茸の根地(7)「呪い母」
ユウは本当の恐怖のために逃げる決意をした。
ところが、彼が走っていくと、その向かいから、小さな者共が数千数万とも思える数で地面を波打つようにして迫ってきていた。
鼠の大群であった。彼らは茸の胞子によって自我を奪われ、主のもとへ参じるのだ。
ユウは呆然として立ち尽くした。彼は鼠の大波に飲み込まれるかに思われた。
そのとき地面を割って、巨樹の根が生えてきて、また無数の花がユウの周囲に咲いた。すると鼠たちはその中に入れず、避けて通り過ぎていった。
「大丈夫だよ! そこから動かないでね!」
カミットの声は上空からかけられた。彼は綿の葉の羽やら、浮き草やらをあれこれ組み合わせた仕掛けを用いて、ふわふわと滞空しながら様子を伺っていたのだ。
カミットは弓でミヤルを射たいと考えていた。しかし彼の想定と違い、ミヤルが全く変わらぬ見た目でいたので、本当に化身になってしまったのか判断できず、今は思いとどまった。彼はまだ人を射たことがなかった。緊張していたが、不思議と動揺はなかった。コウゼンからの合図さえあれば、彼はいつでも海の守り石の矢じりをつけた破魔の矢を射るつもりでいた。
以前、彼はしくじったことがあった。呪いの化身になったばかりの人に驚き、射ることを躊躇したのだ。たとえその一撃で仕留めることができなかったとしても、矢の一発も射ないほど勘が悪くては、良い戦士とはいえない。優れた戦士は生と死の瀬戸際で、ただ一撃を間違わないために生き残り、勝者となる。
そしてなによりも、カミットは世の人々を困らせる害を取り除くことは英雄の務めであると確信していた。だから今は、たとえその化身が可憐な少女の姿をしていたとしても、カミットは迷わず矢で射抜くと覚悟を決めてきていたのだ。
※
広場を取り囲むようにして、数え切れないほどの鼠が集まっていた。ミヤルはこの者共を意のままに操れたので、コウゼンたちを襲わせてしまうことも可能だった。しかし彼女は上空にふわふわ浮かんでいるカミットに意識を向けており、コウゼンたちを無視していた。
「嫌な呪いね。呪い母様とどっちが強いか分からない」
ミヤルはカミットを指差す。
「空を飛んで、ずるい。届かないわ」
その手は何かを欲するようにして、空へと伸ばされた。
※
ミヤルがカミットを指さしたとき、カミットは呪いによって何かをされると直感した。実際は違ったのだが、彼は危機を感じ取ったのだ。
そのときの判断は一瞬だ。
彼は矢を射た。
高所より放たれた矢はぐんぐん飛んだ。
そしてミヤルの右肩にあたった。
「くそっ!」
カミットは思わず叫んでいた。
肩では致命傷にならないからだ。
彼はこの一矢で決めねばならなかったのだ。
それでも手応えはあった。
破魔の矢が命中した衝撃でミヤルは祭壇からごろりと落ちた。
コウゼンたちが駆けていき、ミヤルにトドメを刺しにかかった。
鼠たちがミヤルを助けるために、いっせいに襲いかかったが、カミットの森の呪いが花を上空から降らせて、鼠たちを足止めした。
カミットは滞空位置を調整して、いつでも次の矢を射れるように準備をした。
※
生身の人間が起こせる呪いの力はどんなに甚だしくとも、災害規模に至ることはない。具体的な被害を人数で表せば、百人が基準である。それほどの被害が出る前には、呪い殺しの傭兵か、さもなくば剣師の手によって、その呪いは断ち切られるのだ。
しかし、もしもその呪いの持ち主が、人間としての器を逸脱していたならば。
コウゼンはミヤルが起き上がった瞬間に、彼女の首を剣で斬った。ところが、ずんと重たい感触があって、剣は少女の細い首にわずかな切れ込みを入れるだけにとどまった。イヴトーブが回り込んで反対側から斬った、こちらも首を断つには至らなかった。
二人は反撃に備えて飛び退いた。
コウゼンは確信して叫んだ。
「皮が少女でも、やはり中身は違うぞ!?」
少女の肉体がめきめきと音を立てて変貌した。白い毛並みはそのままに、巨獣と呼んで差し支えない体格の白い化け猫となったのだ。
こうなってしまった後のミヤルはもう言葉を喋らなかった。彼女は、みゃーみゃー、と世にも可愛らしい様子で鳴いた。
その声に応えたのは鼠たちである。彼らはカミットが撒いた呪いの花たちに突進してきて、その多くは花に触れて、花が持つ何らかの毒によって死に絶えた。ところが鼠は数がすごかった。死ねば死ぬほど、大地は鼠の死骸で満たされた。そうして花の絨毯を塗り替えるほどに積み重なって、その上を後続の鼠たちが走った。
最強の戦士といえども、人の身で鼠の大群に襲われては対処は困難であった。この意味では、やはりこの戦いには通常の戦力は不適切であった。剣師と言えども、おそらくは返り討ちにされていただろう。
迫る鼠たちを見やり、コウゼンは嘯いた。
「伝説の獣の王者と比肩するものか。弁えよ」
彼は天高くを指さした。
空に太陽が二つあった。
終わりの島の上空に無数にある浮島の一つ、その一つが本物の太陽と見間違うほどに輝いていた。
燃える鬣を持つ灼熱のライオン、太陽の化身がコウゼンを見つめていた。両者は同時に雄叫びを上げた。
そして業火が起こった。




