ツルゲーネフ
あたしたちが血で血を洗う抗争を繰り広げたクラス内戦争の詳細が遂に黒幕であるタナベの口から明かされた。
いやー、昔からメグのこと好きで、つい意地悪しちゃいましたチヒッ。とのことだ。「オラァ!」当然あたしの鉄拳はタナベの顔面にめり込む。
「魔王。お前相変わらずだな。昔と全然変わらないよ」
違う。変わってしまった。いや変わってしまったのはあたしじゃなく男子たちなのかもしれない。きっと今のあたしじゃこいつに喧嘩で勝てない。中学野球の公式戦にでれなかったあたしは、おんなだからってのを言い訳にしていた。だけれど結局筋力で男子に劣るあたしは実力でも公式戦にはでられなかった。あの強かった魔王はどこにもいない。男子に比べれば何ともか弱いあたしの身体。
「いや、か弱くねーから」
可笑しい。また口に出ていたか。
「でもちょっと女らしくなっただろ?」
「いや、サラシ取ってから言えよ」
「そんなのしてねーよ。やんのかオラァ。掛かってこいよ」
掴みかかろうとするあたしを止めるメグ。「はいはい。私の彼氏ともいちゃいちゃ禁止」と冷静に述べる。
ひゅるるるーと火の玉が連続して宙に舞い連続して弾け、その音があたしたちの声をかき消す。適度にチープでノスタルジックなその音が鼓膜に優しい。
連続する花びらは空を舞い、ひらひらと暗くなった夜の街に散っていく。あんな風に空を舞ってみたいと思った。
「綺麗だねぇ」
浴衣姿のメグはその風景に溶け込み、何だか別世界の何かに見えた。
今日昔の仲間たちに会ったことで、あたしのちっぽけな挫折は花火と一緒に、大空に舞い夜の街に溶けていく。
「なあ、ユキ。俺さ」
視線は空に向けたままヒトキが少しずつ言葉を紡ぐ。なんとも言いにくそうに。なんとも誇らしそうに。
「プロになろうと思うんだー」
彼がどこの高校にいったかは、辛うじて覚えている。今年の我が県の甲子園出場校だ。もちろん彼がレギュラーなのかは知らないが恐らくキャッチャーをやっているのであろう。
チームが負けそうな時、いつだってマイペースな彼の笑顔が逆転の鍵になっていたほどのムードメイカーだった気がする。リトルリーグ時代、調子の波が激しいエースのあたしを、彼がいつもノセてくれていたのだと思う。
「あんたそんなに打てたっけ?」
「県大会で三本の本塁打。打率は辛うじて三割超え」
「じゃ、全国の結果次第ってとこだね」
全国で活躍すればドラフト会議に上位指名されることも夢ではない。もちろんここからは格下とやる機会もなければ、一回戦で消える可能性さえあるので、一筋縄にはいかないと思うのだが。
「それでさ」
「ん?」
「大会終わったらさ」
「うん」
「俺たち付き合わね?」
「はっ? なんで。やだよ。あたし今日まであんたの存在、ちょっと忘れてたんだよ」
言葉とは裏腹になんともくすぐったくて、全然悪い気持ちなどしなかった。恋愛などしたことがないのだ。こんな風に告白されたことなどなかったのだ。愛されることに馴れてなかったのだ。
こんなにも頭がぽわーんとして、気恥ずかしく、そして幸せになれるなんて思ってもみなかった。世の女子たちよ。ゴメンよ。オツムとお股が緩いとか言って。本当にゴメンよ。女子力と常識力は反比例するとか言って。
「そうだよな。悪い。忘れてくれ。やっぱ俺とお前らしくないよな」
さも残念そうに俯くヒトキ。はあ? おいおい、諦めるの早すぎね? もうちょっと頑張れよ。自分で言うのもなんだけれど、あたし簡単だよ。もう一押しだよ。これだから草食系男子は。
仕方がないからあたしは花火観るふりして、こっそり誰にもバレないように、ヒトキと手を繋いだ。
ここから先はヒトキにもあたしにも、どうしていいのか解らなかったけれども、握り返してきたヒトキの豆だらけのごつごつした掌から、『すき』が出ている気がして、凄く恥ずかしくて顔も見れなかった。
この時、世界はなんだか甘い物に包まれた。
恋とは甘い甘い物なのだと知った。いやこんなものは本当の恋なんて物ではなかったのかもしれない。自分がただただモテて嬉しかったのだと思う。あたしなんて誰も見向きもしないなんて思っていたから、浮かれてしまったのだと思う。今思えばヒトキは昔から優しくて、あたしのことを見てて、あたしに会いたがってくれて、あたしを好きでいてくれたに過ぎない。
あたしが彼のことを好きだったことなど一度もない。会いたいなど思ったことなど一度だってない。きっとこの後の急展開などないのであろう。あたしは今しがたヒトキを袖にしたのだ。振ったのだ。
それでも見上げる花火はいつになく色鮮やかで、繋いだ手からはジンジンとあたしの心臓に振動が押し寄せてくるのだ。いつから世界の夜はこんなにも綺麗になったのであろうか。
ツルゲーネフとは初恋の作者の名前です。