硝子の寝室
先生、と弱々しい声がインターホンから漏れた。
「先生、僕は苦しいんです。麻酔がきれたみたいです、ぜんたい、たまらなく苦しいんです」
「いま参ります」
答えたのは婦長だ。
それからすぐ、助手を従え銀色のワゴンを押してきた婦長が、病苦にあえぐ患者のもとへとやってきた。
「さあさあ、点滴をかえましょうね……先生はもうお帰りです。また明日、朝早くに往診にみえますよ」
患者の戸惑うような視線をうけて、婦長は点滴をつけかえる手は動かしながら、そう言った。
それから、患者の細く白い、まるで骨が透けて見えるような腕に触れて、ささやいた。
「夜はね、みんなが苦しいものです。嫌なことなんて忘れておしまいなさい、あなた、眠ってしまえばすぐに朝がきますよ……」
助手は空になった点滴の袋をワゴンに乗せて、ちょっと患者の脈をとってから、青緑色の電子カルテへ何事か書き込んだ。おしまいに、持っているペンを逆さまにして画面の隅に押しつけた。婦長も電子カルテをのぞきこみ、胸元にさしている微静電気導体のペンを逆さにして、画面下の枠に押しつける。電子カルテの枠のなかに、ふたりの名前が転写された。
それから、助手は患者の頭の上へ手をのばして、ネームプレートの色をなおした。それまで赤く光っていた患者の名前は、もとの静かな緑色にもどった。
足元のボックスから新しいグラスコットンの掛布が引き出され、患者の体にやんわりとかけられた。
「おやすみなさい、また明日」
もう僕は、何時間、何日、何年もこうしている。
今日も空は薄曇りではっきりしない。硬化プラスチールの道路を、車がビー玉みたいに走っていく。低反射鏡で囲まれたビルディングでは、あちこちの階で照明がつけられたり、消されたりしている。ステンドグラスを模した街灯はどこでも街中を彩っている。ここからでは、人々の持っている端末のきらびやかなイルミネーションも目立って見える。
そうした人工の明かりだけが、無機質な街を満たしていた。
僕は全面ガラス張りの部屋にただ横たわり、炭酸水の点滴につながれて、いつも浮かない顔をしている。全身は青白く血の気がひけて、腕も足もいやにほっそりとして、頬もずいぶんこけてしまった。
僕は、漠然とした死の恐怖と向かい合っている。目の前の大きなガラス窓に映る自分の姿が、顔が、僕に現実をつきつける。目を背けても無駄だ。軟化ガラスのベッドにも、グラスコットンの厚手のカーテンにも、ガラスの壁にも、僕の姿はうっすらと反射される。
目を逸らすことなどできなかった。
僕はときどき、体の中へ入っているグラスファイバーの管を抜き取ってしまいたくなる。そこらじゅうへ炭酸水をぶちまけて、ひっくり返り、打ちのめされた虫みたいにばたばたもがいて、こと切れる。そんな自分の姿を想像するのだった。
僕はいつでも、逃げ出したいと思っていた。
僕は三〇になる。いや、もうなっただろうか、二、三年は過ぎているのだろうか。はっきりとしない。
僕には、正気である時間も少なかった。
足元のすりガラス越しに、白い制服を着た人々がせわしなく動き回っているのがわかる。生き物のうごめいている感覚を足の下に感じるなんてぞっとするかも知れないが、僕にはもう、それが普通であった。
そのうち、白衣のひとつがカウンターを離れ、ときどき僕のほうを見上げながら――ここには僕しかいないので、気にするとしたら僕のことであろう――エレベーターに乗り込んでいった。
数秒後、まろやかなベルが鳴り、五重にもなったドアが順番に開いていく。分厚い防弾ガラスの開け閉めされる、圧縮された空気のシュウッという音が続いて、だんだんと白衣がこちらへ近づいて来る。
ついに、白衣は僕のいる部屋へと入った。
それから、電子カルテに表示されるマップを頼りに、僕のベッドを目指してくる。
出口から患者のベッドまでは、透過ガラスをとおしてはっきりと見ることができたが、もちろん間にはガラスの壁がいくつもあるわけだ。毎日配置の変わる壁の位置は、ナースステーションの特別なコンピュータによって決められ、配置図は各医療関係者の端末へと転送される。
僕は待ち遠しくなってそわそわしだし、大きな窓の前をいったりきたりする。
「やあ、おはよう」
「ああ、先生、僕はまだ苦しいんです。僕はちっともよくならないんです」
たまらなくなって僕が訴えると、先生はうん、と頷き、メガネをちょっとずらして僕を診た。
「麻酔は強くないかい」
「ええ、これじゃあちょっと効かないくらいですよ。昨日の晩も婦長さんが替えてくれましたけど、ろくに眠れやしないんです」
僕はぼさぼさの頭を掻いたり、なでつけたりしながら、もじもじと答えた。
先生はまた、電子カルテに目を落として、何事か書き込んでいる。それから、うんうんと頷いて、僕の口へ人差し指を入れた。医者のつけている指サックみたいなものは、端末と連動した体温計になっている。
「熱は相変わらず高いみたいだ」
「ええ、ちっとも下がりません」
僕は、昔っからこうじゃなかった。
僕にだって健康な少年時代というものがあったし、その頃はみんなと変わらない生活をしていた。
朝は決まった時間に目が覚めて、夜は自然と眠くなった。昼にはソイバーを三つくらい食べられたし、夕方にはその日出された課題をこなしていた。
夏休み。ああ、あの太陽が薄くやわらかく光っていた夏の思い出! 僕は書籍館へ行っていろんなデータを読んでいた。自由研究のために、とくに百科事典のデータを端末に入れてもらって、ノートパッドにたくさんの知識を書き写していたっけ。
その時だ、マルシアと出会ったのは。
マルシアはやわらかな、光の川みたいな金髪に、かわいらしい大きなリボンをつけていた。サファイアみたいな目をして、きらきらと笑うのだ。
マルシアは勉強熱心な子で、僕たちはすぐに意気投合した。
それからというもの、僕らは外でライトサッカーなどやらず、デジ・テニスを観戦することもなく、書籍館に出かけては様々のデータを読みふけった。
おとぎ話でもいい、辞典でもいい、とうてい理解の及ばない小説でさえ、ふたりにとってはすばらしい夢想の旅の援けとなった。
僕たちが恋人どうしになるのに、そう時間はかからなかった。
だけど、中学の入学式の日のことだ。
僕とマルシアとはおなじ学校を受けて、みごとに合格した。クラスは離れてしまったけれど、入学式のあとには、ふたりで食事に行こうと約束していた。
それで僕は、入学式と校章バッジの授与が終わったあと、意気揚々と液晶掲示板のある広場へと向かった。たぶん、少し急ぎ過ぎていたのかもしれない。僕はそこで倒れた。ちょっと遅れてからやってきたマルシアが、僕を見つけた。
今でも思う。かわいそうなことをしたって。うつぶせに倒れて動かない僕を見つけたとき、マルシアの顔は見えなかったけれど、はっと息をのむ音は聞こえてきた。それから、僕を助け起こそうとして必死になり、体を揺さぶる小さな手の弱々しさ。やっと見えたマルシアの、涙でぬれた顔。
僕がリニア・アンビュランスに乗せられていくとき、マルシアはいつまでも手を離さなかった。マルシアは震えていて、もう立っているのもやっとだったのに、僕の手を握っている彼女の手の強さはしっかりと覚えている……
それからもう幾年が過ぎただろうか。
僕は正気と狂気のあいだを行き来しているうちに、途方もない時間を食いつぶしてしまった。
マルシアは元気でやっている。そして、嬉しくも悲しいことに、今でも僕の帰りを待ってくれている。僕はときどき、マルシアに手紙を出す。そうすると、彼女から懐かしい字で返事がくる。味気ないありふれたフォントなんか使わない、ボードにペンで手書きしたメールを、彼女とは何通もやりとりした。
それだけが僕とマルシアの、そして、僕と外の世界とのつながりだった。
患者の体調をひととおり検査しおわって、医師は点滴の減り具合をみたあと、問診をはじめた。
「それで、夢はどうですか。まだ見ますか」
「はい」
「気持ちが興奮して、落ち着かないことは」
「はい、あります」
「では、食事についてはどうですか」
「まだだめです。どうしても食欲がわかなくって」
「眠気については」
「ええ、ええ、ひどいですよ。一日じゅうだって眠っていたいくらいです。こんなに体がだるいんです」
医師が、また電子カルテに『情緒不安定』という言葉を書き込んだな、ということが、患者にはわかった。
「ねえ、先生」
それから医師の帰り際、またいつものように患者が医師を引き留めて、言葉をつまらせながら訴えた。
「僕ね、僕、ほんとにつらいんですよ。苦しくって、ちっとも休まらないんです。僕の病気は、こいつは、もうずっと良くならないんですか。僕は、僕はね、先生……」
とうとう感極まって泣き出した患者の背中を、医師が同情と愛情をこめて優しくさすった。
「ねえ、あなたと私とは、こんなことは何ですが、もう長い付き合いじゃありませんか。いつだって私を頼ってくれていいんですよ」
幼い迷子に言い聞かせるように、医師はゆっくりと言った。
「なんにも焦ることはないし、不安になることもない。あなたは治るためにここにいる。私たちも、治すためにいっしょになって戦っている。さあ、はやく良くなって、ガールフレンドに元気な姿を見せてあげましょう」
患者は弱々しくうなずきながら、レイウールの入院着の袖口で涙をぬぐい、深呼吸をした。
精神的にグラグラしていて、疑心暗鬼な主人公ですので、ネガキャンオンパレード注意。




