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ヴァルプルギスの夜明け  作者: 六条
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2.Utopia 望郷

赤錆色の王城には、門に門番もなく、ホールに衛兵もなく、廊下に侍女もなく。少年は誰に会うこともないまま、広く吹き抜けるホールを過ぎ、少し黒ずんだ深紅の絨毯の、長い長い廊下を進んでいく。

城のなかは外からの闇に支配されていて、灯りはひとつもない。そもそも、普通なら廊下の壁に点在しているはずの燭台さえ、はじめから無い。

それでも少年は、手燭を持っているのと変わらないような迷いない足取りで、格調高い細工に飾られた扉の前を、幾枚も通り過ぎる。

やがて、廊下の突き当たりまできた。この城で最も大きな扉が、少年の前にぴたりと閉ざされていた。少年の細腕では開けられるかどうか、という重厚な扉。しかも少年は肩の荷をおさえるので片手がふさがっている。

少年は声を張り上げた。

「女王、ただいま戻りました」

ひと呼吸ほどの間を置いて、鈍重な扉が、きしむ音を立てながら向こう側に開いていく。扉を引いている召使はいない。ひとりでに開いた扉の先で、まず、蒼く柔らかな月明かりが少年を迎え入れた。舞踏会をひらけるほどに広々とした空間を、巨人の棲み処のように遥か高い天井を、あまねくほのかに浮かび上がらせる。

奥の壁は一面に窓で、その上のほうに、はめ込まれたように大きな月が浮かんでいた。不思議と、通りで感じたような禍々しさはなく、ただ静謐にその月は少年を見下ろしていた。

そして月下に据えられた玉座。

そこには少年の主が、ゆったりと肘をついて腰かけていた。

赤銅色のドレス、流れる金雨の髪、カメリアの瞳。時の止まるほど、魂の抜かれるほど、非情なまでに美しい女王だった。ただひとつ、その美貌が不愉快そうにしかめられていることだけが、難点だった。

少年はそんな女王の表情には気づかないそぶりで、玉座へと至る階の手前まで歩む。部屋の扉はまた、ひとりでに閉じた。

雄弁に不満を語る女王の眼は、少年の肩の荷に向けられていた。少年は、よっこいせ、とその荷を両腕に抱えなおし、貴族のように優雅な挙措でその場に膝をつく。そしてその荷を、恭しく女王にかかげた。

「どうぞ、本日の晩餐です。女王」


麻袋に詰め込まれていた荷。

山道を引きずられてきた荷。

女王の、唯一の晩餐。


それは、若い人間の女性だった。


脱力した四肢がだらりと垂れ下がって、目も閉ざされているが、その胸は規則的に上下しているのを女王は認識した。まだ生きていた。生きている。

「暴れて断末魔をあげるのが嫌だということでしたので、今日は仮死状態にしてきました。殺す寸前、かろうじて生命活動はしている、程度なので、食事の最中も目を醒ますことはないでしょう」

「……どうやって」

女王は聞いた。方法などどうでもよかった。ただただ、目の前の「食事」から意識をそむけていたかった。

少年はひとまず「晩餐」を床に置いて、懐から茶褐色の小瓶を取り出した。軽く振ると、中でたぷん、と液体が揺れた。

「麻酔とかいうものだそうで。普通は暴れる獣を鎮めるために用いるそうですよ。人間はいろいろ作りますね」

「……それは、下の街で?」

「ええ、たまたま知り合った、猟師をしている人間に。動物を生け捕りにしたいのだと相談したら、少し分けてやろうと」

動物。女王は口の中で小さく繰り返した。豚が草を食むように、人間がその豚を食むように、自分たちは……。眼下に転がされた「晩餐」を見る。血の通った新鮮な肉。上質な若い娘の……。女王の喉が静かに上下した。

「おいしそうでしょう?」

満足げに微笑み、少年は再度、「晩餐」を両腕に抱えあげた。女王の身体が「晩餐」を欲して玉座から乗り出される。けれどそんな自分を律するように、女王は玉座に深く掛け直し、肘置きで固く手を握り締めた。赤い瞳を、けぶる金糸のまつ毛の内に伏せた。

「……いらないわ、下げてちょうだい」

その声は震え、少し上ずった。痩せ我慢なのは明白だった。

少年の眉根が険しく寄る。彼は「晩餐」をたずさえたまま、階をのぼりはじめた。

「や、やめなさいユート。下げなさいと言っているでしょう?」

制止する女王に構わず、ユートと呼ばれた少年はとうとう階の最上、玉座の眼前にまで至った。「晩餐」が、仮死の若い娘が、その花のような甘やかな体臭が分かるほど女王の近くにあった。

女王の瞳が揺れる。わななくように薄く開いた唇の向こうに、左右二本の、白磁の乱杭歯が妖しく覗いた。まがい物ではなかった。

少年も口を開いた。彼の上あごの内にも、女王と同じ牙があった。そして彼はそれを、彼を待つようにさらけ出された娘の喉元に、突き立てた。あ、と女王が声をあげた。なお目覚めない娘の代わりのように。

食い破られた皮膚からは真っ赤なしずくがぼろぼろと溢れ、滴り、えも言われぬ芳香を放ち、その魅惑が女王の脳髄を揺さぶった。

あ……あ……と女王が喉奥からかすかに呻く。剥き出しにされた牙の向こうで、喘息のような浅い呼吸がせわしなく往復する。肘置きの拳がほどかれ、幽鬼のように色のない指が、ゆっくりと、ゆっくりと娘の身体に伸びる。

蒼白い月明かりに晒された娘の、血に溺れていくような首筋。けれど女王の指は、そこに触れる寸前に、弾かれたように引っ込められた。両手を握り合わせ、いやだ、と首を振る。

「いやだ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 食べたくないわ、人間なんか! もう食べたくない! 食べたくないのよ! わたくしは違う、違う! あの男とは、父とは、違う! 人間なんか食べない!」

両手で頭をかかえ、女王は叫び続けた。「晩餐」を持ってくるたびに女王が錯乱するのは、もういつものことだった。それでもユートは、悲痛に顔を歪めた。深海色の瞳が、より深く深く、哀惜に沈んでゆく。

「……我のためだとしても、食べませんか」

女王の叫びが、呼吸をつまらせたように止まった。

「我は、あなたに食べてほしい。生きてほしい。長く永く、そこにいてほしい。……独りには、なりたくないから」

もう二度と、とユートは吐息で付け足した。独り。気の触れそうなほど永い、孤高と孤独。名前も要らない世界。

女王の華奢な肩がぴくりと跳ねた。おそるおそる頭を上げる。そこには、泣きだす寸前の幼子のような、ユートの顔があった。実際、ユートは背丈こそ女王に迫ってきたが、年齢は女王よりも遥かに若かった。

知っているわ。と女王はつぶやいた。知っているわ、孤独の味を。

ユートはうなずいて、抱えたままだった「晩餐」を女王の膝の上に乗せた。

女王はゆっくりと、眠る娘の顔を見つめた。そっと頬に触れれば、やさしい温もりが女王の冷たい指先をあたためた。揺すれば目覚めそうだった。でももう、二度と、彼女が目覚めることはない。

ごめんなさい。言葉と共に、一粒の涙が落ちた。そしてそれが、女王の最後の理性だった。

女王は、食事を、はじめた。

二本の牙を突き立て、白い顔を金の髪を黒紫のドレスを、何もかもを血しぶきの紅一色に染めながら。ユートはそれに満足して、身を翻して広間を退出していった。淑女の食事風景はまじまじと眺めないのが、紳士のマナーである。


例え淑女の心が、ひそかに慟哭をあげていたとしても。

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