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その時、世界はブラックコーヒーに包まれた!

 



☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 てぃりりりっ、てぃりりり、っと携帯電話のアラームが鳴る。なんとかかんとか身体を起こしたあたしは、アラームを止める。遅刻ギリギリの朝八時。あたしはベッドから飛び跳ねる。石橋を叩いて渡るタイプのあたしはアラームを五回に分けているが、まさか最後通告ともいうべき五回目にしてやっと目を覚ますのは珍しい。きっとあんな夢を見た所為だ。


 きっとヒトキの所為だ。


 感傷に浸っている暇もなくトーストを頬張り、歯を磨き、メイクを済ます。玄関から飛び出て地下鉄の駅へ向かう。


 人混みでごった返す改札に一騎当千、三国志の武将の如く群衆に挑む。ホップ、ステップ、ジャンプと行き交う雑兵を躱す。


 おっさんの加齢臭にへこたれながらも、東京メトロに揺られ、職場を目指す。


 あたしは東京の企業に就職した。きっと忘れるくらい遠くに行きたいと願ったのだ。


 社会人になったあたしの仕事はお茶汲みとコピーとセクハラされること。こんな物になる為にあたしは何年も部活で身体を鍛えたのではないし、勉強していい大学に行ったわけでもない。


 残業はごめんだと、定時であがる午後六時。空っ風があたしの心を冷やしていく。


 気がつけば真横を通り抜ける師走と呼ばれる十二月。ため息は白い蒸気となり、星も見えない都会の夜空に溶けていく。


 自販機でコーヒーをひとつ買った。あんなにも甘いものが好きだったあたしからは、考えられないブラックコーヒー。


 西口公園のベンチに座り、行き交う車のテールランプを目で追う。ポケットに入れた缶コーヒーの熱があたしの孤独な心を温める。


『社会って厳しいものだよな。なんかさ、クラス内戦争(シヴィルウォー)の時、女子に囲まれてユキに全裸にさせられたのが懐かしいよ』


 と、ベンチのあたしの隣に座るヒトキ。


「お前さ、あたしの妄想のくせにあたしの覚えていない過去の話するのやめろよ」


 缶コーヒーを開けずにあたしは言う。


『いやいや、世界で一番俺のことわかってくれるのはユキだって』

「バッテリーだものな。サインなんか無くても顔見りゃ次投げる球わかるよ」

『恋女房ってやつだな。お前が女でよかった』


 大都会の夜はネオンが眩しくて、それに幻惑されたあたしは、空想の中のヒトキをいつも具現化してしまう。今日だってそうだ。


「彼氏できたんだー」

『うわー。ジェラシーだわー。どんなやつ?』

「あんたに似てる。いや、あんたよりイケメンだな」

『そっか。幸せになれよ』


 あたしの妄想の中のヒトキは、あたしに都合がいい。当たり前の話だ。


「だからさ。もう出てこないで」


 あたしは買っていた缶コーヒーを開け啜った。


 その時、世界はブラックコーヒーに包まれた。


 夜の街は暗くて先が見えなかった。夜の街は苦くて空想で創り上げたヒトキの幻は消えてしまう。


 ブラックコーヒーがあたしの血管を駆け巡り、細胞の一つ一つを活性化させ、甘い甘い夢から目を覚まさせる。ヒトキのいない現実が巡る。


 あたしは今日だって平気な顔で、ベンチにヒトキの幻を置いてけぼりにして、地下鉄に乗り込むのだ。


 避難経路のような、網の目の地下街を抜け、地下鉄で家路を辿る。







 ヒトキはその年のドラフト会議にて、めでたくプロ野球選手となった。それもそのはずだ。夏の甲子園で堂々たる結果を残したチームのキャプテンなのだから。


 プロに行った後も絶対的正捕手の座は中々得られなかったものの、一年目から一軍入りしてて、それなりに期待もされていた。


 この頃あたしたちは付き合っていた。あたしは大学生。彼はプロ野球選手。マメな彼は休みのたびにあたしに会いに来てくれた。


 好きなのかと訊かれたら、あたしには解らなかった。あたしにとっては、初めての彼氏だ。魔王と恐れられてたあたしは恋愛などしたことがないのだ。


 彼は忙しくて、あたしも大学という新しい社会に追われていた。それでも、彼は暇を見つけては会いに来てくれた。


「別れよっか」


 こんなあたしに、もしも赤い糸なんてメルヘンチックな物があるのなら、きっとヒトキに結びついていたのだと思う。あたしはその時、運命の相手に別れを告げたのだ。


 ヒトキのやつはそう言ったあたしに、半分達観していたような様子で最後のキスをした。生まれてから今までで一番綺麗で、悲しいキスだった。そのたった一分にも満たない時間で、あたしはこの男のことが心から好きなのだと、知った。悲しいことにそれは遅かった。


「寂しい思いさせてごめんな。中々会えなくてごめんな」


 違う。全然違う。ヒトキは精一杯あたしの為に時間を作ってくれた。精一杯あたしのパートナーでいてくれた。


 その時ヒトキは球界を代表する捕手になっていた。あたしはまるで芸能人と付き合っているような感覚だった。


「俺さ。アメリカ行こうと思うんだ。迷ってた。こんなことなら、もっと早くプロポーズして、俺に着いてきてくれって言えば良かった。ま、断られる前提だけどさ」


 三角の大きな瞳を精一杯細くして、彼はあたしに笑ってみせた。優しいヒトキの顔がそこにあった。


 ヒトキは彼氏で、だけれどどこか遠い遠い存在だった。きっとあたしはそのプロポーズは、断っていた。だけれどされないよりも、された方が良いなんて、自分勝手なことを思った。


「お前さ。きっと俺を逃したら、嫁の貰い手なんていないぜ」


 最後に彼はあたしに別れを告げた。あたしにはこの時、既に別の男がいたので、彼の言葉は的外れだと思った。



 


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