5.Falsehood 偽装
東の空がおぼろに白み、しばらく待つとその白はすべてを埋め尽くした。
暁の頃。人間にとっては、眠りから目覚めそれぞれの活動を始める刻。ヴァンパイアにとっては、まだまだ寝入り端の頃である。
だが我は「仮眠とも呼べないわよそれじゃ」と女王に笑われた僅かな睡眠から、もう目覚めていた。不死の身体というのは、睡眠もほぼ必要としないのである。
陽の光を好まないヴァンパイアの棲み処らしく、この王城にはあまり窓がない。おかげで朝も夜も変わらず暗い。我は自分の寝室から、女王の広間へと向かった。
まず我を迎えたのは、朱く鋭利な陽射しだった。玉座以外何もない広い空間を、薄汚れた高い天井を、あまねく刻銘に照らしつける。
網膜が焼けただれはしないかと、いつも思う。不死とは言え、陽射しが嫌いなのは他のヴァンパイアと同様である。
玉座に女王の姿はない。左方の壁にひとつだけついている、木目調の扉。近づいてこんこんと、軽く叩いた。念のために。
だが予想通り、中からは返事どころか物音ひとつしない。我は気にせず、無造作に扉を開いた。
「…………」
我は思わず絶句し、扉を開けた体勢のまま凝固してしまった。というか、そうならざるを得ない光景がそこにはあった。
玉座の間に隣接する部屋。すなわちここは、女王の寝室である。
はたして、我の女王は室内でゆっくりと……ゆっくりと? 眠りについていた。ただし、その姿勢があまりにも常軌を逸していた。
そもそも女王は、部屋の中央に据えられた、豪奢な天蓋にまもられた広いベッド……に、寝ていなかった。そこに乗せられていたはずの枕は我の足元、つまりは扉付近まで飛んできており、シーツ類はぐしゃぐしゃと丸められて、同じく床に打ち捨てられていた。
で、当の女王も、床で寝ていた。……寝て、いるのだろうか、あれは。少なくとも我はあの体勢では絶対に眠れない。いや、この世で女王の他に誰があの体勢で眠れるというのか。我には分からぬ。
女王は仰向けで両手足だけを床につけ、その身体は弓なりに天井へと反っていた。当時の我にはふさわしい表現が見つからなかったが、後に的確な表現を知った。いわゆるブリッジの体勢なのである。
上下逆に女王の顔があり、その瞳はなぜか驚愕しているかのように見開かれて、我を見ている。……見ている? だがその瞳が瞬くことも、動くこともないあたり、やはり眠っているのだろうか。
それから唇はなぜか、美しい微笑の形を取っていた。
目を見開き、頬笑み、ブリッジで眠る―――我は額をおさえた。ため息が出る。ここまで来ると、寝相が悪いだとか、そんな次元で語っていい話ではない。
「……女王。目を開いて寝たら眼球が乾きますし、その体勢は脊椎にも大変よろしくないかと。というか…………気持ち悪い」
最後にぽろっと本音が出てしまう我である。
途端、虚ろだった女王の瞳に鮮やかな色が蘇り、
「なんですって!? ユート! わたくしが気持ち悪いですって!?」
どうやら覚醒したらしい女王は身体を立ち上がらせる……ことはなく、なぜかブリッジの体勢のまま、両手両足をさかさかと動かして、我に詰め寄ってきた!
まるで物陰に潜む、あの黒い害虫のような動きである。我は思わず三歩後退した。
「この、ヴァンパイア史上最高の美貌と謳われたわたくしを! 言うに事欠いて気持ち悪い!? 良いかしらユート、わたくしをそのように侮辱した罪は重いわよ! 判事が存命だったなら今すぐ判決を下させるところだわ! けれど今ならばまだ、釈明の言葉をまくしたててしまうことも、まあ許しましょう! さあ、わたくしくを納得させられるだけの釈明があるというのなら述べてみなさ―――」
「どんなに優れた美貌の人だって、そんな得体の知れない新種生物のような体勢でいたら気持ち悪いですよ」
「そうよねー」
はっはっはと女王は笑い、脚の力だけで上手く上体を起こして立ち上がった。そうすると、まだ我より頭半分ほど女王の方が背丈が高い。若干、悔しい気がする。
女王は我の心を読んだように、誇らしげに白いネグリジェの胸を張った。豊かな膨らみが強調されすぎて、我は面食らった。
「ともかく、わたくしの幸福に満ちた眠りを妨げるとは良い度胸ね、ユート。何の用かしら?」
え。あの奇怪な眠りであなたは幸福に満ちていたんですか……喉元まで出かかったが、咳払いでごまかした。我ながら賢明である。
「ええ、少し下の街に買い物に出かけてきますから、城にきちんと結界を張ってから寝てください、女王」
「えー結界ー? 嫌よぉ。面倒だし、疲れるし、怠いし、面倒だし、眠いし」
「面倒が二回入ってますよ」
女王は腰に両手をあてて、上体をぐいーっと背後に反らす。バキボキバキバキととんでもない音がする。あんな体勢で寝ているから……。
「じゃあせめて、この部屋にだけでも結界を張ってください」
「……なに、今日はやけに粘るわね、ユート」
腰に手をあてたまま、女王が我の顔を、ひとつの情報も漏らすまいとするように観察する。我は白状するよりなかった。
「―――ヴァンプハンターが、下の街に入ったとの噂です」
凍りついていくように、女王の顔から表情が削げ落ち、赤い瞳が鈍く光る。「そうなの」と何気なく返事をしたその声は低く、暗い。
ヴァンプハンター。我らヴァンパイアを地の果てまでも追い、狩る者。その多くがヴァンパイアと人間とのハーフであり、つまりは同族嫌悪、あるいはヴァンパイアいの世界にも人間の世界にも馴染めない己の存在意義を満たしたいがために、活動している。
かつてこの郷にいたヴァンパイアの中にも、ハンターによって殺された者は多い。
この郷は二つの山のいずれかを越えなければたどり着けないのだが、どちらの山にも、ヴァンパイア血族でなければ迷い込み、いくら歩いても延々とふもとのあたりを彷徨うような魔術が施されている。
だが、ハンターは半分とはいえヴァンパイアの血を引く者。純潔種ほどではないが、人間よりはたどり着き易いのだ。
それでも、郷に人々がいたころなら、魔術に長けた者たちが魔術探知や魔術罠を駆使して、ハンターの侵入をほぼ完璧に防いでいた。だが今は……。
「侵入してきたのならば、迎え討つだけのことだわ」
「しかし女王、あなたは……」
もうヴァンプハンターと戦えるだけの力はない。そう我は続けようとした。けれど、口にすることさえ、恐ろしくてならなかった。それが真実であるがゆえに。
女王は「冗談よ」と口元を緩めた。
「そんな野蛮なことをするくらいなら、おとなしく結界を張るわ―――」
その瞬間、我の身体を不思議な感覚が通り抜けていった。
水でできた剣で胴体を斬られたかのような、何とも言えないむず痒い心地。
魔術の心得のない我には認識できないが、今、女王がこの部屋に結界を張ったのである。つまりこの部屋にはもう、女王の許した者以外は何人たりとも侵入できない。
我はほっと、胸を撫でおろした。
「すぐ帰ってきます」
「ええ、気をつけてね。わたくしはもうひと眠りしているわ」
と言いながら既に、女王は床のシーツを拾い、それに包まってもそもそとベッドに潜り込んでいた。……今度はちゃんとそこで普通に眠っていてくれると良いのだが。
「じゃあ、いってきます」
部屋を後にしたユートの足音が、こつこつと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。女王はその瞬間、シーツの中で、激しくせき込んだ。
べちゃり、と。女王の口からシーツに落ちた。
それは、赤い、肉塊だった。
女王は嗤った。壊れた玩具のように、けたけたと嗤った。低く、地を這うように。
「ねえ、ユート。あなたは知らないのね」
わたくしがもう、魔術師にとっては水を飲むように簡単なはずの結界張りさえ、まともにできなくなっていることを……。
そして、張ったばかりの結界が脆く崩れる。
あるもないはずのぱりん、という音が、女王の耳には聞こえたような気がした。