第1話 秘境の里(1)「呪いの捨て子、森の呪い」
秘境の里は周囲を険しい山岳地帯に囲まれた高所に位置していながら、そこだけが不自然に温暖で過ごしやすい気候をしていた。
ネビウスは毛皮の外套や長靴という旅人の出で立ちで、吹雪の針葉樹林を進んできた。
あるところで吹き荒れる雪がぱっと途絶えて、穏やかな陽気に包まれた緑豊かな山間に出れば、そこは一族の住む秘境の里である。
晴れやかなる午後に里の民が川岸に集まっていた。彼らは呪われた赤子を小舟に乗せて、川に流そうとしていた。
そこにネビウスがちょうどやってきて、人々を押しのけて前に出た。彼女は小舟のゆりかごを覗き込み、帽子とゴーグルを外した。燃えるような灼熱の赤髪が広がり、日焼けした褐色の肌が露わになった。
周囲の厳かな雰囲気など露ほども気にかけず、ネビウスは大声を出した。
「あれェ。こんなに小っさいの? 私、お乳でないよ」
ネビウスは里の外では十五歳前後に見なされることが多かった。無邪気な笑みを浮かべれば本当に少女のようであった。よく知る者でなければ、ネビウスが数百年を生きてきた不老長寿の古の民とは思わないものであった。
ネビウスがはしゃいでいると、里を仕切る里長が進み出た。彼は見た目は青年になるかならぬかといった様子の若者であったが、老人のような口調をしていた。
「この赤子は森の民だ。まだ遺恨は消えておらぬ」
「でも私は連中と喧嘩していないのよ」
小舟の赤ん坊は緑色の肌をしていた。まだ新芽のようではあったが、彼の髪は毛髪というよりも葉っぱそのものに見えた。毛髪と違って、分厚くて平たい緑色をした葉髪である。森の民は樹木や草花の要素を外見的特徴に持つ人種であった。
問題はまさにその赤ん坊が森の民であることだった。里長はネビウスに忠告した。
「森の民は私達を憎んでいるぞ」
「大変なのねェ」
ネビウスの口ぶりは他人事のようであった。
里長は呆れてため息をついた。
「一度引き取ったら、途中では捨てられぬのだ」
「どうしよっかな!」
ネビウスは風の吹く緑の丘を指した。切り立つ大岩の上に翼獣がちょうど降り立ったところであった。遠目には小さい鳥のように見えたが、実際には人よりずっと大きな巨獣である。
「あいつが十秒以内に歌ったら、私、この赤ちゃんを引き取るわ」
ネビウスがこのように言った瞬間、翼獣が首をもたげて、フワンフワンという不思議な声で高らかに鳴いた。これに呼応して、多数の翼獣が大岩の周囲に集まって舞い、共に歌って、不思議な響きを奏でた。
ネビウスは目を細めて、頭をぽりぽりとかいた。
里長はネビウスをじとりと睨んだ。
「いい加減なことを言っていないで、よく考えるべきだ」
しかしネビウスは既に決めていたのだ。彼女は胸を張って宣言した。
「この子にネビウス姓を与える!」
※
秘境の里の民は外部とのやり取りのために通り姓を作ることもあるが、たとえば今回のようにネビウスが養子を得たような場合には自らの名を養子の姓とする。あくまで誰が誰の養子なのかを明白にするためであり、氏族の繋がりを示すものとは考えられていない。
ネビウスの子の名はカミットと決められていた。親の名を含めれば、彼の本名はネビウス・カミットとなる。
お気楽なネビウスは足取り軽く、抱っこひもに抱えたカミットを連れて、夕焼けに染まる丘の道を歩いた。
やがて草木が無造作に茂る庭が見えてきて、その向こうには蔦葉に覆われた家屋が佇んでいた。
百年以上ほったらかした家は、扉の立て付けが悪くなっており、ネビウスがドアノブを押しても引いても微動だにしなかった。ネビウスはたちまち癇癪を起こして、扉を蹴り破った。扉は壊れて家の内へ倒れ込み、埃がぶわっと舞い上がった。ネビウスは埃を吸ってしまい、げほげほと咳き込んだ。
このようにネビウスがどたばたやっていると、騒音に驚いたカミットが泣きわめいた。
「うるさい!」
ネビウスは怒鳴った。怒声が衝撃を生み、家の回りの草木がごうとしなった。
カミットはひくっと息を詰まらせて黙った。ネビウスはふんと鼻を鳴らして、家の中へ入ろうとした。ところがカミットはすぐにまた泣き始めた。その泣き声は先程よりもいっそう激しく、攻撃的ですらあった。
「静かにおし」
「お黙り」
「あんたは誰に拾われたと思ってるの。しっかりするのよ」
「これは最期通告よ」
赤ん坊が言葉を理解するはずもない、カミットは泣き続けた。
ネビウスは扉を立て直そうとしていたのを一旦中止して、赤ん坊のカミットを庭へ放り出した。実際に、ぽーんと投げてしまった。ネビウスはあろうことか、乳幼児を引き取って一時間足らずで、彼の養育を放棄したのである。
彼女は久しぶりの我が家の荒れ果てた様子を掃除し始めると、たった今捨てた赤ん坊のことを早くも忘れようとしていた。居間の食卓回りをきれいにして、窯で火をおこして湯を沸かし、鍋で野菜と肉を煮込んだ。そうしてホクホクした気分になって、出来上がった煮汁をお椀に注いで食べようとしたときであった。
奇妙な地鳴りが起こり始めた。
「なにかしら。私は今忙しいのよ」
朽ちた木材の床に向かって吐き捨てるように言ったのだが、次には急に猫なで声で、
「よちよち、土の精霊ちゃんたち~、良い子だから、私がご飯終わるの待っててねェ」と語りかけた。
ところが、家の揺れがいよいよ激しくなり、それでもネビウスは無視して食事を続けていたのだが、鍋がひっくり返る段になり、激怒した。
「なんなのよ! 生意気よ!」
ダン、と床を踏みつけると、揺れが一瞬だけ収まった。
唐突な静けさの中で、赤ん坊の鳴き声が不気味に響いた。
ネビウスは嫌な予感がして、慌てて庭へ飛び出した。
先程まで無かった巨樹が家の前に聳え立っており、メキメキと成長して、梢を太くして、ぐわんと振り回した。
「あ!」とネビウスは間抜けな声を出した。
巨樹の豪快な一撃はネビウスのスウィートホームを丘の向こう、崖の下に、ばらばらにして吹き飛ばした。
ネビウスは左右で色の異なる青と赤の瞳で巨樹を睨みつけた。彼女の右の赤の瞳が煌めき、灼熱の赤髪が熱した金属のように輝いたとき、巨樹は一瞬で炎に包まれ燃え上がった。
ところが巨樹はこれを見越していたらしい。炎の広がる速さを超えて再生したばかりか、大きな水泡を生み出す綿毛を辺りに撒いて、雨を降らして火を消してしまった。
ネビウスが顔を真っ青にして逃げ出すも、大地を蛇のように走る巨樹の根がネビウスの足を捕まえて、さらに蔓で縛り上げて引き戻した。
巨樹はネビウスを吊し上げて虚の中に収めた赤ん坊、カミットに向かい合わせた。
「森の呪いねェ。大したもんだわ」とネビウスは逆さに吊られた状態で偉そうに言った。
不意のことで動揺したものの、ネビウスは既に冷静だった。彼女は左の青の瞳をきらりとさせて巨樹を睨み、青い火を起こした。巨樹は抵抗したが、青い火で焼かれると復活できず、やがて滅んだ。
ネビウスは蔦と根から開放されると、身を返してすとんと上手に着地した。彼女はカミットを抱っこして、丘を降りていった。