最近の仕事で学んだことを話し始めた。
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