あたしの男
ヒトキとよく似たあたしの男は、ヒトキとは似つかぬくだらない男であった。
ヒトキと別れ、この男とも別れても、あたしは何度もこんなヒトキとよく似た、ヒトキとは似ても似つかぬくだらない男ばかりを選んでは、赤い糸なんかではではなく、ただただ粘膜と粘膜とで繋がった。身体の中にヒトキをイメージして、これも悪くないなんて思った。
妄想のヒトキを置き去りにしたベンチ。飲んだのがコーヒーじゃなく、お酒だったなら、あたしは彼の肩に寄り掛かれたであろうか。
地下鉄を降りたところで、あたしの携帯電話が鳴る。ヒトキモドキ三号からの着信。「はい」『あ、オレオレ』「おれおれ詐欺は間に合ってるよ」『腹減ったから行ってもい?』「あたしはあんたの母親か」
年下でフリーターの昔のヒトキによく似たヒトキモドキ。あたしは自宅に戻り素早く着替える。
暫くすると彼はインターホンも使わずあたしんちの合鍵を使って勝手に入ってくる。
「今なんか作るから、適当に座っててよ」
「あ、手伝うよ。何すればいい?」
ヒトキみたいな三角の大きな瞳を輝かせ、子犬みたいな愛らしい表情であたしを見るヒトキモドキ。
「何もしなくていいよ」
あたしはくしゃくしゃと彼の頭を撫でる。そうすると彼のヒトキとは違う細い手は、あたしの肩を引き寄せた。
「ちょ、何すんだよ。やめてって。ご飯作らなきゃ」
やめてやめてと、言いつつも無抵抗なあたし。二年四組の仲間や、部活仲間が見たら笑ってしまうに違いない。自分でも笑ってしまう。
ブラウスを乱暴に脱がされ、リビングのソファーに押し倒されたあたし。シャワーも浴びてないのに、筋肉が衰え痩せすぎなあたしの脇腹にモドキはキスをする。なすがままに委ねると、彼は掌を返したように酷く優しく、あたしの服を丁寧に丁寧に脱がし、皺にならないように折りたたみ、彼も身体を折りたたむ。あたしは彼の顔を両手で包みこみ、キスをする。ヒトキ、ヒトキ、ねぇヒトキ。
あたしの男は腹減ったなんて言っていたくせに、やることやると、そそくさと帰っていった。あたしは二人で食べるはずだったパスタを一人分茹で、母親秘伝のあんかけソースを掛けテレビと一緒に夕食を食べる。酷い男ではあるがお互い様なので仕方が無い。あたしはぼけっと流れるテレビ番組に耳を傾ける。
『お前のあんかけソース美味いよな』
「もう出てこないでっていったでしょ」
テレビの中からの問いに応じるあたし。
『お前は自分の妄想だと思っているかもしれないけれど、実は幽霊なのかもしれないぜ』
「さいってー。じゃああたしはあんたに取り憑かれているってわけだ」
そう。彼はアメリカに渡って、そして死んだのだ。事故死とも自殺とも言われている。当時の新聞に小さく小さく記事が載ったのを覚えている。
「もうたくさんだよ。振り回さないでよ」
あたしは食べるのをやめて、机に突っ伏し泣いた。
『あのさ、グローブまだある? キャッチボールやらね?』
ひょいっと、ヒトキはいとも容易くテレビから這い出て、泣くあたしに手を差し伸べた。あたしの記憶のヒトキはこんなにも優しい。
腐ってもあたしはソフトボール選手で、さらにはちゃぶ台をひっくり返すほどの野球狂を父に持つサラブレッドだ。引っ越したとはいえ、グローブとボールくらいは持っている。
それを持ってフラフラと部屋を出たのは、深夜のことである。
「あれ? 星が見える」
なぜだか空気が澄んでて、見えなかったはずの星降る夜空が鮮明に頭上に広がっていた。止め処なく漏れる白い息。背筋を伸ばすような冷たい空気はあたしの頭の中を引き締める。
『ユキ、お前の前に出てくるの、最後にするからさ』
「そうしてくれるとありがたい。夢にみるんだよ、最近。あの頃のことをさ」
『最恐魔王ユッキーのか?』
「ばか」
無駄口を叩くのは楽しい。本当にこれで最後でいいのか? いや、いいのだ。
夜中過ぎて車通りは無い。あたしとヒトキは街灯の明るい道路のしたで、立ち止まり軽くストレッチをする。
『なあ、結局のところなんで俺は振られたんだ?』
そう言いながら軽く振りかぶって彼が投げる球があたしのグローブにずしんと収まる。
「うーん。あんたの都合に振り回されてばっかだったから、振り回したかったのかな。あとさ、浮気してたから罪悪感ってやつ?」
あたしの投げる球は思わぬ方向へ飛んでいく。身体が鈍っていたのだ。仕方のないことであろう。それでも彼はプロの捕手。それを決して後ろに反らすことはない。
『そんなこと、最後まで打ち明けるなよ。あーあー、傷つきました』
なんて言う彼が放る球は、さっきよりもスピードに乗っていた。パシリとなんとかキャッチ。
「痛いよ」
『わりーわりー。ソフトの球って慣れなくてさ』
そう言いながら彼はしゃがみキャッチャーミットを構える。
「全力投球でいくよー。覚悟してー」
『外角低めなー』
いや、誰からみて外角なのか……どうでもいいか。
ツーアウト、ランナーは一三塁、相手チームからすれば、一打逆転のチャンス。
あたきはここぞという時の決め球の握りをグラブの中で作る。
大きく振りかぶって投げた。
そこでヒトキは消えちまって、あたしの投げた大暴投は夜の街に消えた。
「さよなら。ヒトキ」
その後、春が来る前にあたしは会社に辞表をだし、ずるずる続けてきたモドキとも縁を切った。
大きな荷物を持って新幹線で実家に向かうあたし。
どうもメグが結婚するらしい。結婚式の招待状が届いたのだ。こうしてはいられない。花嫁を奪いにいかねば。タナベメグミになんてさせるものか。
今のあたしが番長の中の番長に勝てるであろうか。
少し前にした長距離電話でメグが言っていた。
「結局人間は何かに縛られていないと、生きていけないの。だからユキは今でもヒトキに縛られているんだと思う。ユキはヒトキを上手く手に入れられなかった。無いもの強請りだね。本質はあれだよ。よく言ってたでしょ。計画は立てるまでが楽しいって」
水面に浮かぶ微かな光さえ、掴もうとした手には何も残らなかった。
雑誌を読みながら新幹線の中で飲むブラックの缶コーヒーは、少しだけほろ苦く、それはあたしにとって東京の味だった。
結婚式の他にもやることは山積みである。まず子供を産まなくてはならない。あたしのお腹にはモドキとの子がいる。野球狂の父を喜ばせる為、是非とも男の子が良い。
これが会社を辞めた一番の理由。実家に帰る一番の理由。あの将来の無い男と別れた一番の理由。願わくば立派なキャッチャーになるといいな。
あとはそうだなー。ついでにお墓参りでもいってやるか。この子にも挨拶させなくちゃ。
自分の腹をさすりながら、新しい生命との出会いに、あたしの身体は希望に戦慄く。ねえ、ちゃんと聴こえているかな? ダーリン。
終
あ、どーも。もぐらです。
読了あざっした。