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神話や童話シリーズ

アンナとジェームズ

作者: 深江 碧

 雪が降り続いていた。

純白の丘の上に二頭立ての馬車が佇んでいる。二頭の黒馬は白い息を吐き出し、時々たてがみに付いた雪を払いのけるように頭を揺り動かした。

御者は命じられた通り、主人が戻るのを待っていた。黒い帽子の縁はうっすらと凍り付き、手綱を握る指先は寒さに凍えている。あたたかな吐息が墨色の空に白く立ちのぼっていく。

寂しげな墓標の前に一組の親子が立っていた。

墓標の前に立っている小さな女の子は青い花のあしらわれた黒の帽子をかぶり、漆黒の豊かな髪は背中の半分を覆っている。

「パパはこの時期になると、狩りに行ってよく野ウサギを捕ってきてくれたよね」

 濃紺の外套がさらりと揺れ、少女は父の墓の前にしゃがみ込んだ。かじかんで赤くなった指で墓石の雪を払い、一本の純白の百合を手向ける。両手を組み合わせ、少女はしばしのあいだ目を閉じる。凍った風が少女の黒く長い髪を揺らし、粉雪を巻き上げた。百合の花弁がさわさわと揺れて、まるで少女の祈りに応じているかのようだった。

目を開けた少女の灰色の瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。

「ママ、パパはどうして死んじゃったの?」

 少女は後ろに立つ夫人を振り返る。夫人は暗い顔をして首を横に振った。

「しかたがないことだったの」

少女の口から小さな嗚咽が漏れる。あふれそうになる涙をこらえ、手の甲でまぶたをぬぐう。それでも止まらない涙に、少女は必死にかぶりを振った。その拍子に帽子が頭から滑り落ち降り積もったばかりの雪の上に黒と青の鮮やかな色を添えた。しかしその帽子の上には白い粉がまぶされ鮮やかな色合いも見る間に霞んでしまった。

少女は落ちた帽子が雪に飲まれる前に拾い上げた。

「パパ、また春が来たらお参りにくるからね」

 泣きはらした目をこすり、少女は胸の前で手を固く握りしめる。

「行きましょう、アンナ」

 夫人に伴われて少女は墓石に背を向けた。

 遠くから母子の様子を眺めていた御者は、馬から雪の上に飛び降りる。馬車の扉を開けて雇い主である母子に頭を下げた。

「長い間雪のなかを待たせてごめんなさいね、ヨハン」

「いえ、お気になさらないで下さい」

 夫人と御者がやり取りをしている間に、泣きはらした顔で戻ってきた少女は早足で馬車に駆け込んだ。少女の様子に気づき、御者はちょっとだけ顔を曇らせる。

「アンナお嬢様は、旦那様によく懐いてましたからねえ」

「まだ気持ちの整理ができないでいるのよ。あの人の死からもう一年も経つのに」

 少女を案じるように夫人はうっすらと目を細めた。少女と同じ灰色の瞳にはなだらかに続く純白の雪原が映り込んでいる。

「いっそ、あの人の記憶も何もかも雪に埋もれてしまえば楽なのに」

「奥様は詩人ですね」

「そう?」

 口に手を当てて笑う。つられて御者も自然に笑顔になった。夫人のそういった無垢な笑顔は不思議と周りを明るくする。そんな笑顔が彼女の魅力のひとつだった。

「さあ、もうそろそろお屋敷に戻りましょう」

 薄暗い馬車の中から少女のしゃくり上げる声が響いている。

「そうね」

 雪空に沈む墓標をふたたびかえりみる。

「さよなら、リチャード」

 いまは亡き夫の名前を口ずさむ。それは凍てつく風に阻まれて誰の耳にも届かなかった。

 御者の鞭打つかけ声とともに馬車がゆっくりと動き出す。

夫人は悲しみとも哀れみともつかない笑顔で窓からそれを見送った。馬車の中では少女の小さな嗚咽がまだ続いている。

墓標を消し去るごとく雪は音もなく降り続いていた。




 屋敷にいてもつい感傷的になってしまう自分に嫌気が差し、アンナは領地の見回りがてら遠乗りに出かけた。寒くなってからは毎日のように父親が亡くなったときのことを思い出してしまう。父親が亡くなったのも、ちょうどこんな冬の日だった。

 ――もう一年も経つのに、まだあの時のことを覚えているなんて。

 その気持ちがいっそうアンナを落ち込ませる。

しょげかえるアンナに合わせて、馬の歩調も自然にゆっくりになった。さくさくと新雪を踏みすすむ馬の軽い足音が耳に心地よい。それさえも耳に届かず、深々と降り積もる雪がアンナの心の中にまで降り積もっているかのようだった。

 ――こんなとき、兄様がいれば。

 年の近い兄がいれば少しは気が紛れただろう。ほとんど屋敷にいない兄のことを思い出し、アンナは少々腹立たしく思った。父親が死んで以降、兄が家督を継いだというのに、彼が屋敷にいることはほとんどなかった。彼が普段どこにいて、どんなことをしているのかアンナは全く知らなかった。兄に聞いても素っ気なく話を打ち切られるだけだった。兄が屋敷に寄りつかない理由はわからなかったが、彼が屋敷を度々留守にし始めたのは父親が亡くなってからだった。

 ぎゅっとアンナは冷たくなった両手で手綱を握りしめた。

胸の奥に硬くてひやりとしたものがずっと溶けずに残っているような感覚。

 そこまで考えて、アンナは自分が抱いている感情の正体におぼろげに思い至った。その気持ちは父親が死んで、兄が家を出て以来ずっと抱いていた気持ちだった。

 ――寂しい。

 その言葉をもう一度頭の中で繰り返してみた。

 ――寂しい。わたし、寂しいんだ。

 いくら母親がそばにいるといっても、いくら大勢の使用人に囲まれて裕福な生活を送っていても、幼いアンナにとって父親の代わりになる存在はいなかった。いくら寂しいとはいえ、父親のかわりを兄に求めるなんて間違っている。死んだ父親の代わりは誰にもできないことくらいぼんやりとわかっているのに。

兄に対して八つ当たりしたことを申し訳なく思い、心の中で小さく詫びる。

 ――私も、友達がいればな。友達、ほしいな。

 見習いの少年同士がよく庭で遊んでいるのを、アンナはいつもうらやましく眺めていた。しかし乳母にそう話すたびに、ご自分の身分をしっかり考えてください、とたしなめられるのだった。そして二言目には遊んでいる暇があるのなら、礼儀作法のひとつ、詩のひとつもそらんじられるようになってください、と口をすっぱくして言われた。

 アンナは正直、学問があまり得意ではなかった。

 馬術や狩猟のように自分の手足をぞんぶんに動かし、野や林を駆けめぐるのは好きだが、机の前に静かに座らせられて家庭教師の話を長々と聞かせられるのは耐えられなかった。もともと集中力のないアンナにそれは苦行にも等しい。隙を見ては部屋を抜け出し、それを見つかってはよく乳母に怒られたものだ。

 我知らずアンナの口から漏れた吐息が、ゆらゆらと揺らめいて空に消える。

 物思いから覚めて、辺りを見回すとアンナは見慣れない場所を歩いていた。

 背後を振り返ると領地の境である森が、遙か後方に黒い塊として見える。雪道の続く先、小高い丘の連なるさきにはスペンサー侯爵の屋敷がそびえていた。考え事をしている間にずいぶん遠くまで来てしまった。境界を越えて隣の領地に無断で入り込んでしまったらしい。

アンナは慌てて馬の手綱を引きよせる。このまま進むとスペンサー侯爵の屋敷へと正面から乗り込むことになってしまう。スペンサー家とのもめ事は極力避けたかった。先代でスペンサー家との関係は持ち直したものの、過去に何度も領地の境にある森をめぐり衝突し合ってきた仲だった。一年前の父親の葬儀以後、スペンサー家とはほとんど交流を持っていない。

馬の足を止め、丘の上にそびえるスペンサー侯爵の屋敷を臨む。彼女にとってその屋敷を実際に目にするのはこれが初めてだった。何度か父の話には上ったことがあるが、その丘も屋敷もそこへ至る馬車道もまるで完結した一つの絵画のようだ。風の吹きすさぶ寒々しいだけの荒野もその景色に色を添え、雪が降りしきる様は細かく砕いた玉片がその上に降り注いでいるかのような静かな調和を生み出していた。

遠目の景色の見事さだけでなく、スペンサー侯爵の屋敷と庭園は領主達の間でも評判だった。使用人の園丁の腕が秀逸だけでなく、侯爵と侯爵夫人そろって庭園の世話をしているために花の妖精が手助けをしているという。そんな噂が領主達の間でまことしやかにささやかれている。

アンナはその噂を耳にしたときから一度はスペンサー侯爵の屋敷を訪れたいと願っていた。心の内に収めていた好奇心が息を吹き返す。もっと近くでつぶさに眺めたいという気持ちと、このまま引き返すべきだという気持ちが天秤にかけられる。はじめは釣り合いの取れていた天秤も、好奇心が上乗せされてしだいに傾いていく。

――ちょっとくらい、いいよね? べつに悪いことをしにいくわけじゃないもの。

幼さ故の無鉄砲さから、アンナは丘の上の屋敷に向けて馬の歩を進める。

本来、無断で他領の屋敷を訪れることは礼節に反する。正式な書状を送り、相手の都合を聞いてから屋敷を訪れるのが一般的で、アンナのように思いつきでの訪問は許されなかった。

乳母に小言のように言い含められた礼節の話も、馬の背に揺られるアンナの頭の中には浮かんでこなかった。馬の歩が進み屋敷が近づくたびに、アンナは胸が大きく高鳴るのを感じる。

丘を一つ越えて見あげた先には、雪風にけむる屋敷の遠景はさながら妖精が編んだ一枚のタペストリーのように幻想的だった。北方の伝承には妖精の物語が数多くある。妖精は時々人間に混じって物を作る手伝いをすることがある。きっとこの屋敷や庭園は妖精が手伝って作ったものなのだ。噂をまことしやかにささやく領主達の気持ちもわからなくもない。

白く染まった庭園の木々も、今は墨色にしか見えない屋敷の壁も、春を告げるヒバリが鳴く頃には庭園の緑がどれほど色鮮やかに芽吹くのか。夏には夏の、秋には秋の装いを見せるこの屋敷を訪れる領主達が何人いるのか。アンナには想像も付かない。

アンナは刻一刻と近づいてくる屋敷の姿を期待の眼差しを持って見あげていた。

丘へ続く道を半分ほど過ぎた雪道で、視界の隅で黒く動くものを捉えた。はじめは野ウサギの類かと考えていたが、どうやら違うらしい。もっと大きなもの、そう人の子供くらいの大きさだ。

頭が別のことでいっぱいだったのだろう。咄嗟に反応できずに慌てて手綱を引くと、馬は驚いて立ち上がり振り落とされるところだった。かろうじて馬の首もとにつかまり、アンナは雪の上に無様に転げ落ちるのだけは免れた。馬が落ち着くのを待って、道際でうずくまっている人影に目をこらす。

――どうしよう、もしスペンサー家の使用人だったら。

アンナの頭が真っ白になる。隣の領地に無断で入ったとなればただでは済まない。もともと良くなかったスペンサー家との関係がさらに悪化するかもしれない。アンナの家、グレシャム家は領主達から礼節を知らない家とそしりを受けるかも知らない。この事実がスペンサー侯爵の耳に入れば、両家の間に亀裂が入り、また領地争いがぶり返すかもしれない。それはどうしても避けたかった。

いますぐここから逃げ出したかったが、その人影から目をそらせないでいるのもまた事実だった。アンナは内心びくびくしながら雪の上の人影をじっと見据える。目をこらしても人影は黒い塊にしか見えないが、体格からして年端もいかない子供だろう。雪の中で手を動かし何かを探しているような気配だった。腹這いになりさかんに手で雪をかいている。

まず大人でないことにアンナは安堵した。こんな寒い中を好んで出歩く使用人も珍しいだろう。実際アンナも足の指先がかじかんで一刻も早く暖かい暖炉に当たりたい気分だった。

ずっと眺めていてもらちが明かないと考えたアンナは雪に埋もれる黒い人影に近づいていった。近づくにつれて徐々に人の輪郭がはっきりしてくる。黒い影はどうやら羽織った外套の色だった。ところどころ粉雪がついて白くなっている。肩幅はアンナよりわずかに広く、顔は見えないが背格好からして少年だとわかった。少年はアンナの足音に気づかないのか背を向けてうずくまったままだった。

ほんの少しの悪戯心からアンナは馬から降りてそろそろと少年の背に近づいた。手を伸ばせば届きそうな位置まで来ても、少年は手を動かしたまま振り向く素振りさえしない。アンナは大きく息を吸い込んだ。

「わぁ!」

 めいいっぱい大きな声でアンナは少年の耳元で叫ぶ。少年は背筋をしゃんと伸ばし、アンナが怯むほどの大声で悲鳴を上げる。それにはアンナも驚いて雪の上に尻餅をついた。

「き、きみは誰だ」

 心の動揺を収めないまま声を発したため、少年の言葉には迫力というものがなかった。しかしアンナは気圧されたように雪の上に手をついたまま、少年の顔にまじまじと見入っていた。その神秘的ともいえる容貌に驚きを隠せなかったのだ。雪のように白い肌に澄み切った水色の瞳。頭からすっぽりとフードをかぶっていたためはっきりとは見えないが、隙間からこぼれる金の髪は絹糸のように細くさらさらと揺れていた。

「きみは誰だ!」

 少年の鋭い声音にアンナは我に返る。アンナはすっと立ち上がり服に付いた雪を払う。

「わたしはアンナ。あなたは?」

 見慣れてしまえばちゃんと普通の男の子に見えた。一瞬だけこの少年が妖精ではないかと疑ってしまったがどうやら違うらしい。少年の目には明らかに人間の感情が宿っている。怒りと不審。少年の機嫌はお世辞にもいいとは言えないようだった。

 口を引き結び一向に答えようとしない少年に、アンナは小さくため息をついた。

「こんな雪の日にこんな場所で、何をしていたの?」

 少年は訝しそうに目を細め、じろじろとアンナを見回した。やや間を置いてぽつりと呟く。

「ペンダントを探している」

 少年は外套についた雪を払いのけながら立ち上がった。声音をわずかに和らげただけで、少年の印象はまったく違う。変声期前のきれいなボーイソプラノに、またもやアンナは声をなくした。

 ――まるで本物の妖精みたい。

 人里離れた森に住むといわれる妖精はきっとこのような姿をしているのだろう。しかし妖精にしてはずいぶんと横柄な態度だ。きっとひねくれ者の妖精なのだろう。アンナは心の中でそう納得した。

「ペンダントを雪の中に落としたの?」

 その言葉に少年はゆっくりと頷いた。少年の水色の瞳がわずかに曇り、悔しそうに両手を握りしめる。アンナはそんな少年の態度の理由をあえて聞こうとはしなかった。そっとしておいた方がいい時があることをアンナは幼いながらもちゃんとわきまえていた。

「要するに、ペンダントが見つかればいいんだよね」

 アンナは少年に笑いかける。少年を少しでも元気づけようとしたのだが、その試みは成功しなかった。少年はアンナから視線をそらし、不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。

 気を取り直して、アンナは雪の上を見回した。ちょうど雪も止み、周囲の景色が徐々に明るくなってきた。

アンナは革の手袋を外し、青みがかった雪の中に手を差し入れる。冷たさに指先が凍えたが、我慢して雪を掘り起こした。

「ねえ、ペンダントは何でできているの? 真鍮?」

「そんなこと、関係ないだろ」

 愛想のない態度にアンナは眉根をつり上げて少年を見返した。

「大きさとか形がわからなきゃ、探せないよ。それに材質、つまり色も知っておきたいの」

 アンナの言葉を聞いて少年も少し思い直したのだろう。声に含まれる棘がわずかに引っ込む。

「銀製だ。大きさはこれくらい、色は素材と同じ色だ」

 そう言って小石ほどの大きさを指で示した。

「わかった。探してみるね」

 雪の中に長い時間手を入れていることができないので、作業は休み休み続けられた。一時間近く探しても一向にペンダントは見つからず、いい加減少年も嫌になってきたのだろう。小さな声でぽつりと弱音を吐く。

「もう、いいよ」

「どうして? ペンダントを見つけたいんでしょう」

「ほんとうに、もういいよ。見つからなくて」

 悔しそう唇を噛み締める少年に、アンナは慰めの言葉を掛けようとしたがいい言葉が浮かんでこない。こんな時どんな言葉を掛ければいいのか、経験の浅いアンナには見当も付かなかった。

暗い雰囲気でいる少年から目をそらし、おもむろに平野に目を向けると雲のわずかな隙間から太陽が差し込み、積もった雪が純白に輝いて見えた。

「あっ!」

 雪の輝きとは違う光を目の隅で捉え、アンナは雪を掻き分け光った方角へ走っていく。何度も転びそうになりながら駆け寄ると、銀の光はもう消えていた。アンナは目をこらして雪の上を見回す。

ふたたび太陽が雲の間から顔を出すのをアンナは辛抱強く待った。その甲斐あって今度は銀の光が消える前にその場所を探し当てた。

雪を両手で掘るとすぐに指の先に硬い感触が当たる。アンナはそれを指の先でつまむと雪の上に引き上げた。引き上げたのは銀の鎖の部分で、アンナはそろそろと鎖の先を引っ張り出す。そこには少年の話の通り、確かに銀製のペンダントが埋まっていた。

細い銀の鎖の先に小石ほどの楕円の飾りが付いている上品な雰囲気のペンダントだった。かえすがえすペンダントを眺めているうちに、飾りの端に留め金が掛かっているのに気が付いた。ほんの少しの好奇心からその留め金を外し、内側を覗き込む。

「見つかったのか?」

 少年が雪の踏みしめ駆け寄ってくる足音がすぐそばから聞こえる。アンナは急いで元通りにふたをしめた。何食わぬ顔をして手渡そうとすると、少年が怪訝そうに眉根を寄せる。

「どうした? ぼくの顔に何かついているのか?」

「う、ううん。何でもないよ」

 少年はアンナの手からペンダントを受け取り、その銀の縁を指で軽くなぞる。少年の顔にふっと険しい表情が宿った。

「どうしたの?」

 不思議そうにアンナは少年の手のひらをのぞき込むと、少年の指で触れている部分に自然なものではない傷が見えた。

「石に当たったのかな?」

「違う」

 厳しい声で呟いたきり、少年は押し黙った。少年の顔はフードの影になり暗く沈み込んでいるように見える。物言わぬ口元には悔しさとも憤りとも取れる感情が浮かんでいた。その表情は泣くのを必死に堪えている幼子のようだった。

年上の、ひねくれた態度ばかり取っていた少年がその時ばかりはアンナよりずっと小さい子供のようだ。どんなに強がって見せても、少年の芯の部分は見かけほど強くはない。水仙の茎のように、力を込めれば容易く折れてしまう弱々しいものだ。

アンナは少年の力になってあげたい。ペンダントを直してあげたいと強く思った。

その一心から記憶の糸をたぐり寄せ、一人の使用人の名前がアンナの頭をよぎる。

「バートさん。バートさんなら、きっとそのペンダントを直せるよ!」

 少年は黙り込んだままちらりとアンナに目を向けた。

「もういいよ。このままで」

あまり乗り気でない少年にアンナはむっとして言い返す。

「せっかくペンダントを見つけたのに。ペンダントが傷ついたままでほんとうにいいの?バートさんなら直せるかもしれないのに」

「もういいんだ。どうでもいい」

 拗ねてしまった少年の頑なな態度にアンナは何度目かのため息をついた。

「じゃあ、ほんとうにそのペンダントがどうなってもいいの? あなたはそれでかまわないのね?」

 アンナの心にちょっとした悪戯心が生まれる。少年の手からペンダントを引ったくると、それを墨色の空に向けて放り投げた。

「何をするんだ!」

 掴みかかってくる少年の手をアンナは軽くはねのける。

「だってあなたはペンダントがどうなってもいい、と言ったんでしょ?」

「それは、そうだけど」

「だから捨てたの。もしもペンダントがほんとうに大事なら、今度は自分で見つければいいじゃない。わたしは手伝わないから」

 アンナはさっさと少年に背を向ける。恨めしそうな視線を背中から感じる。

「いまにみてろ」

悪態の言葉を吐き捨て、少しして離れた場所から雪をかく音が聞こえてきた。

――ちょっとやりすぎたかな。

悪戯にしては悪いことをしたと心の中で小さく謝る。それでもこうでもしないとアンナの気持ちが収まらない。必死になって一時間もペンダントを探したアンナが馬鹿みたいだ。

しばらくしてアンナはおもむろに少年のそばに歩いていく。

「どう、見つかった?」

 ふてくされた顔で少年はゆっくりと振り返る。口を開かず、すぐに元のように手を動かす。ほっといてくれと言わんばかりの態度だった。

「ごめんね。でもあれはあなたも悪いのよ。あなたがどうでもいいと拗ねるから」

 アンナが声を掛けても少年は背中を向けたままだ。

二人のいる雪原は本当に静かで少年の雪をかく音しか聞こえない。時々風が吹いては気まぐれに粉雪を空に舞いあげた。

いくつか丘を越えた先にスペンサー伯爵の屋敷が見える。遠目にも美しいそのお屋敷をいつかは訪れたいと願うが、今回は少年のこともあり、次の機会に回すことに決めた。視線を少年に戻す。

「ねえねえ」

 少年の肩を軽く叩く。

「ねえってば」

 そこでようやく少年が振り返る。

「なんだよ」

 邪魔だと言わんばかりの少年の態度をアンナは気にも留めない。にこにこと笑って少年に顔を近づけた。

「もうペンダントがいらない、とか言わない?」

 少年の顔が奇妙に歪む。わけがわからないといった様子だ。

「大事な物をいらないとか、どうでもいいとか言わないで。もう嘘ついちゃいやだよ」

 差し出した手のひらには先ほど空に投げたはずのペンダントが握られていた。少年は口を開けて二度三度瞬きする。

「さっきペンダントを投げるふりをして小石を投げたの。気づかなかったでしょう」

 すっと少年から顔を放し、外套の裾をつまんで優雅にお辞儀した。

「返せ!」

 伸ばされた手をするりとかわす。

「これはバートさんに直してもらうの。あなたに返すのはそれからね」

「ふざけるな!」

少年の伸ばされた手がむなしく空を掴む。

「ふざけてなんかいないよ。それとも他にいい方法があるの?」

アンナは真面目な顔で少年を見据える。真剣な眼差しに少年は気圧されたようだった。視線をそらし沈黙を守る。

「決まりね」

それを了解の合図と受け取った。少年の返事を待たずに、アンナは少し離れた場所で待っていた馬を呼び寄せる。

「レノール」

よく仕付けられた馬は主人の呼びかけに応え駆け寄ってきた。アンナは素早く馬の背に飛び乗る。栗毛の牝馬は雪の中長い間待たせた文句でも言うかのようにいなないた。

「待て!」

 馬の手綱を振るおうとした矢先、馬上に鋭い声が飛んでくる。

「ぼくも連れて行け」

 アンナは少しだけ考えて大きく頷いた。

「いいよ。わたしの後ろに乗って」

少年の雰囲気が安堵したようにわずか和らぐ。険しさの消えた表情は少年の容貌の端正さをいっそう際だたせた。白い外套を身につけていれば天使と呼んでも差し支えない。少年の微笑みにはそれほどの価値があるように思えた。

 ――笑っていればかわいい男の子なのに。

少年を馬上に引っ張り上げると、アンナは馬の首元を撫でながら優しく語りかけた。

「レノール、少し重いけど我慢してね」

 手綱を振るい馬に指示を送る。馬は主人の意志を敏感に感じ取った。

はじめは子供が歩くくらいの速度。徐々に速度を上げていく。後ろの少年が何事か叫んだが、耳の横を通りすぎる風の音にかき消されアンナの耳には届かなかった。




 正門の傍らにある門番の詰め所で一人の男が薪の火に当たっていた。狭い殺風景な部屋の中には暖を取る薪ストーブと古びた木製の椅子。部屋の中央に置いてある小さな薪ストーブだけでは火力が足りず、薄い壁を隔てて外の寒さが忍び込んでくる。

「今日は特に寒い日だな」

門番は両手の平を摺り合わせつつ、時折小屋の外に視線を投げかける。門番の視線の先、白い平野の彼方に黒い森が広がっている。

「こんな雪の日に来客なんてどうせいないだろ。早く帰って一杯引っかけたいもんだ」

 門番のはき出した息がゆらゆらと天井に上っていく。雪こそ止んだものの外では物音ひとつしない。部屋の中央ではぜる薪の音が妙に大きく聞こえる。

 そういった気持ちから門番は門の外をつぶさに見回していなかった。門の鉄格子を叩く音も、少女の微かな悲鳴も平野を吹き抜ける気まぐれな雪風としか思わなかった。

「開けてー」

 薪のはぜる音に混じって風音にも似た声が耳に届く。門番はちょっとだけ顔を上げる。門の外の雪原に目を向けても誰もいない。

「そう言えば、こんな風の強い日はバンシーの泣き声が聞こえるって、昔じいさんが言ってたっけな」

 雪原を歩く泣き女の姿が門番の頭をよぎる。自分の死ぬ日を告げるという泣き女を門番は実際に見たことがなかった。生前の祖父が酒の話にバンシーの姿をぽつぽつと語るだけだ。子供心にひどく恐ろしかったのを覚えている。

強い風がガラス戸を揺らし、部屋に入ってきたすきま風がストーブの炎を揺らめかせた。

「開けてー、開けてー」

 門番は首をかしげた。よほど風が強いのだろう。鉄格子ががんがんとぶつかり合う音まで聞こえる。

「開けてったら!」

 ひときわ大きく鉄格子が鳴った。

門番が驚いて詰め所の外に飛び出すと、門の外の雪の上に二人の子供が転がっていた。二人のうち片方が少年、もう片方はこの屋敷に住む少女だった。少年は青い顔をして口を押さえてうずくまり、少女は足を押さえて座り込んでいた。




「きみはほんとうに伯爵令嬢なんだな?」

 疑いの眼差しで眺め回す少年にアンナはむきになって反論する。

「わたしの話が信じられないなら、他の人に聞いてみればいいでしょ。みんなきっとわたしと同じことを言うはずだから」

 板張りの質素な小屋の中で暖炉の炎がぱちんとはぜる。暖炉の横に置かれた長椅子に投げかけられたわずかな光では、少年の表情がはっきりと読み取れない。少年の声音から推測して冗談で言っているわけではなさそうだった。

「ねえ、そうでしょ。バートさん」

作業机に向き合っている小柄な男に同意を求める。机の上に置かれたランプの明かりを頼りに銀のペンダント眺めている。薄暗い雪の日は小屋の小さな窓から十分な光が入ってこない。ランプの明かりでも十分ではなかったが、男は平気な顔をして作業をしている。

「そうだな」

 男の気のない返事を聞いて、アンナは少年の説得を諦めた。隣の少年を見上げるともう別のことに興味がいっていた。視線の先をたどると、作業をしている小柄な男にたどり着いた。つられて男の作業を黙って見守る。

「彼は、ドワーフか?」

「ドワーフ?」

 とっさに聞き慣れない単語を耳にしたため、逆に聞き返す形になってしまった。

作業をしていた男の手が止まる。長い眉毛に覆われた小さな瞳がこちらにまっすぐ向けられる。

「ドワーフは暗い洞穴から滅多に出てこないと聞いているが、珍しいな」

 髭だらけの顔にさっと赤みが帯びる。野太い声には明らかな怒気が込められていた。

「坊ちゃんも、あっしらをそうやって区別なさるんで? 亜人と呼んで差別なさるんで?」

「そう言うわけではない。気分を害したなら詫びよう」

 少年はたいして動じた様子もなく平気な顔で続ける。男の黒い瞳と少年の水色の瞳が真っ向からぶつかった。アンナはわけがわからないながらも事の成り行きを見守っていた。

先に目をそらしたのは男の方だった。黙って男はもとの作業を再開する。少年は涼しい顔でそれを見守っていた。

「ねえ、ドワーフって何のこと?」

 小声で隣の少年に尋ねる。少年は驚いたような顔をして小さく息を吐き出した。

「彼の出身も知らないで、よく彼を雇ったものだな。これで伯爵令嬢とは呆れるよ」

 同じように小声で返す。アンナは文句のひとつも返してやりたかったが、自分が無知なのは自覚していた。口を真一文字に引き結び、少年の悪態を聞き流した。

「いいか? 彼の外見をよく見てみろ。ぼくらと少し違うところがあるだろう?」

 アンナは言われたとおり男の外見をじっくりと観察する。何度瞬きして見ても自分たちと同じにしか見えない。

 アンナが考えあぐねているのを見かねて少年が口を挟む。

「いいか、まずは小柄なこと。豊かな髭を蓄えていること。それから、手先が器用なことがドワーフの一般的な特徴とされている」

 少年の説明を聞いてもアンナにはしっくりこない。さかんに首をかしげて考え込む。

「それって小柄の人がみんなドワーフと呼ばれてるってこと?」

「違う。小柄だからといって、すべてがドワーフというわけではない」

「じゃあ、髭もじゃの人はみんなドワーフなの? 手先が器用な人はドワーフなの?」

「それも違う」

 少年は額に手を当てて大きなため息をひとつ。できの悪い生徒にどう教えればいいのか悩んでいる教師のようだった。

「いいか。それはドワーフの一般的な傾向であって、それがすべて当てはまるからといって全員がドワーフというわけではない。人間にも小柄な人がいて、髭を生やした人がいて、手先が器用な人がいるかもしれないが、ドワーフは部族的にそういうのが特徴であって……」

 説明している途中で少年は金の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。

「なんと言ったらいいのかな。何となくそうわかってしまうのを」

 考えがまとまらないらしく顎に手を当てて考え込んでしまった。少年の横顔を眺めながらアンナは首をかしげる。

「直観?」

「そう、直観のようなものだ。いや、経験に近いかな? とにかくそういったもので、人間とそうじゃないものがわかるんだ」

 わかったような、わからないような微妙な顔をしていると、少年はそういうものだ、と会話を一方的に打ち切った。

「今度、家庭教師にでも聞けばいい。あまり深く考えるな」

 少年の言葉に釈然としないものを感じたが、それ以上追求するわけにもいかずアンナは黙り込んだ。

部屋の中はほんとうに静かで、薪のはぜる音と小柄な男が作業をする音しか聞こえなかった。男はペンダントの表面を少し磨いては傷を確認し、また磨く作業を繰り返していた。時折ペンダントの表面の凹凸を手に持ったレンズで確認する。

そんな地味で忍耐のいる作業は見ていて楽しいものではなかった。退屈に耐えかねてちらりと少年を盗み見ると、真剣な表情でその作業に見入っていた。

 ――どこが楽しいんだろう。

 少年の邪魔をするのも忍びなかったので、アンナは黙って男の作業を眺めていた。ちらちらと隣の少年を盗み見つつ、アンナは作業が終わるのをじっと待った。

 部屋の中には時計はない。

 ゆらゆらと揺れる暖炉の炎だけが時が流れているただひとりの証人だ。

 どれほどの時が経ったのか他の部屋の住人に知る術はない。

 ぱちぱちとはぜる暖炉の薪が白い灰に変わる頃、その時はやってきた。

「終わったぞ」

待ちに待った終了の合図。アンナは思わず長椅子から転がり落ちるところだった。

男がペンダントを持ってゆっくりと歩み寄ってくる。アンナの前までやってきた男はペンダントを差し出した。

「見事なものだな」

 少年は男の手からペンダントを受け取り、傷のあった場所を指でなぞる。

「表面に彫られた紋章まで復元してくれたのか。芸が細かいな」

 ペンダントの出来映えに満足したようだ。少年は外套のポケットから何かを取り出し、男の手のひらに握らせる。

「これはペンダントのお礼だ。これで好きな酒でも買ってほしい」

 男に手渡したのは数枚の金貨だった。男はまじまじと金貨を眺め、おもむろに顔を上げた。

「人間には礼儀というものがないのか? 約束を果たしたとき一番にすることがあるだろう?」

 少年は水色の瞳を丸く見開いた。アンナはあっ、と口元に手を当てる。

「バートさん、ペンダントを直してくれてありがとう」

 頭を深々と下げる。元気よくお礼をするアンナと対照的に少年は冷ややかな態度だった。

「使用人に頭を下げるなんて」

「使用人でも誰でも、助けてもらったときはお礼をするのが当然でしょう?」

 屈託無く答えるアンナに少年は複雑な表情を浮かべる。二組の瞳にじっと見据えられ、少年もさっさと腹を据えたようだ。ちょっとだけ頭を下げる。

「あ、ありがとう」

 蚊の鳴くほどの小さな声だったが、男の耳には届いたらしい。ゆっくりと頷いて金貨を乱暴にポケットに詰め込む。

「用が済んだなら、さっさと帰りなせぇ」

 男は低く唸るとさっさと二人に背を向ける。これで話は終わりと言わんばかりの態度だった。

無言の圧力に背中を押されるように二人は小屋の外に飛び出した。




 雪原を滑るさながら、雲海の上を四頭の白馬が駆け抜けていく。背中には純白の翼が対に羽ばたき、力強いひづめが空を蹴って進む。太陽の光を受けて輝く白い毛並み、緑色の澄んだ瞳は、神話の物語で語られる神々の乗り物のようだ。白く染め抜かれた天馬の体躯は、神々の馬車を引くのに何の遜色もない。およそ人知の及ばないところにあるかのような存在だった。

 ただ一点。御者台に座った御者の男だけが、かろうじてこの世のものであることを表している。雪で汚れた帽子や服の裾、使い古された革の鞭が人間くささを引き立たせていた。

天馬は紺碧の空を背景に海を渡る渡り鳥のように滑空し、徐々に高度を下げていく。灰色の雪雲が間近に迫り、そのまま雲の中に突っ込んだ。雲の中は吹雪になっており、荒れ狂う嵐が容赦なく天馬を襲う。御者は革の手綱を固く握り、天馬の進むべき方向へ導いた。馬車全体が大きく揺れて、窓のガラスががたがたと音を立てる。

ぐんぐん高度を下げるうちに嵐もだいぶ収まって、雲の切れ目に出た。雲の下には雪に覆われた平野がどこまでも続いている。その白い絨毯のところどころに黒い森が点在し、そばには民家の集まりが見える。なだらかな森の先には大きな屋敷が建っていた。

御者はその屋敷目指して手綱を振るう。それに応えるように天馬が大きくいなないた。




詰め所で薪ストーブに当たっていた門番は、遠くから聞こえる馬のいななきに首をかげる。窓の外に目を向けると気が付けば外の雪は止んで、風の音も聞こえなかった。

門番は空耳かとも考えたが先ほどのアンナの件もあるので、念のため門の辺りを見に行くことに決めた。

暖かい室内に別れを告げて詰め所を出ると、冷たい北風に吹かれ目を固く閉ざす。風が吹き止むのを待って門番はゆっくりと目を開いた。目を開けると門の前には一台の見慣れない馬車が止まっている。門番は慌てて駆け寄ると馬車に乗っていた御者に用件を問いただした。

「スペンサー侯爵家の者です。ジェームズ様をお迎えにあがりました」

 門番の問いに対し、馬車の御者は静謐に答える。

こんな雪の日に客人が来るという話は聞いていない。しかし話が伝わっていないだけで裏門からの客人があったのかもしれない。

 門番は門の外に止めた馬車を見回した。四頭立ての馬車を引く白馬はどの馬も見事な毛並みのものばかりだ。この屋敷の馬小屋を探してもこんな見事な白馬は一頭たりともいないだろう。それに馬車の側面には以前どこかで見たことのある鷹をかたどった紋章が描かれている。

門番の顔からさっと血の気が失せる。

もしも相手の言っていることが本当なら大変なことになる。

「し、しばらくそのままでお待ち下さい」

門番は馬車を門の前で待たせ、屋敷への雪道を危うげな足取りで駆けていった。

 



外の雪はすでに止んでいたが、暗くたれ込めた雲はそう簡単に立ち去りそうにない。白く立ち上る息が墨色の空に吸い込まれていくのをアンナはじっと眺めていた。速い雪雲の流れに合わせて自然と足が動く。

「上ばかり見ていると、転ぶぞ」

 呆れたような少年の声がすぐ後ろから掛けられる。言葉が終わるか終わらないかしないうちに、少年の言葉が現実のものとなった。

「あ、あれっ!」

 雲の隙間にまばゆい光が見えた。それは太陽の閃光にも近く、白く輝いていた。アンナは必死に手を伸ばし指さした。それを少年に教えようと体をひねった途端、足元がすくわれた。

「アンナ!」

 体が緩やかに前に倒れていく。少年の伸ばされた指先がぎりぎりのところで届かずに空を掴むのが見える。視界がゆっくりと回り、どちらが地面か空か判断できなくなる。

アンナはぼすっという間抜けな音とともに厚く積もった雪の上に倒れ込んだ。少年が駆け寄ってくる気配がして、すぐそばで声が聞こえた。

「大丈夫か?」

 少年が心配そうにのぞき込んでくる。

「うん、大丈夫」

 アンナは差し出された腕につかまり立ち上がった。

「怪我はないか?」

「うん」

空を見上げたが光はどこにも見あたらない。雪こそ止んだものの墨色の雲はいぜん空全体を覆っている。太陽の光などどこからも差し込んでいなかった。

ここに至って、アンナは少年の名前をまだ聞いていなかった事実に突き当たった。名前を尋ねるにはまず自分からと考え、アンナは口を開ける。

「そういえば、まだわたし名乗ってなかったよね? わたしは」

「アンナ・グレシャム、だろ? 一年前に他界したグレシャム伯爵、リチャード・グレシャムの娘。それくらい知ってるよ」

「どうして?」

 アンナは驚いて聞き返す。名前だけなら名乗った記憶があるが、家名まで名乗った記憶はなかった。

「どうして、って。それは普通に考えればわかるだろう。屋敷にまで招待されたなら、わかって当然だろ? それに、まあ、とにかく、知ってるものは知ってるからそれでいいんだよ」

 当然の答えにアンナはこくこくと納得して頷いた。

「それで、あなたは?」

今度はアンナが聞く番だった。もしかしたら答えてくれないかもしれないという気持ちも心の片隅でくすぶっていた。

いつまでたっても少年の言葉は返ってこない。意地悪をしているのかとも考えたが、どうやらそうではないようだ。少年は目を丸くして呆れたようにアンナを見つめている。

少年の口がゆっくりと開かれる。

「それは、ぼくが誰か、はじめから知らなかったということか?」

「そうだけど」

「ぼくが誰かも知らずに声を掛けたと言うことか?」

「そういうことになるね」

「ほんとうに、知らないのか?」

「うん」

 繰り返される会話の応酬に、少年は少なからぬ衝撃を受けたようだった。少年の顔が最初は青白く、次は赤く変わっていく。少年は口を引き結び、すごい形相でアンナを見返してくる。親の敵だと言わんばかりの形相に、アンナはわずかに後ずさる。

「この、馬鹿!」

 少年の叫び声にアンナはびくりと肩を震わせる。馬鹿呼ばわりされたことに多少の衝撃を受ける。

「それじゃあ、いままで緊張していたぼくが馬鹿みたいじゃないか! ぼくはきみが全部知っていて、その上で話しかけてくれたものとばかり」

 少年は途端に頬に赤らめ黙り込む。気分が一定でないため、少年の気持ちを読み取るのは至難の業だ。アンナはわけがわからないながらも黙って少年が落ち着くのを待っていた。

 少年は気まずそうにアンナの視線から目を背け、何も答えず歩き出す。

「あ、まってよ」

 慌てて後を追いかけ、少年の隣に並ぶ。

「ええと、ごめんね?」

 これ以上少年の機嫌を損ねる前にとりあえず謝る。

「わたしが何も知らずに話しかけたからいけなかったんだよね。それで、あなたの名前」

 アンナが言いかけると、少年は急に足を速める。アンナは小走りに少年の背中を追いかける。

「まって、まってよ!」

 いつまで経っても追いつかない背中に、アンナはだんだん腹が立ってきた。

「まってったらっ!」

 足元にあった雪を固めて、少年に向かって投げる。的を誤らず雪玉は少年の後頭部に命中した。雪玉は細かい粉雪に変わって少年の肩や背中に降り注ぐ。少年の不機嫌な顔がゆっくりとこちらに向けられたが、アンナもいまさら後には引けなかった。

「さっきから謝っているのに、わたしの何が気に入らないの! 理由を言ってくれなきゃわからないよ! どうして名前を教えてくれないの?」

 少年もお返しとばかりに雪玉をアンナの頭にぶつける。

「それくらい、自分で調べればいいだろう? 少なくとも、ぼくならそうするが」

 涼しい顔の少年はさっさと屋敷の玄関の方角へと歩いていく。雪の上に取り残されたアンナは少年の黒い背中を眺めながら、今日何度目かのため息をついた。




 玄関までたどり着いたアンナは、見慣れない馬車がそこに止まっているのを見つけた。馬車を引く四頭の白馬はどの馬も輝いて見えて、アンナはしばし立ち尽くしてその馬車に見とれてしまったほどだ。馬車の側面には細かい細工がなされ、その中に鷹をかたどった紋章が描かれている。小さいながらも品のいい馬車にアンナは小首をかしげた。

 玄関に目を向けると、使用人一同がきちっとした居住まいでそこに立ち並んでいた。

「ジェームズ様、お待ちしておりました」

 馬車の前では老年の執事がかしこまって立っていた。執事は少年に向けて恭しく一礼する。

「世話をかけたな、クーノ」

 その対応が当然のように少年は表情を変えずにねぎらいの言葉を掛ける。

「朝からジェームズ様のお姿が見当たらずご心配申し上げましたが、ご無事で何よりです」

白い髭の口元をちょっと和らげて、老人は微笑んだ。

 少年の後ろでそろそろと様子を伺っていたアンナは、老人と正面から目が合って凍りついた。

「ジェームズ様、そちらのご令嬢は?」

「彼女はグレシャム伯爵家の」

 少年が最後まで言い終わる前に、アンナが口を挟む。

「あ、アンナ・グレシャムです。よろしくお願いします!」

 何をどうお願いするのか口にした当人であるアンナにもよくわからなかった。頭で十分に考えずに言葉に出してしまったので、それが場違いな言葉であったことに後で気づいた。

 老人は特に気にした様子もなく、丁寧に頭を下げた。

「わたくしはスペンサー侯爵家で執事長を務めておりますクーノと申します。このたびはジェームズ様が大変お世話をかけたようで」

 アンナは首を横に振る。

「い、いいえ、そんなことはありません。むしろわたしの方が迷惑をかけてしまって」

 視界の隅で少年が大きく頷いているのを、アンナは気にも留めない。

「ところで、クーノ」

 少年が老人と何事かやりとりをしているのを見て、アンナはやっと開放された。依然その場に立ち尽くしたままだったが、ほんの少し肩の荷が下りたような気がした。

 少し離れた場所で少年と老人のやり取りは続いている。

「噂には聞いておりましたが、こちらがあの」

「あぁ、僕も会うのは今日が初めてだ」

 ひそひそと聞こえる話し声も耳に入らず、アンナは上の空で二人を眺めていた。

「アンナ様、と仰いましたね?」

「は、はい!」

 さっきよりも幾分やわらいだ老人の声が耳に届く。とっさのことにアンナは返事をするのが精一杯だった。

「これからも、ジェームズ様と仲良くしてください」

「は、はい! こちらこそ!」

 アンナは機械的に頭を下げる。視線を移すと意地悪な笑みを浮かべた少年と目が合った。

「じゃあね、アンナ」

 少年はアンナの右手をおもむろに取ると、その甲に軽く口づけをした。それは礼儀として当然のことだったが、あまりの不意打ちにアンナは完全に凍り付いてしまった。

十分な別れの言葉も送れずに、馬車が門の向こうに消えるまでぼんやりと見送っていた。




 玄関から馬車が立ち去り、使用人がそれぞれの持ち場に戻るころになっても、アンナは動けないままだった。馬車の立ち去った門の外をずっと眺めている。

「あの方は、お帰りなられたようですね」

 気が付けばアンナの隣には使用人の中で一番中のよい馬番の男が立っていた。

「やれやれ、この雪の中をスペンサー侯爵家まで使いに行くのがどれほど大変なことか」

 ぶつぶつと文句を口にする馬番の服には細かい雪がこびり付いている。

「え、スペンサー侯爵家ってどういうこと?」

 ほとんど先ほどの話を聞いていなかったアンナは必死に記憶の糸を手繰り寄せる。

「おや、アンナお嬢様は知らなかったんですか。先ほど帰られたあの少年は、スペンサー侯爵家の次期御当主ですよ」

 馬番は服に付いた雪を払いながら、怪訝な顔を作る。馬番の隣には彼が普段からよく乗っている愛獣のフェリックスが毛づくろいをしている。鷲の頭に獅子の体を持つその動物が珍しい種類であることは、馬番のサイラスから嫌というほど聞いている。確かグリフォンという動物だっただろうか。

「え? えぇ!」

 別のことに気をとられていたアンナは、一拍遅れて驚いた。そばにいた鷲にも似た獣が毛を逆立てる。

 アンナの頭に馬で遠乗りに出かけたときの光景が浮かんできた。しかし丘の上に建つスペンサー侯爵家の屋敷と少年の顔がすぐには結びつかなかった。

 さんざん首をひねり考えあぐねている様子に、男はため息をついた。

「アンナお嬢様。今朝あの少年がスペンサー侯爵家の屋敷の側にいたことや、先ほど会話の折に気づかれなかったのですか?」

 二度三度瞬きして、アンナはやっと納得がいった。胸のつかえが取れたような気がする。

「あ、そうだね」

 頭がすっきりしたついでに、別のことまで気が回ってしまう。

「え、サイラスはあの子がスペンサー侯爵のお屋敷の近くにいたって、どうして知ってるの?」

 余計なことまで口にしてしまったと、馬番はアンナから視線をそらす。

「サイラスはもしかしてわたしの後をつけてたの?」

 すねてしまったアンナの機嫌をこれ以上損ねないうちに馬番は頭を下げる。

「すみません。失礼だとは思いましたが、後をつけさせて頂きました。その、もしものことがあったらと思い」

 ちょっとの間アンナは悲しそうな顔で黙っていた。

「ううん、別にいいよ。わたしに何かあったら、サイラスが困るもの。わたしこそ、ごめん」

 アンナは照れ隠しに苦笑を浮かべ、空に目を向ける。雪空を仰ぎ見るとまた雪がちらちらと降り出していた。当分やみそうにない雪を、アンナは晴れ晴れとした面持ちで眺めていた。いろいろと大変な思いもしたが、アンナの心はこの冬空のようにどこまでも澄み渡っていた。




「ママ、ママ」

 軽い足音とともに、アンナは椅子に腰掛けていた母親に駆け寄った。

「昨日、この屋敷に男の子が来たでしょ? あの子の名前、ジェームズ・スペンサーと言うんだって」

 母親は読んでいた本を閉じて、顔を上げた。

「あら、そうなの」

 母親はのんびりした口調で応える。一拍遅れたように首をかしげる母親にアンナは早口でまくし立てた。

「あの子、ちょっと捻くれてて素直じゃなくて意地悪かもしれないけど、ほんとうはやさしい子だと思うんだけど。ママはどう思う?」

「あなたがそう考えるのなら、そうなんでしょうね」

 母親の同意にアンナは顔を輝かせた。うんうんと何度もうなずく。

「そうだよね。うん、そうかも」

 母親はそんな娘を笑顔で見守っている。

「それでね、あの子と友達になれたらな、と思うの」

「そうね。それはいいことだわ」

 アンナの提案に母親は両手を合わせる。しかし次の言葉はアンナの予想を遥かに裏切ったものだった。

「やっぱり、婚約者同士だものね。まずは友達から始めるべきよねえ」

 のんびりと思案する母親の言葉を聞いて、アンナは息を呑んだ。

「ま、ママ、婚約者、って何?」

「将来、結婚を約束した人のことよ」

 さも当たり前に言い放つ母親の言葉に、アンナは脳天を木槌で殴られたような気がした。

「どうしたの、アンナ? 顔が青いわよ?」

「な、なんでもない」

 アンナはおぼつかない足取りで部屋の隅まで行って扉を押し開ける。扉を閉める音も静かに、アンナは廊下へと姿を消す。娘の姿が視界から消えて母親は不思議そうに首をかしげる。

「確か、そうだったわよね」

 軽く首をかしげ、手元にあった読みかけの本を開く。静まり返った部屋の中で暖炉の炎がちらちらと燃えている。暖炉の薪が勢いよくはぜて、薄暗い部屋に暖かな光を投げかけていた。


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