7.Doomsday 終焉
その黄昏時のことである。ユートは大広間の片隅にイスを持ちこんで、適当な書物を読むともなしに読んでいた。そこに、女王の寝室の扉が開く。
貫く斜陽をものともせず、寝起きの気配も感じられない女王が、泰然と広間を横切った。ユートは瞠目した。寝起きの悪い女王がまだ陽光のある刻に姿を見せるのは、極めて稀なことだった。なにせ黄昏時の今というのは、夜の王者ヴァンパイアにしてみれば、人間にとっての夜明け前に等しいのである。
眠りすぎることも身体には良くない。女王もきっと、御身を労わろうという気持ちになったのだろう。そう思う反面、ユートの背中に冷たい汗が伝った。
女王は、白いドレスを身に着けていた。
女王は普段は黒や紫などの暗色のドレスを好み、明色、特に白いドレスは毛嫌いしてあまり着ることはなかった。
穢れなき白。その色の衣服は、この郷で埋葬する死者に着せる習慣のあるもの。
「……ユート、こちらへ」
凪いだ水面のように落ち着いた、何かの覚悟を決めたかのような顔持ちで玉座に腰かけ、ユートを手招いた。
ただならぬ予感をおぼえながら、ユートは階の手前まで歩んだ。
「そう、そこでいいわ。さあ、あなたにこれを授けましょう」
と言って、女王は玉座の背もたれから取り出した何かを、軽い動作でユートへと放り投げた。反射的に手を出して受け止めたユートは、予想外の重量に思わず身体を屈めてしまう。
見れば、それは豪奢な鞘に収められた大振りの剣―――コニカ王家秘宝のフランベルジェに他ならなかった。
なぜ突然、王家の血筋でもない、一介の貴族出身の自分にこれを下賜するのか。理由を問おうと顔を上げた瞬間、ユートの全身が粟立った。
それは理屈では説明のつかない感覚であり、言うなれば、同族嫌悪だった。
「分かるわね? ユート。構えなさい」
「……はい」
ユートは躊躇いなく、フランベルジェを鞘から抜いた。昔、王城の警護兵に稽古をつけてもらっていた時とは違う。真実の大剣の重み。ぐっと足を踏みしめて、それに耐えた。女王を背に庇い、構える。
いつしか、夕陽は完全にその姿を山の向こうに消していた。塗り広がる薄藍。
―――逢魔ヶ刻。
女王が唇だけでつぶやいた瞬間、玉座と扉の間、広間の半ばに突如として黒い霧が湧き上がった。ユートは剣の柄を握る手に力を込めた。濃い、濃いにおいが鼻をついた。同族の、においが。
人の背丈の大きさまで伸び膨れた霧が、パッと散じて消えた。そこに、一人の男性の姿が現れる。
長い金髪を後頭部で結わえ、白のロングコートで全身を包んでいる。そしてそのコートの胸のところには、金糸で刺繍された、十字架を模した紋章。それは、教会に認められたヴァンパイアハンターの証だった。
男は正面の女王を目にとめると、ゆったりと笑みを浮かべた。整った顔立ちと相まって、それはさながら、ようやく運命の女性に出会ったかのような笑みだった。
けれどその僅かに綻んだ唇の合間から、獲物を求める狩人の乱杭歯が白く光る。
「お会いしとうございました。我がヴァンパイア一族最後の女王、プリムラ=オブ=コニカ殿下」
舞台上で台詞をそらんじるように、わざとらしい物言いだった。女王は物憂げに肘置きに頬杖をついて、男を睥睨する。
「本来なら、あなたのような雑種、わたくしの髪の毛一本すら拝謁叶わぬ身の上よ。精鋭兵たちが存命だったら、とっくの昔にあなたの心臓は肉体から引きずりだされていたでしょうにねぇ」
残念だわ、と女王は加虐的に微笑む。
「ええ、まったく残念です。紫闇の迷宮、純血のみを導くヴァンパイアの楽園。それがよもや、私のような雑種に、こんな最奥まで侵入を許すだなど。私も仕事の張り合いがないというものですよ、女王」
ユートは顔を歪めた。本当にその通りだった。もしも自分さえ、魔術の素養を持っていれば。女王ひとりの魔力に頼りきりで、今までハンターが侵入してこなかったのが不思議なくらいだった。
「私はどうしても、殿下から賜らなければいけないものがあるのです」
「あら、何かしら。物によってはここまでたどり着いた褒美代わりに授けることもやぶさかではないわ」
「では……」
あなたの
お命を。
男はダン! と強く床を踏みならした。それを合図に、床から次々と、泥で固めた粗雑な像のようなものがぼこぼこと出てきた。
泥の像はよく見てみれば、腐食の進んだ人間の死体―――すなわち、ゾンビであった。ゾンビはぼだぼだと肉片を零し、ゆらゆら左右に揺れながら、もはや言葉にならない何かを絶えず呻いている。
鼻をつく異臭に、ユートと女王がそれぞれ秀麗な容貌をしかめた。
ただひとり男だけが、十数体顕現したゾンビたちの中心で誇らしげに微笑む。そして右の拳をとん、と自身の胸に置いた。
途端、ゾンビたちが緩急も様々に、一斉にユートと女王目指して駆ける。
ユートも床を蹴り、それらを迎え討った。大剣を振るい、襲い来るゾンビたちの首を胴を腕を薙ぎ払っていく。剣の重みも、これが初めての実戦だということも、丸ごと頭から吹き飛んでいた。
女王を護らなければ。その一心だけがユートを突き動かしていた。
淡くともりはじめた月の光を、ユートの深海の瞳が妖しく反射させている。その様を愉快そうに眺めながら、男は女王に問いかけた。
「殿下、あなたは昨夜、何をお召し上がりに?」
「さあ。何だったかしらね。この歳になると食べたか食べていないのかも曖昧でいけないわ」
「人間ではありませんでしたか? ―――エミリア=オールドカースルという名の、人間の娘」
女王の瞳が、ユート以外誰も気づかないであろうほど、僅かに揺れ動いた。女王は努めて平静に、「そういえば、そうだったかもしれないわね」と答えた。
男の碧眼が、冷たく凍えた。だがそう見えたのも一瞬のことで、すぐに元の得体の知れない微笑にすり替わる。
「あれは、私の眷属でしてね。お陰で、この郷へのたどり着き方、城の間取り、そして郷の総人口という素晴らしい情報を得ることができました。そこの、あなたの眷属のお陰でもありますが」
眷属。他の動物に契約の儀を施すことにより、その感覚器官や思考のすべてを自らのものとして使役することができる。ヴァンパイアの能力のひとつであるが、眷属とするのは主にコウモリなどの動物であり、自分たちと極めて近い種族である人間を用いることは、あまり例を見ない。
しかし、ハンターならば、血族の誇りも何も持たない雑種ならばやってもおかしくはないのだ―――ユートは戦いながらほぞを噛んだ。
「良い趣味をしているのね、あなた」
「お褒めいただき光栄です。が、私など、あなたに比べれば可愛いものですよ。人間を骨も毛も残さず食らってしまうあなたに比べれば、ね」
女王の表情は静謐で、どこか倦怠感を帯びたまま、微動だにしなかった。
男に言われるまでもなかった。そんなことは既に、骨身に沁みるほど、痛いほど、理解しているのである。人間を眷属としても、男は、命と意思と自由を残したままでそれを使役していた。
「……エミリアには、指輪を贈ってくれる相手がいたようね」
ええ、と男は頷いた。
「その指輪は、私が贈ってやったものですよ」
男の声と表情はどこまでも柔和なままである。けれど、ユートはそこにちらりと、燃え盛る激情のようなものを感じ取った気がした。それが何を意味するものなのかは分からず、また、考える猶予もなかった。
ゾンビは叩き斬っても叩き斬っても、すぐに傷口は塞がり、切り離された部分は蘇生し、何度でも立ち上がってくる。その上、ゾンビは死んだ人間の骸であるにも関わらず、生前を遥かに上回るであろう怪力を持っていた。ユートは舌打ちした。
隙をついて飛んでくる拳の、すべてを避けきることはユートにはできず、臓腑を抉られる気持ち悪さを味わった。並のヴァンパイアならば、ヴァンパイアであろうとも既に動けなくなっているであろう重傷である。
だがユートも、ゾンビのそれを遥かに上回る速度で傷が治癒していく。不死の呪い故に、瀕死まで至っては蘇生することを何千回でも繰り返す。
けれど、自分が死なずとも、油断して一体でもゾンビを通した途端、女王は死んでしまう。文字通り必死のユートの耳に、男の声が届く。
「―――私は彼女を、眷属として利用するために籠絡したのですよ」
恋とは、そして愛とは?
昨夜女王に問いかけた言葉を、ユートは不意に思い出した。
全てを分かり切っているのだろうかと思わせる決然とした瞳で、その女性は、ユートが差し出したグラスの中身を飲み干した。
『その人の為なら、なんだってしたい』
女王の答えた言葉が、その女性―――エミリアの声でユートの耳に聞こえた。
ふつふつと、ユートの内で何かが煮えたぎる。分かっている。理不尽で、自分にはそんな資格の無いことは。けれど。
「……ふざけるな」
イチかバチか。剣を振るいながら、隙を見て、ユートは内ポケットから取り出したナイフを鋭く放った。ナイフは過たず、胸に置かれたままの男の右拳を深々と貫いた。
ぱりん、と微かな音がして、開かれた男の拳からはらはらと極彩色の欠片が零れる。魔術を込めた宝石が砕けたのだった。
途端、ユートに群がっていた数十体のゾンビはたちまち形を崩し、ただの泥となってその場に残った。男の目が丸くなる。だがユートの激情を見てとると、くつくつと喉の奥で笑った。
「これはこれは、何かあなたの気に障るようなことを―――」
男の言葉は、続かなかった。
おもりでしかない剣を放り、ユートは男めがけて俊敏に駆けた。その様は無駄のないしなやかな獣のようで、女王も思わず息をのんだ。
ユートに襲いかかられ、咄嗟に受け身を取ることもできなかったハンターは、背を床にしたたかに打ちつける。かは、とその口から息がもれた。
まるで何かに憑かれたかのように、呼吸のひとつ眼差しのひとつ、何ひとつ揺らがないユートからは、何を思うのか読みとれない。ハンターは初めて戦慄した。
ユートは静かに手刀を構える。その先には、ヴァンパイア唯一にして最大の急所である心臓があった。
獣のうなり声のように、嫌に落ち着き払った言葉が紡がれる。
「エミリア=オールドカースルは、真に貴様を想っていたのだろう。だから眷属となり、わざと我に捕らわれた。愛した貴様のために、命さえ惜しまなかった」
「……ええ、そうでしょう。だってそれが、私の描いた最高のシナリオなのですから」
「何とも、思わないのか」
「何とも思わないのか?」男は繰り返し、皮肉げに唇を歪めた。それは、慟哭を堪える表情のようにも、ユートには見えた。
「その問いは、そっくりそのままお返ししましょう。数多の人間を食らってのうのうと生き続ける―――血も涙もない漆黒の女王に! あなた様は本当に、お父様によく似ていらっしゃる! その残忍さ、無情さ! お前にとって人間は餌だ、エミリアなどと言われても、家畜に名などあるまい!」
叫び、男は滅茶苦茶に暴れだした。男より遥かに華奢なユートの身体は、軽々と投げ飛ばされてしまった。立ち上がった男の血走った眼が、女王を強く睨み上げる。
いつ取り出したものか、その右の指は、再び魔石を挟み持っていた。すぐに体勢を立て直したユートが、懐からもう一本ナイフを取り出す。だが、手の動作でそれを制止したのは、女王だった。
女王は脳の内を視るように静かに目を閉じ、口を開いた。
「カルメーロ=パッラ……ゾフィー=ボプツィーン……ヴコール=マスロフスキー……メルチェーデ=ヴァネッリ……タンクレド=ドルチェ……イネス=ロハス……モニカ=ラツコヴァー……」
眉を寄せ、霞がかった記憶を手繰りながら、粛々と名前を続けていく。それは女王が糧として食らってきた、人間たちの名前だった。一人の欠けもなく。年齢も性別も故郷も違う彼らの総数は、人間より知性の高いヴァンパイアの脳と言えど、覚え切れるようなものではなかった。
毎夜、毎夜、亡霊のように墓地を彷徨っていた女王。呟いていたのはきっと、自分を生かすために犠牲になってしまった人間たちの名と、贖罪と、冥福の祈りだったのだ―――ユートは男と共に、ただ茫然と、女王の暗唱を聴いた。
「……カトンカ=カトンナ。そして……エミリア=オールドカースル」
最後の名が語られた途端、ほろりと、男の眼から涙が零れ落ちた。
「……わたくしは、わたくし一人の命をつなぐためだけに、数多の罪なき命を犠牲にしてきたわ。この罪業は、この輪廻の果てまでも背負ってゆきましょう」
男は滂沱と涙を流しながら、自身の両手を見つめた。抱きしめるものを喪い、復讐の刃しか持たない、両手を。
「……だから」男は呟く。だが女王までその言葉は届かず、女王はよく聞こうと玉座から立ち上がる。
「だから何だ! 私のエミリアは、もう帰っては来ない―――!」
叫びながら、男は女王へと駆けだす。ユートも即座に反応して駆けるが、間に合わない。男の右手から、魔石が放られる。それは女王の斜め上の中空で、カッと光を放った。
「女王―――!」悲鳴のように叫ぶユートを見て、女王はゆったりと微笑んだ。
「―――ごめんなさいね」
***
階の上から、身体が落ちる。
ドスン、と玩具のように床に投げ出されたのは―――男の方だった。
ぱら、ぱら、と魔石の破片が、輝きを残しながら広間に降り注ぐ。何が起きたのか、男は俄かには理解できなかった。
「ごめんなさいね」と女王は同じ言葉を繰り返した。
「近頃はそこのユートが、結界結界と口うるさいのよ。まるで姑ね」
ふふ、と笑みながら、女王はゆっくりと階を下りていく。そのドレスは穢れひとつ許さぬ純白を保ったままだった。
ユートは安堵のため息をついた。女王は玉座を結界で守り、その結界が男の魔術を跳ね返したのだった。
倒れた男は起き上がろうと身体に力を込めるが、微塵も、自らの意思で身体を動かすことができなかった。瞬くことさえできないまま、眼は真っすぐ歩み寄る女王に固定される。
「わたくしは王よ、誰にも裁かれはしない。この罪、この愛、この命。すべてがすべて、わたくしのもの」
いつしか女王の手には、朽ちた杭が握られていた。仰向く男の傍らに立ち、それを高く振り上げる。
「望郷にて、あなたとエミリアの魂が再び巡り逢わんことを―――」
男は驚愕に目を見開くと、次いで微笑み、静かに、目を閉じた。
そして杭は穿たれる。
***
さらさら、と、男の身体が灰となって崩れていくのを、ユートは眺めていた。
純血でない、人間の血の混ざったハーフヴァンパイアは、こうして骸を遺すこともなく消えて逝くのである。
「……あなたは、何も悪くありません」
女王は振り返り、そこに立つユートを見た。床にはもう、杭しか残っていない。
「我が、あなたに生きていてほしいと願ったから、人間を運んできたんです。この罪はすべて、我のものだ」
深海の瞳に真っすぐ見据えられ、紅蓮の瞳が、柔らかく和む。
ユートが息をのむほど美しい微笑みは、けれど、ゆうらりと傾いだ。
遅れる金糸の髪が、一本一本、十六夜の月明かりに輝く。
透けるように白い腕と、同じく白い、ふわりと広がるドレスの裾。
真紅の絨毯の上。
まるで人形のように。
夢のように美しい。
女王が、横たわった。
「……じょ、お、う……?」
目の前の光景を頭で理解するより先に、ユートの膝が震え、その場に崩れ落ちる。それでも這って、女王の傍へ行った。
女王は微笑みを深め、乞うようにユートに向けて手を伸ばした。ユートはさらうようにその手を取り、強く、強く握りしめる。
「とても、あたたかいわ、ユート……あの時と、まるで同じ」
「あの時……?」
「初めてあなたと出会って、ここまで連れてきた時のことよ。わたくしの手は冷たいから、あなたの手があまりにもあたたかくて、ふふ、驚いたのよ」
ふふふ、と女王は忍び笑いをして、ごほ、とせき込んだ。
ぱっと、純白のドレスに、鮮烈な赤色が散りばめられる。
「女王!?」ユートは女王を抱きかかえ、その顔を覗き込んだ。女王の身体は、ぞっとするほどほっそりとしていた。
「なぜ……なぜですか!? なぜ、こんな……!」
「なぜ……それはとても難しい問いね、ユート。なぜ、生きとし生けるものには、すべからく、死が訪れるのかしらね。望郷で、神様にでも会えたら聞いておいてあげるわ……」
「そんなこと知りたくありません!」
慟哭するユートの涙が、女王の頬に落ちて流れてゆく。
まるで女王の涙のようだったが、女王は、どこまでも優しく微笑んでいた。細い指がそっと伸びて、ユートの頬に触れる。
「嫌です、嫌です女王。あなたは生きるんです。死になどしない。まだ、まだ若いじゃないですか。生きられる。我と、この先も、ずっと、まだ……」
女王は何も答えない。疲れたような吐息だけが、そっと、唇の合間から抜け出た。
ユートは女王の手を、骨の軋む音の聞こえるほど、強く強く握りしめた。
「―――我を置いて逝くな、プリムラ! これはヴァンパイアの祖家・ヴァルプルギス家当主の命令なるぞ!」
魂からの咆哮に、プリムラの睫毛が震える。もう、目を開き続けているのも辛い。
「……あなたは、昔から無欲で、わたくしよりずっと年下の子供の癖に、わがまま一つ言ったことがなかったわね。だから、わたくしはね、いつかあなたがわがままを言ってくれることがあったら、それは何が何でも、叶えてあげようと心に決めていたの」
「なら……!」
「でもね……ごめんなさい。その願いだけは、叶えてあげられないわ」
ユートの瞳が絶望に染まる。女王の眼から少しずつ、少しずつ、色彩が喪われてゆく。ユートは声もなく、呻くように泣いた。
もはや呼吸の仕方さえ忘れたが、女王は、言葉を続ける。
「……ごめんなさい、ユート。あなたの、最初で最後の願いを、叶えてあげられなくて。あなたを、独りに、してしまう……ねえ、わたくしを、恨む……?」
ユートはふるふると首を振った。そんなこと、有り得るはずもなかった。
「そう、良かったわ……」と女王は心の底から嬉しそうに、微笑む。
「女王」
「うん? なにかしら、ユート」
「あなたのために、今、我にできることはなんですか?」
そうねぇ……と女王はゆっくり、緩慢に瞬いた。一瞬、そのまま開かなくなるのではと思い、ユートの身体が竦んだ。
「じゃあ、おとぎ話をきかせて頂戴」
「……おとぎ話?」
ええ、と女王はユートの頬の、涙の跡をなぞる。
「偏屈で可愛くない少年と、世界で一番美しい女王の、おとぎ話よ」
ユートは目を丸くして、「誰が偏屈ですか」と笑った。女王も笑み返した。
それから、ユートは静かに語りはじめた。ユートの手を握り返しながら、女王はゆったりとその声に聴き入った。
塔に囚われていた少年を、ある日、ラプンツェルのように美しい女王が迎えに来る―――そんなはじまりをする、世界でたった二人だけが知る、幸せなおとぎ話を。
***
「―――そうして少年は、大好きだった女王の思い出を胸に、いつまでも幸せに生きていくのです」
おしまい。
おとぎ話を終えたユートは、腕のなかの女王を見る。
その瞼は下ろされ、けぶる金の睫毛が長い影を頬に落としていた。
「寝て、しまいましたか……」
しょうがない人ですね、本当に。とユートは泣き笑って、女王をそっと胸に抱き寄せた。
女王の身体は氷のように冷たく、そして、恐ろしいほど軽かった。
―――それが、魂の失われた軽さである。
ふと、死してもなお白皙の美貌が、眩い明かりに照らされる。玉座の向こうの窓を見れば、向こうの山間から朝日が昇ってきていた。
「ああ……女王、ほら、夜明けですよ。あなたは「夜更かし」をすることもしなかったから、きっと、そんなに見たことがなかったでしょうね……」
網膜を越え、脳髄まで焼き焦がすような赤光が、あらゆるものに目覚めを促す。
ひとつの時代の終わりを、そして、新たな時代の幕開けを告げていた。
「……愉快な思い出でもないから、今まで誰にも言ったことはありませんでしたけどね、女王。実は我の生まれたのは、四月三十日、ヴァルプルギスの夜―――つまり、昨日だったんですよ」
ヴァルプルギスの夜が、明ける。
ヴァンパイアの郷において永きに渡って続いたコニカ王家の治世が、プリムラ女王もろとも、郷の命もろとも、終焉を迎えた。
この百回目の誕生日のことを、ユートは生涯に渡って忘れることはなかった。
明らかに七章だけボリュームがおかしいのは仕様です。