9.Nostralgia 郷愁
真新しい墓標のかたわらに、豪奢な山吹色の花が咲いた。吹き抜ける風に、さらりと震える。何という名の花であったか。ただ、あの人が気に入っていて、よく摘み取らせていた花であった。
この山腹の崖からは、あの人の愛した郷のすべてが見渡せる。もはや誰もいない、朽ちぬ骸のような、廃墟の街。
墓標に触れれば、彫ったばかりの文字の窪みが指先に伝わる。
『Primula Ob Conica』
(プリムラ=オブ=コニカ)
生という永い永い旅路を終えて、このヴァンパイアの郷最後の女王は、ここに眠る。
彼女はもう、目覚めない。
揺さぶっても、血肉を捧げても。
もう、二度と。それが、死というもの。
ポケットから、何度も読み返してしわだらけになった手紙を取りだした。
女王の遺した、最後の言葉たち。
我は少しだけ迷ってから、それを破った。破って、破って、それからまた破った。
細かな紙吹雪は温い風に乗って、風花のように、静かに郷に降り注ぐ。
「……あなたであったら良いと、我は思っていたのだ。あなたはそこまで気づいていましたか?」
運命の女性。
地中に眠る女王からの返答など、当然あるはずもない。けれど我は、聞いた気がした。「ええ勿論よ」と、自信過剰な女王の含み笑いを。
我は反対側のポケットをあさる。昨日買ったリングが、指先に引っ掛かって外に出てきた。まるで、我に、為してほしい在りようを訴えるかのように。
豪奢な金色に、紅い宝石。
時の止まるほど、魂の抜かれるほどの、その美しき様。
顔を上げれば、見渡す限りの廃墟。
我の愛した者たちは、すべて死んだ。
この郷を滅ぼしたのは―――我。
だから我はこの感情に、女王に対する思いに特別な名をつけることはしない。
愛することは尊いことだという女王の言葉を、信じていたいから。
我は膝をつき、女王の墓を手で軽く掘り返し、そこにリングを埋めた。
葬った。女王への、淡い想いごと。
その拍子にふと、シャツの襟元から自分の胸元が覗く。我の左胸の上には、複雑な紋様の、青い刻印が刻まれていた。昨日まで無かったもの。
それは―――ヴァンパイアの王の証。
王が亡くなった後、あるいは王が王たる資格を失ってから、次の王たるヴァンパイアの胸へと転移するよう魔術が施されている、古来よりの魔術印。
「王としての絶対の力を誇示するために、あえて急所である心臓の上に刻まれるのだ」と我らは一般的に言うのだが、実際は古の魔女族との戦いで施されてしまった呪いなのである。
もう何世紀も王を輩出しているコニカ王家は、女王・プリムラの死によって完全に滅びた。けれど原初のヴァンパイアである男は、王を他者に譲った後、ヴァルプルギス家を興した。
つまり本来の王家はヴァルプルギス家であり、その特性からヴァルプルギス家は王家危急の際の代替王家として、ずっと筆頭貴族でありつづけてきた。
ヴァルプルギス家嫡男であり、青の刻印を持ち、我は真のヴァンパイアの王となった。数多の大切なものと引き換えに。
百年もの間女王と共にあった刻印に触れれば、女王の温もりが今もなおそこに残されているかのような気がした。
さわさわ、と、揺れる山吹色の花。ああ、そうだ……思い出した。この花の名は―――
「……プリムラ・オブコニカ……」
泣きたいのか笑いたいのか。自分でもよく分からない感情に襲われる。女王ならきっと、「なら笑っておきなさい」と言うのだろう。我は笑った。
いつかきっと、必ず、ここへ帰ってくる。その時には、女王の言う素敵な恋人とやらが、隣にいるのだろうか。
「―――さようなら、女王」
そして我は、旅に出たのであった。
***
水面に浮かび上がっていく泡沫のように、ユートの意識が冴えていく。
ぽっかりと、蒼い眼が開かれる。自室として使っている部屋の、ベッドの上にいた。いつの間に……とユートは呟いた。
「―――あ、起きたぁ?」
ひょっこりと、どこかあどけない少女の顔がユートを覗きこんだ。ユートの頬に栗色の巻き毛が落ちる。ユートの眉が、むず痒そうに八の字になった。
「わーお、ひどい寝癖」
少女の手が、ユートの銀髪を撫でつける。
「我を起こしに来たのか、エル」
「そうだよー。幹部会議なのになかなか起きてこないって、トワが会議室の柱をハリセンボンにしてた」
相変わらず堪え性のないビジネスパートナーに、ユートはやれやれとため息をついた。ハリセンボンの柱。おそらくトワが苛立ちまぎれにナイフを投げまくり突き刺しまくり、かわいそうなことになっているのだろう、その柱は。
ユートは起き上がり、身支度を整えはじめた。エルはベッドに腰かけ、そんなユートの様子を眺めている。
「珍しいね、ユートが寝坊なんて」
「そうだな……こんなに長く眠ったことはほとんどないのだが」
なぜだろうか。別に、さほど疲労してもいなかったのに。疲労していたとしても、無限回復機能を持つ不死者には関係のないことだ。
何か、特別なことが……。思案にふけりながら支度を整えていくユートに、エルが「そーいえばさー」と心なしか嬉しげな声をかけた。
「本日、四月三十日。えーと……五百回目? の誕生日おめでとー」
ああ……と呟いて、ユートはまた、自分が泣きたいのか笑いたいのか分からなくなった。時間の感覚が曖昧なのは常のことで、すっかり忘れていた。
少しだけ迷って、ユートはやはり「ありがとう、エル」と笑うことにした。
―――道理で、懐かしい夢を見たわけだ。
「そうだ、エル」
「なーに?」
「いつか、我と共に、我の故郷へ行かぬか?」
エルの目が、きょと、と瞬く。
次いで、仏頂面にも似た何とも言えない表情で、視線をふらりふらりとあちこちにさまよわる。それは、エルがひどく喜んでいる時、それをどう表現したらよいか分からない状態の時だった。
「ここから……そこまで遠いというほどではないが、人間には少し酷な道のりであろう。だが、とても美しいところだ。それに、紹介したい人もいるのだ」
そっか、とエルは少しだけ、不器用に笑った。そして、しっかりと頷いた。
「―――うん、いいよ」
もうこの世界にはいない、特別なひとよ。
あなたに、大切な彼女を紹介しよう。
あなたのくれた、愛という名の世界は、まだ我のなかに息づいているから。
ひとまず完結です。ここまでお読みいただきありがとうございます。