呪いの霊峰(15)「代償、月」
カミットは仰向けになって全身で雨を受けていた。峰の魔人を滅ぼせたかどうかは彼にははっきりとは分かっていなかった。実際に倒したかどうかよりも、全身の筋と骨が悲鳴を上げながらも跳び上がって槍で突き刺したときの気持ちの高まりがまだ余韻となって彼に多幸感をもたらしていた。
ぱちり、ぱから。
仙馬の歩く音が聞こえてきた。仙馬は戦の気を好む。したがって戦いが終わってしまえばすぐにも新たな戦を求めて旅立つはずだが、その彼が去り際にカミットへと歩み寄った。
重々しく、荘厳な声がカミットの脳裏に響いた。
「それは希望か?」
カミットは「分からないよ」と呟いた。これ以外のやりとりはなかった。仙馬はけたたましく嘶いた。仙馬はその黄金の鬣から雷を放ちながら、空へと飛び立っていった。仙馬の去った後は一帯の空はたちまち晴れ渡り、虹が掛かったのであった。
上級神官のストーラは衣をずぶ濡れにして重たそうにしていた。彼はカミットを助け起こした。
「期待以上の成果だった。さすがはネビウスの子息だ」
「ありがとう。風の呪いで助けてくれたね」
カミットは戦士たちが互いを労うのを真似て、ストーラと軽く抱擁した。
ここにルルウも駆け寄ってきた。
「カミット! 大丈夫?」
「平気だよ! ルルウは怪我してない?」
「うん。大丈夫」
カミットとルルウは互いに笑顔で抱き合った。
ストーラはそっとその場を離れようとしたが、ルルウはカミットから離れて彼に声をかけた。
「ストーラ。あなたはこの戦いで重要な役割を果たした」
「最後に運良く仕事ができただけでございます」
「私はこの目で見て理解した。第一回、第二回の両方の戦いに参加したあなたの判断は英雄的であり、正しかったと思う」
「恐縮でございます」
ストーラはあくまでもルルウの言葉に対して謙遜した。カミットは急に思い出したことを言った。
「ネビウスは間違っていたね!」
「はて?」
ストーラは首を傾げた。カミットは得意げに言った。
「だってネビウスはストーラが何にもしないで英雄の名誉を盗むつもりだって言ってた」
「ああ! そうだった。思い返せば酷い言われようだった」
ストーラは声をあげて笑った。ルルウは「ネビウスはそんなことを言ったの」と言って苦笑いした。
このとき剣師たちが峰の魔人の遺骸を確保しようと駆けていった。落雷のあった付近は黒々と焦げてあらゆる物が滅ぼされたかに思われたが、峰の魔人の長大な鼻だけは残存していた。剣師たちが間に合うその直前に、その鼻が一人でに動いた。その照準は空の守り子であるルルウに向いていた。根本が大きく膨らみ、鋭い空気の弾丸が放たれた。
生来の直感が働き、カミットはルルウを庇おうとした。ところがカミットよりも先にその射線上に飛び出た者がいた。神官が着る神聖な魔除けの衣は容易く貫かれた。血しぶきがルルウとカミットに降り掛かった。二人は呆然とした。ストーラも目の前で起きたことが信じられない様子で硬直していた。上級神官のカエクスが凶弾に倒れたのであった。
※
それは湿った手足でひたひたと音をさせて路面を這った。手足の鰭は本来泳ぐためにあって、このような空の領域で、しかも石畳の都市には不釣り合いであった。加えて彼はジュカ人の葉髪をしていて、体は緑の苔で覆われていて、そのような存在が似合うところというのは森の奥深くの沼くらいしかなく、ヨーグ人を名乗るにしても彼は中途半端であった。
彼にとっては幸か不幸か、彼は名乗るための言葉を持たなかった。自分が何者であるかはほとんど重要ではなかった。ただ一つ知ったのは絶望という言葉とその意味だけだった。翼を持つブート人は暗がりを這う彼のことなど気に留めなかった。彼は命じられた通りにある路地裏の家にたどり着き、壁を這い上がって、窓から中を覗き込んだ。
美しい少女が裁縫をしていた。金色の髪は月のように輝くかに思われ、白い肌とほっそりとした顔や体の輪郭は夜を照らす光のように繊細で切ない印象であった。
彼はこの少女を連れていかねばならなかった。窓から侵入し、天井を這って、少女の真上に移動した。そのとき少女は手元の衣服に視線を向けたままで、手を上に掲げ、彼を指さした。部屋の中に水泡が現れ、次には雷が起きて、バチバチと激しい音を立てて感電を起こした。彼は痛みと痺れによって悲鳴をあげて天井から転げ落ちた。
その少女は座ったままでいて、床に転がって呻いている彼に指を向け、さらに電撃を放った。苦しみは絶え間なく与えられた。少女はしばらくすると立ち上がって彼に歩み寄った。彼は呻きながら見上げた。少女には表情が無かった。一切の感情を持たずに彼のことを見下げていた。彼女の手には短剣が握られていた。それが振り上げられたときであった。
「あらまァ。大変なことになってるわ」
別の女の呑気な声がかけられた。彼はその女を知っていた。灼熱の赤髪と褐色の肌を持ち、炎の魔眼を持つ恐ろしい女であった。彼は少女に剣で刺されるよりもよっぽどおそろしく感じて逃げようとした。しかし少女が再び電撃を放ち、彼を痺れさせた。女は少女の手を降ろさせて、雷の呪いを止めた。赤髪の女はしゃがみこんで、彼を助け起こした。なおもその女のことは恐ろしかったが、下手に抵抗して乱暴にされることを彼は怖れた。彼は女の腕の中で動かず縮こまった。
「どうしようかしら」
「お母さん。なんで?」
少女が赤髪の女に尋ねた。
「んん?」
「その子はカミットを怪我させたのよ」
「前回仕返しはしたでしょ?」
「……足りないわ。私、お腹空いちゃった」
「食べるのは我慢よ」
赤髪の女は彼を守るようにして、食卓へと連れて行った。少女も着いてきた。この後、三人は食卓を囲んで食事をした。赤髪の女は彼が満腹になるほど肉を与えた。彼は焼いた肉を食べるのは初めてだった。赤髪の女は笑顔を向けて彼に聞いた。
「美味しいでしょ?」
彼はなぜか赤髪の女が話す言葉の意味が分かっていた。彼はその問いに答えるために与えられた肉により勢いよく齧り付いた。
夕方頃、赤髪の女は彼にボロ布を着せて頭と体を隠させて、都の外まで連れて行った。見晴らしの良い山の斜面で彼は赤髪の女と一緒に太陽が沈んでいくのを眺めた。
やがて翼が羽ばたく音が聞こえだした。翼の大蛇に跨る彼の主人が迎えに来たのだ。周囲に黒々とした霧が立ち込め、腐臭が漂った。翼の大蛇はゆっくりと降り立った。~月追い《ルナシーカー》は大蛇から降りて、赤髪の女の前に立った。
彼の主人は言った。
「月は見ているぞ。牢獄は罪人を呼び続ける」
「そんなに月を自慢するなら、あんたたちで夜の王と相談してちょうだい。太陽の化身に手も足も出ないようじゃあっちも厳しいでしょうけど!」
赤髪の女は挑発的だったが、彼の主人は普段の乱暴さを抑えて言い返すこともなかった。彼は女に促されて、主人の元へ戻った。主人と共に翼の大蛇にまたがり、彼は月夜の空を飛んだ。荒れ地を過ぎて、巨獣の山々をも超えた先には牢獄の都があった。
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