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第4話

 春道にとって苦痛の日々はその翌日から始まった。

 一限目のあとの小放課、春道は提出期限の迫る数学の課題に頭を悩ませていた。解き方の筋道が見えてきたと、やや興奮気味の春道の春道の耳に教室の後ろで歓談している女子の会話が聞こえてくる。

「私の体操着がなくなっちゃってさ……。」

「えっ、昨日の体育の時、更衣室に忘れてきちゃったんじゃないの?」

「あとで一緒に見に行こうよ。」

 ーーうっかりしてるなあ。

 内容自体は大したことのないものだ。数学の問題で頭が一杯だった春道はその会話を聞き流し、すぐに解をノートに書き込むことに集中した。

 その時、春道がもう少し考えを及ばせていれば、悲劇は回避できたのかもしれない。

「小林さんの体操着が見つかりません。誰かの鞄に紛れてしまったのかも……。心当たりのある人はいませんか?」

 その日のホームルームで担任から告げられた一言に春道はなにかとても嫌な予感がした。

「盗まれたんじゃねえの?あっ、春道とか怪しくねえ?ほら、昨日移動教室遅れてきたしさー。」

 一人の男子生徒がおどけた声を上げる。その男子生徒はクラス一のお調子者として知られていた。

「おいっ、冗談にしてもそれはひどいだろ!明石がそんなことするわけないじゃん!」

 春道の友人の一人が、お調子者をにらみつける。

 だが、春道はある一つのシナリオを思い浮かべていた。

 確かめなければ!

 咄嗟に優吾の方へと目を走らせる。目が合った瞬間、優吾はパッと視線をそらしわずかに顔を下に向ける。

 春道は確信した。

 優吾!優吾なのだ……。

「なあ、明石!侮辱されてんのはお前なんだぞ!お前からも言ってやれ。自分はやってないって……、おい、どうした?明石?」

 春道のその時の気分は最悪だった。顔は血の気がすっかり引いて紙のように蒼白だったし、背中は嫌な汗じっとり湿っている。尾てい骨から首の方へと不快な寒気が駆け上る。

「まさか本当に春道が?」

 そんな俺の様子に教室内がざわつく。

 ーー小林……優吾と以前二人で帰ったときあいつ小林のこと可愛いと……。

 春道は小林のほうを見る。その顔からは春道にたいする怯えと侮蔑がありありと見て取れた。

 ーー違う!俺じゃない!

 春道は心のうちでそう叫んだが、その叫びが口をついて出ることはなかった。指の関節が白く浮かび上がるほどに強くこぶしを握り締める。

「明石君。本当にあなたが盗ったの?いいえ、ごめんなさい。そんなはずない。君がそんなことをする人間じゃないことぐらい……。」

 額に手を当てて疲れたように頭を振る担任の教師。

「僕がやりました。」

 春道は彼女の言葉を遮るようにして言った。担任の顔が驚きと困惑に歪む。

 一体どうしてそんなことを言ったのか、その時の春道の混乱した頭では正確に理解することはできなかった。

 ただ真相が明るみにでれば、あの気の弱い親友の心が耐えられないことだけは容易に想像できた。

「僕がやりました。」

 怒り、悲しみ、諦念、友情。雑多な感情が入り混じり、すでにぐちゃぐちゃの心で春道はもう一度、しかしはっきりとそう口にした。


 それ以来、春道は学校内で孤立を余儀なくされた。

 盗難の件についての教師たちの追及に春道は淡々と応じた。盗んだものをどうしたのかと聞かれたときには、ただ一言、捨てたと答えた。

 事件について春道の両親が学校に呼び出された。はじめ両親は春道をかばったが、当の本人が盗んだと言い張っているのだ。らちが明かない。

 事件の関係者がみな大ごとになるのを望まず、警察沙汰に発展しなかったことは唯一の幸いであったといえるだろう。春道と両親が被害者である小林に謝罪したことで、事件は形の上では収束をみせた。

 しかし事件が落とした影は大きかった。学校という狭い社会において噂というものは即座に伝播するものである。春道に対する学校の生徒の印象は地に落ちた。はじめこそ春道を少しでも知っているものは、彼が本当に盗みをやらかしたことを信じず、彼に問いただした。だが、やはり春道は自分がやったとしか言わない。次第に彼らも春道から離れていった。春道も、もうすでに後に引けなくなっていた。

 やがて春道は生徒間でも扱いに困る存在として認知された。

 たいていの生徒は彼を無視したが、そうでない者もいた。春道は背が高く容姿も整っており、なんでも器用にこなす青年だった。そんな彼を密かに妬んでいたものたちは、これ幸いとばかりに彼に対して陰湿ないじめを仕掛けた。

 ほかの生徒もいじめに気付いていたが、生徒達の中の春道は女子の体操着を盗んだ卑劣な男であった。表立って救いの手を差し伸べる者もいない。春道はただひたすらに耐えた。

 あのホームルーム以来、優吾とは一度も口をきいていない。

 その日、春道が登校すると机の中に濡れた雑巾が入れられていた。鼻を衝く酸っぱいにおい。雑巾には牛乳がしみ込ませてあった。

 ーー牛乳持ってきてまでよくやるよ……。

 春道はうんざりしたように顔をしかめると、雑巾をひっつかみ流しへと向かう。

 洗い終えた雑巾を流しの横の掃除道具置き場にしまい、教室へと戻ろうとした春道だったが、廊下の曲がり角ちょうど春道からは死角となっている場所から話し声がする。どうやらそのうちの一人の声が優吾のものらしかった。

「優吾、お前春道の親友だろ。最近あいつのいじめひどくなってるの知ってるよな。何かしてやれないかな?」

 いまだに少数ながらも、春道のことを心配している人間がいることは春道も知っていた。優吾と話している男子生徒もその一人だろう。その事実に春道はわずかばかり勇気づけられた。しかしすぐに春道は絶望に叩き落されることになる。

「優吾?あんな奴、友達なんかじゃないよ。」

 春道はあの事件の後も、優吾のことは親友だと思っていた。確かに優吾のやったことはろくでもないとおもっていたものの、いままでずっと苦楽を共にしてきた優吾のことを嫌いにはなれなかったのだ。

 だが、今聞いてしまった言葉は、そんな思いを打ち砕くものだった。

 ーー裏切られた!

 今まで春道が悪評やいじめに耐えられてきたのも、優吾を守りたいという気持ちがあってこそだった。その決意がほかならぬその親友の手で崩された今、もはや春道を支えるものは限りなく失われてしまったも同然であった。

 春道はいよいよふさぎ込むことが多くなった。依然として続くいじめもそれに拍車をかける。

 優吾の言葉を聞く前は家では明るく振舞っていた春道だったが、それも限界をむかえた。

 そんな春道の様子を見かねて、両親は彼に何があったのか尋ね、励まそうとしたが、彼はそれを拒んだ。

 その時の春道は誰にも頼る気が起きなかった。ふてくされたともとれる春道の態度に両親はどうすればよいのかわからず、距離を置いて見まもるほかなかった。

 そんな中で当時中学生だった妹だけは兄を気にかけ続けた。彼女は事件のことをいまだ知らず、幼い時から自分を可愛がってくれていた兄を尊敬し、慕っていた。しかしある時を境に彼女のそんな感情は壊れる。

「あなたみたいな人が兄さんだなんて、吐き気がする。」

 春道がある日帰宅すると、玄関で待ち構えていた妹に吐き捨てるようにそう告げられた。

 春道の中学の同級生伝いに伝わったのだろう、彼女は事件のことをその日知ったのだった。彼女は賢かったがまだ精神面でまだ幼さを残していた。事が彼女にとって衝撃的にすぎたことで激昂し、冷静な判断力を欠いていた面は多分にある。そんな幼さから、彼女は兄に対して攻撃的な言葉をつきつけるに至ってしまった。

 春道もそれは十分に分かっていたが、それでもこれにはこたえた。おいつめられた春道が一番にこころを許していたのは妹だったのだ。


 それからも春道は支えもないままつらい日々をやりすごし、二年生に進級したころには、彼の頭には一本の毛も残ってはいなかった。

 



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