廃墟の図書館
雪の夜だった。
僕はかつて図書館と呼ばれていた建物の前に佇む。赤煉瓦でできた円筒形のそれは、黄緑色の三角帽子を被り、身動ぎひとつしない。粉雪が静かに降り積もり、僕らを白く染める。
昨日、街で唯一の図書館が閉鎖された。建物の周囲には有刺鉄線が張り巡らされ、扉は、誰も立ち入ることができないよう固く施錠されていた。閉鎖反対派の大人たちは、昨日の夜のうちに連れ去られてしまった。僕のパパもママも。
親を奪われた子どもたちは、恐怖のあまり固く口を閉ざし、今日一日、街ですれ違っても互いに言葉を交わすことがなかった。
「こんなところで何をしているんだい、キリエ?」
その声に僕の背は凍りついた。
街の孤児を世話している、年老いたアポストルの一人が薄笑みを浮かべながら近寄ってくる。アポストルたちはゆらゆらと揺れながら、姿を現したり消したりした。孤児院では、僕たちは一列に並べられ、一人一人の〈記憶抜きの儀〉が施された。
アポストルは大きな口を開け、子どもたちの頭を飲み込んでいった。一人目の儀式が終わると、アポストルは不味そうにペッと子どもの頭を吐き出した。その子の頭はアポストルの唾液でベトベトに濡れていた。
「ぼ、僕たちの図書館を返して欲しい。あなた方は、パパやママが命をかけて守ってきた図書館を勝手に壊しました」
「勝手に? キリエ、それは違うよ。あの建物の書架に並ぶ邪悪な書物たちを毀すよう、我々を遣わしたのは、君のパパやママたちなんだ」
「う、嘘だ! そんなこと、あるわけないだろう?」
僕は感情的になり、大声で叫んだ。
雪はしんしんと降り続く。
アポストルは大きな口を開けながら僕に近づいてきた。あの大口に頭を齧られると、記憶を失ってしまう。僕は咄嗟に逃げようとしたが、すぐに腕を掴まれ、自由を奪われた。
その腕はほとんど透明で、翳のようにあやふやに見えたが、力だけは強かった。
「離せ! 離せったら……」
その時、近くでシュッと花火に点火したしたような音が鳴った。すると突然、僕の身体に覆い被さるようにして、アポストルが倒れ込んできた。アポストルはまるで、綿のように軽かった。そして、口を大きく開けたまま頭部が破裂し、パッと赤い飛沫をあげた。夏の花火のように美しく、赤が散った。不思議なことに、白く積もる雪面は何色にも染まっていなかった。
使徒なんて、幻に過ぎないのだろうか。
火薬の匂いが立ち込める。
「あらら……、まぁた、ロクでもないもんを撃っちまった。弾、勿体ねえけど、ま、いっか」
飛沫の向こう側には、背の高い男の姿があった。
煉瓦色のマントを纏い、黄緑色の帽子を被った男は、フリントロック式の銃ーー海賊が持っているような銃だーーをこちらに向けて立っていた。
「ふん、ガキンチョか。ま、せいぜい頑張って生き延びろや」
そう言って謎の男は僕の後ろ側に回り、有刺鉄線を安全靴で踏み破った。物凄い力と勢いで、人が一人抜けられるだけの隙間ができていった。どうやら彼は図書館の敷地に用があるようだった。
「ち、ちょっと待って!」
「ん? なんだ、まだいたのか。子どもは早く家に帰って寝ろ」
「僕に帰る家はありません」そう言うと、彼は初めて僕の顔を凝視した。「あの、あなたはこの図書館とどんな関係が?」
「……、それを知ってどうする?」
男の眉間に皺が寄った。返答次第では命はないぞ、というような鋭い目つきになった。
「僕のパパとママはアポストルの連中に連れ去られました。僕も、あなたのような力が、強さが欲しい」
「……、強さか……」男はふっと微かな笑みを見せた。「勝手についてくるのは構わんぜ。ただ、俺の邪魔だけはするな」
「はっ、はい!」
「名前は?」
「キ、キリエ」
「そうか、俺はリーブル。この世界の記憶を守り続けている。謂わば記憶の番犬みたいなもんさ」
よく見ると、男は全身傷だらけのようだった。左脚は義足で、少し引き摺って歩いている。僕はその後ろ姿に勇気をもらい、ついていくことにした。
✳︎
円い天窓から、雪の夜の淡い光が射す。
殆どの窓が、釘付けされた分厚い板で覆われていたから、その円窓が唯一の光源だった。
僕は白い息を吐きながら、建物の内部を見渡す。
「ひどい……」
図書館の内部はすっかり荒れ果てていた。
木製の書架はほとんどなぎ倒され、本という本は散乱している。ある本はページを開いてうつ伏せの状態になり、またある本は千切られ、折り曲げられ、無残な屍体のようになって床に投げ棄てられていた。
僕は一冊の、美しい装幀の本を手に取り、やるせない気持ちになった。紅茶色の表紙は誰かに踏みつけられたらしく、黒い靴の痕が残っていた。
「アポストルは、なぜこんなひどいことをするんだろう……」
「さあな」リーブルは弾を込めるため、㮶杖を銃口から射し込み、言った。「奴らにこれといった目的なんてないさ」
「目的もなく、悪事を働くことができるの?」
「悪事、か……。面白いことを言うな。焚書が悪か否かは相対的なものだ、という輩もいるが、俺は違う。目的を持たない者らとの闘いは、目的を持つ者の義務だと思う。実際、気が遠くなるほどの永い時間を、俺は闘いに費やしてきた。……、さあ、お出ましだぜ」
リーブルは天窓を見ながら言った。
さっき撃たれたアポストルが、仲間を呼び寄せたのだ。黒い影のような体になった〈夜のアポストル〉たちは、雪の空を浮遊し、犇めくようにして頰や額を硝子にくっつけていた。そうして、白く光る目で、みな一様にこちらを覗き込んでいる。
僕の背は、またもや恐怖で凍りついた。
「大丈夫だ、奴らにこの結界を破ることはできない。奴らは腹を空かして苛立っているからな。まともな判断もできないだろう」
僕の頭は混乱した。
「腹を空かしているからって、何故、アポストルたちの目は、あんなに恐ろしく光ってるの?」
「夜になると喰らうのさ、書物という書物を。あるいは文字となった世界の民の記憶……、いや、今夜はキリエ、お前も奴らにとっては美味そうな餌だ」
「ひっ!」アポストルたちの壁を叩く音が、そこら中から鳴り響いた。「僕を食べたいの? 僕の大切な記憶の詰まった、この頭を!」
恐れとともに、しだいに僕の中で怒りが湧いてきた。
リーブルは煉瓦色のマントを広げ、ベルトに括り付けた腰の巾着を取り出した。そして、銃の撃鉄を少しだけ起こし、火皿に、巾着に詰めていた火薬を流し込んだ。
黄緑色の帽子の、広いつばの陰からリーブルの右目が挑発的に光った。その横顔は、ママに内緒で悪戯しようぜ、とでも言いたげな、愉しそうなものだった。
「さあ、撃てよ、キリエ」
リーブルは僕に銃を渡した。
それはとても重く、両手で支えないとすぐに落っこちてしまいそうだった。
「え……、でも、僕……」
「大丈夫だ、よおく狙って撃てよ。キリエ・エレイソン、お前のその一発で、世界は変わる」
僕は勇気を振り絞り、天窓の外に蠢くアポストルに銃口を向けた。
そして、トリガーを引く。
燧石が当たり金にぶつかり発火すると、シュッというマッチを擦ったような音がして、弾丸が弾き出された。
硝子が割れ、一体のアポストルに命中すると、奇妙な鳴き声が響いた。すると、アポストルたちは次々に破裂してゆき、雪の夜空を昼のように明るくした。
「やった!」
僕は眩しさに目を細め、無邪気に喜んだ。
でも、リーブルは何故か淋しそうな顔をしていた。僕はまだ知らなかったのだ。この世界の秘密を。リーブルは、それを知っている。
「お前の手を汚してしまったな……。ああ、俺はやっぱ罪深いや。キリエ、すまなかった」
「リーブル?」
「そろそろ、お別れの時間だ」
そう言うと、リーブルの体は半透明になり、その存在を稀薄なものにしていった。どういうわけか、その存在感の無さは、アポストルに似ていた。
「リーブル……、また、逢える?」
「そうだな。お前がもし、そう望むのなら、きっとまた、逢えるだろう。……、じゃあな」
割れた天窓から雪風が吹き込んでくる。
散乱した本たちの頁は捲れ、鳥のようにバサバサと羽ばたいた。
気づくともうそこには、彼の姿は無かった。
✳︎
「キリエ、朝よ。起きなさい」
いつものママの優しい声で僕は目覚める。
ママがカーテンを開けると、部屋は太陽の光に包まれた。その光は、降り積もった雪に反射して、キラキラと眩しかった。
「ママ! 無事だったんだね? そうだ、図書館は……、図書館は大丈夫? 悪い奴らに壊されてない?」
「まあ、可笑しな子ねぇ。ママは今朝も図書館の司書として出勤するつもりよ」
そうか……、やっぱり悪い夢を見ていたんだ。僕は胸を撫で下ろした。
「キリエ、あなたの机の上、玩具が出しっ放しよ。ちゃんと片付けておきなさい。今夜の闘いのために」
そう言って、ママは部屋を出ていった。気の所為だろうか。ママの影が少し薄くなっているような気がした。
机の上には、リーブルが腰に提げていた火薬入りの巾着と、フリントロック式の銃が無造作に置かれていた。【了】