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第一歩

 僕はときどき思う。このガラスばかりの、透明で見通しのよい、すべてがクリーンな世界は、なんて窮屈なんだろう。



 新人類の主食は「生き血」と「馬の目玉」――もちろん、これは比喩表現だ。実際に口にしているのは大豆でできた塊――だ。僕はきっと帰化した人類で、新人類ではないから、そうしたものが口に合わない。

 とにかく、新人類という人種の支配する世界では、毎日が多忙をきわめ、いつもどこかで人が救急搬送されていく、生き馬の目を抜くような社会なのだ。他人の生き血をすすり、成り上がってくる者も多い。

 外の世界で重要なのは、いかに成功するか。人生の勝者はイコールで正しい者と認識される。勝ち上がった者だけが、正義を語ることを許される。

 新人類の一生とは。彼らは若い時には多少なりと遊び、勉強に励み、大人になると働くことと結婚することだけを考えるようになる。新人類は丈夫な種族ではないので、しっかりと子孫を残すことは本能の部分で考えているようだ。

 そうして子どもができて、その子が二〇代後半に差しかかる頃には、新人類の寿命がくる。僕は三〇近い。だからきっと、父も母ももう生きてはいないだろう。

 そういえば、子どもができなかった新人類は、子孫が残せない代わりに長生きすると聞いたことがある。僕は病気の体で長らえるなんて考えられない苦痛だけど、もしマルシアが僕を待ち続けてくれるなら、彼女はきっと長生きするだろう。

 僕は、人生でたいした成功もないまま、病気になり、子孫すら残せずに病室に閉じこもっている。5392号室の囚人、最低のクズ。社会のゴミだ。

 僕が旧人類だというのなら、さっさと殺してくれればいいのに。滅ぼしてくれればいいのに。

 僕は、こんなにも楽になりたいのに。



 きらびやかなネオンに彩られた夜中に、5392号室の患者は目を覚ました。


 僕は、ある唐突な思いつきをどうしても実行しなければならないと考えた。まったくどうして、そんなことを考えついたのかわからないけれど、とにかく、家に帰らなければいけなかった。そう、家に帰るのだ。先生はきっと許してくれないだろうが、そんなことは関係ない。僕が家に帰るのは、いわば必然だった。何もおかしいことじゃない。

 先生、僕は長らくここでお世話になりましたが、とうとう、家へ帰る決心がつきました。その時が来たんです。

 そいで家へ帰って、僕は洗濯物でもたたんでいよう。いや、きっとたたまなくっちゃいけない。毎朝、手伝いのマーサがモップがけをするあのウッドデッキに立って、風に吹かれながらシーツを取りこまなくっちゃ。かごいっぱいの洗濯物を、一階から二階まで、それぞれの部屋へ運ぶんだ。父さんのコーヒーに気をつけて……

 ああ、帰ったら両親は何と言うかな? よくきたね、とは言わないだろう。きっと何も言わない。感極まって嗚咽をもらし、言葉にならないか、招かれざる客の来訪に呆れ、憤って閉口してしまうか、そのどちらかだろう。


 患者は興奮気味に大きな窓の前を行ったりきたりして、ふとその足を止めた。


 ああ、だけど、もうとっくに父さんも母さんも亡くなったのじゃなかったっけ。僕は知らないけれど、僕がもう三〇にもなるんだから、きっと生きているはずがない。父さんと母さんとは、死んでいくとき、ちょっとでも僕のことを思ってくれたのだろうか。ほんの少しのあいだでも、僕はふたりの走馬灯に顔を出したんだろうか。

 お墓は、どこにあるんだろうか。僕が入ることができないであろう、ふたりだけのお墓。

 やっぱりマルシアを探すのが先だ。彼女に会おう。会って、今までの年月を埋めるだけの話をしたら、こんどこそ僕はマルシアといっしょに暮らすのだ。

 僕らには、永遠にも思える時間が残されている。



 次の日、患者はさっそく幼馴染へ宛てた手紙をしたためた。


『拝啓 木の葉が色づき、風も涼しくなってきました。

 いかがお過ごしでしょうか?

 僕はすっかり病気も快復にむかっていて、だいぶ気分もよくなりました。

 ついては、そろそろ退院を目標に、外の社会へ出る訓練をしようかと思います。

 もしかすると、面と向かって会う機会があるかも知れません。

 まだ、いつから始めるとも、どこへ出てみようとも、何も決まっていませんから、約束はできませんが。

 見かけたら声を掛け合い、カフェで有機コーヒーでも飲みませんか。

 それでは、ごきげんよう。 敬具』


 僕はかなり興奮していた。興奮というのは、また旧人類的、まったく原始的な感情のぶれだ。冷静沈着が生まれ持っての性質である新人類にしてみれば、興奮するだなんてほめられたものじゃない。

 それでも、僕の場合はいくらか良いほうへ興奮が作用した。血の気が増し、肌の色がよくなり、声もはきはきと力強く、なにより目にはやる気がみなぎっていた。これは間違いなく病気が快方にむかい、健康がこの体へ戻ってくる兆しであると、先生はおおいに評価してくれた。

 つまり、僕の提案が先生により受け入れられ易くなったということだ。

 僕はさっそく、先生に自分の前向きなアイディアを話した。長く社会から隔絶されていた僕が、自ら時代の早瀬へ飛び込み、川底の石たる社会人の諸君らと切磋琢磨しあおうという気合を見せたわけなので、これは大変な進歩と見えるだろう。

「いや、立派ですよ。いまどき健康な若者でさえ、そのような気概を示すひとはわずかだ。あなたは変わった。これは良いことですよ、自分から歩み寄ろうとするその姿勢は、たいへん感心なものですよ」

 僕は「まんまと」太鼓判を押してもらったというわけだ。

 先生に背中をおされ、僕は数十年ぶりに病室の外へ出た。

 まったく、病院の雑多なことといったら! 僕は早々と後悔しはじめていた。透明で清潔な5392号室の空気に慣れすぎていたのだ。あまりにも静かでクリーンな環境に浸っていた時間が長かったので、すこしの喧騒も僕にとっては命取りであった。

 僕はめまぐるしい流れのなかを、先生の白衣だけを頼り、だいぶ古い型の茶色いコートを壁にして、なんとか歩いていた。

 厚みのある時間というやつは、こんなに足早でせっかちなくせに、その中に身を置く人々の体にずっしりとのしかかってくる。看護師になんか、どれだけ時間がまとわりついていることだろう。僕は長らく、時間の流れとは関係のない、遮断された空間にいたので、軽石ていどの人間に成ってしまったらしい。どこまでもどこまでも、川のなかを流されていきそうだ。踏みとどまるには、何かほかの大きな石の陰へでも身を寄せていなければ。

「どうです、病院のなかは格別に騒がしいものですが、これに慣れておけば外へ出て恐いことなんかありませんよ」

「そうですね、そうですね先生。だけどさすがに疲れてしまいそうです」

 僕が息も絶え絶えに訴えると、先生は明るく笑った。

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