本名宣言
「え? 鞍馬くん? ううん、全然いつもと変わりないけど。なにかあったの?」
翌日。僕はとりあえず由利香に電話してみた。たぶんシュウ本人に聞いても何もないって言うだろうし。でも、泣いているところを由利香に見せるはずがないと思いながらね。
「ふーん、そう」
「あ、でもね。依子さんや夏樹と一緒に仕事してた頃の初代料理長の子孫の方が、隣町でレストランを経営していたことがわかったの。そっくりなんだって、その人初代と! それで彼と話していたときの鞍馬くん、とっても嬉しそうだったわ」
「それってイギリスにいた時だよね。初代って確かアレン?」
「そう!なんで伊織までアレンさんのこと知ってるの?」
あれ、ちょっと違和感。そう言えば由利香や夏樹には僕のこと本名で呼んでいいって言ってなかったね、まだ。
「ねえ、由利香。もうそろそろ僕のこと冬里って呼ばない?」
「は?」
「と・う・り。僕の本名」
「え…でも…」
なんでかな由利香、歯切れが悪いね。
「えっと、あの、九条さんがね。言ってたの」
「うん、なんて?」
「あんたはなかなか本名を呼ばせないって、許すのはごく限られた人だって」
「うん、だから由利香も限られた人なんだよ、夏樹にも後で言うけどね」
すると由利香が息をのんだのがわかる。
「…それって、千年人じゃなくてもいいの?」
「ああ、そんなこと。当たり前じゃない。それとね、限られた人ってさ、い・ま・だ・け」
「?」
「だって、紫水院 伊織っていうのは料亭付きの名前だもん。当主じゃなくなっちゃえば、もうその名前は僕を離れるの。当主でいる間は、親しくない人にその名前以外で呼ばれたくなかっただけ」
「そうなの。わかったわ、ありがとう。じゃあ…今日は記念日ね。えっと、夏樹がこの間、家族でいてください記念日とか変なこと言い出すから、今、記念日マイブームなの。さしずめ今日は冬里が本名で呼ばせてくれた記念日、かな。ふふっ」
「へえ、なんだか嬉しいな。でも、僕は家族に入れてくれないの?」
「え? 決まってるじゃない、冬里も大切な家族よ、家族」
などと嬉しい事を言う由利香と、あとはたわいもない話をして電話を切った。
ちょっと話がずれちゃったけど、カケラが揺らいだ理由がうっすらとわかりかけた。
そのあと大事な話もあったので、シュウに連絡を入れる。
「冬里、どうしたんだい? また遊びに来るって言うんじゃないだろうね」
「はは、まさか。いくら何でもそんなに暇じゃないよ。でも、あながち間違いにあらず」
「?」
「あのね、僕そろそろ十三代目に料亭を譲ろうと思っているんだ」
「それはまた唐突な話だね」
シュウはその先を急かさない。「何故だ」「どうしてだ」「その先はどうするんだ」などと合いの手も入れてこない。こちらがちゃんと話を整理して完結するまで待っていてくれる。そこら辺が、シュウの心地よいところなんだよね。
「この間ね、九条じいがそろそろお暇をいただきたいと言ってきてね。そういえば今回の料亭紫水にも、ずいぶん長くいたな~ってあらためて気がついた」
「うん」
「それでね、僕にしてはずいぶん考えたんだよね。なかなか決めかねちゃってて。でも、やっと決心がついた」
「わかった、冬里が決めたんなら間違いないんだろう」
「あたりまえじゃない?それでね、その先があるんだけど」
「『はるぶすと』に来るんなら、歓迎させて貰うよ」
「ええーなんでわかるの? 驚かせようと思ったのにー。あ、でもこれはわかんないでしょ。僕がそっちへ行くんなら由利香も心おきなくイギリスへ行けるじゃない」
「そうして冬里は由利香さんとハルに会いに、イギリスへ行くんだよね?」
すると遠くで夏樹のさわがしい声がした。
「えー?伊織ずるいッスよ~。俺もイギリス行きたーい」
相変わらずだね。でもちょうどいいや、この際夏樹にも本名宣言しておこう。
「あ、そうだ。ちょっと夏樹に変わってくれる?」
「いいけど?」
ガサガサと音がして、シュウの穏やかな声から夏樹の大きな声へと入れ替わる。
「伊織ずるーい、俺も一緒にイギリスへ行きたいっすよ~」
「あのね夏樹。さっき由利香にも言ったんだけど、もう僕のこと本名で呼んでくれる?」
「へっ?」
「冬里ってね」
「え、いいの?」
「うん」
すると夏樹はすごく嬉しそうな声で言った。
「うおー、やったー!じつはシュウさんが冬里って呼んでるの聞いてて、ちょっとうらやましかったんすよねー。へへー嬉しい」
「そう、ありがとう。それでさ、今日は僕がふたりに本名で呼んでいいって言った記念日なんだって。由利香が言ってたよ」
「あ」
「由利香って面白いよね」
「ははっそうすね。でも何か重要なこと話していたような…あー!思い出した!イギリスへ行くって冬里ずるい、ずるいー」
「そんなことは僕、ひとことも言ってないよ。シュウが勝手に言っただけだもん」
ふふーんと笑うと、夏樹はうっと黙ってしまった。
そうだ、夏樹なら何か知ってるかもしれない。僕はちょっと声を落として聞いてみた。
「ねえ、シュウは今そばにいる?」
「え?えーっと、今はキッチンにいますけど」
「じゃあさ、ちょっとシュウに聞かれたくない話だから、出来るだけキッチンから離れて答えてくれる?」
夏樹がええっ、と小さな声で言う。
きっと青くなってるよ。夏樹って素直で可愛いんだもん、からかいたくなっちゃうよねー。夏樹はどこかへ移動しているようだったけど、ややあって。
「えーと、ベランダへ出ましたよ。なんなんすか?」
「由利香に聞いたんだけど、この前アレンにそっくりなシェフに会ったんだって?」
「えー、いおり…じゃなくて冬里もアレンのこと知ってるんすか?そうなんすよー、もうびっくり。でね、でね。俺なんてはじめはただ嬉しいだけだったんすけど…やっぱシュウさんは」
「なにかあった?」
「ええ、シュウさんが初代と撮った写真があって、それを本人じゃなくて子孫にでもいいから、探し出して渡してくれって、初代が遺言してあったんです」
「それで写真を貰ったんだね?」
「ええ、でね、あとで思い返すと、シュウさんも俺も、辞めるなんて言えば力づくで引き留められるのがわかってたから、お屋敷を出るときは本当に誰にも言わず、ほとんど夜逃げ同然だったんですよ。だから初代は俺たちがいなくなったあと、シュウさんを血眼になって探し回ったって言うし。シュウさんは初代に申し訳なくて仕方がなかったんじゃないかな。おまけに俺たちがお屋敷を後にしたその前日に、初代は新しいレシピを思いついていたらしくて、それも一緒に入ってました」
「ああ、アレンは悔しかっただろうね」
「そうっす、それがわかるから余計にシュウさんは哀しくってあんなに…」
夏樹は何か思い出したんだろう。ちょっと言葉がとぎれてしまった。それで謎がとけた。あのときあんなにわかるほどシュウが泣いていた理由がね。
スンっと鼻をすする音がしたかと思うと、びっくりしたようなシュウの声が聞こえてきた。
「夏樹、こんなところでなにを? あ…どうしたんだい、冬里がまた何か言ったの?」
「いえ!違いますよー。なんだか暑くて外へ出たら今度は寒くなって、すんません!」
ちょっとー。いくら僕がよく夏樹にちょっかい出すからって、泣かせるようなことはしないよ、失礼なシュウ。
「ちょっとシュウと替わって」
無言の夏樹が、ガサガサと電話を渡すような音がして、
「どうしたんだい」とシュウの声、僕は意地悪く言ってやった。
「アレンがシュウのことをどんなに大事に思っていたか聞いてたの、まったく失礼だね」
その瞬間、すごく揺れた。
あ、やばいな。
これはしばらくアレンのことは口に出さない方がいいみたいだ。僕は急いで話題を変える。
「ということで、これからのこと色々決まったら連絡するね。そんなに簡単な事柄じゃないから、たぶん何ヶ月かはかかると思うけど」
「……」
「シューウ?」
「あ、ああ…すまない。よろしく頼むよ。夏樹ともう話はすんだ?」
「うん、それじゃあね。」
電話を切ってからしまった!と思った。こっそり聞いたのに、けっきょくばらしちゃった。ごめんね夏樹。
さあーって、と。
『はるぶすと』の方の了解はこれで取ったから大丈夫。
あとはどのタイミングで十三代目に店を譲るかだけ。店を留守にした二週間のあいだ、彼は立派に〈料亭紫水〉をまわしてくれていた。
紫水院 総一郎。それが彼の名前。
名前からわかると思うけど、彼はこの料亭の直系子孫なんだよね。厳密に言えば僕の好きだった七代目の。七代目ってね、考え方が当時の日本人離れしているというか、とにかくぶっ飛んでる人でね。
自分が認めない限り、たとえ血のつながりがあっても決して代を譲るような真似はしなかった。そしてそれを料亭の伝統として確立させた人なんだよね。しかも当時の京都で。だから〈料亭紫水〉はこんなに高い水準のままで今に続いているんだろうけど。
その七代目の気質を、彼はすごく色濃く受け継いでいる。僕が言うんだから間違いないよ。たまに七代目と話してるような気分になるときがあるんだもん。でも顔立ちはぜんぜん違うんだよ。百年人の遺伝子って言うのも面白いものだね。
今日も僕は十三代目に店のほとんどを任せて、別室で九条じいに今後の話をしていた。
「九条、実はね、僕もそろそろ店を辞めようかと思っているんだけど」
「伊織さま…」
「そんな顔しないでよ、九条のせいじゃないからさ。総一郎はもう充分店を背負っていけるじゃない」
「それはこの間、伊織さまがお留守にされた際は、立派につとめを果たされていましたから」
「でしょ?二週間って結構長いよね。でもその間、泣き言一つ言わずにいたんだよね」
「はい」
「それなら大丈夫。それにさ、僕にとっての九条みたいな、とってもよく出来た補佐もついてるし」
「はい。私も、及ばずながら中大路の教育をお手伝いさせていただきましたので、その有能さは重々承知しております」
中大路は僕にとっての九条じいみたいに、総一郎を陰になり日向になり支えてくれている存在だ。でも歳は若いんだよ。
と言うのは、九条家と中大路家は親戚筋にあたり、中大路はその性格の良さと有能さを九条じいに買われて、子供の頃から総一郎の遊び相手、兼、教育係だったんだ。だから総一郎は中大路のことを本当の身内のように信頼している。
二人が今後もタッグを組んでいけば〈料亭紫水〉の将来は安泰だね。
とはいえ、すべてを任せるためには、教えなきゃならない事がまだ山のようにある。
「じゃあ、九条と僕の最後の仕事。総一郎が立派な料亭の当主になるプロジェクト、始動だよ」
「はい、心して勤めさせていただきます」