夏樹のむかしばなし
ああ良かった、じいちゃんに楽させてやれる~。と、ホッとしていたら。
コンコン…と遠慮がちなノックの音がした…。
「夏樹、起きてる?」
あれ?由利香さんの声だ。ってことは今のは夢か。
俺はごそごそと布団を這い出して、うーんと伸びをした。
「入るわよ」
と、由利香さんが声をかけてからドアを開ける。
「どうしたの?なかなか起きてこないから心配してたんだけど…」
そう言って俺のおでこに手をあてる。
「うーん、熱はないようだから、風邪ではないわね」
「あ、大丈夫っすよ。なんか夢見てて」
「夢?」
「はい、なんか、なつかしい夢…」
そう言ってぼんやりしてたら、由利香さんはふっと笑って、
「とにかく調子が悪いんじゃなくて良かった。もう仕込みの時間なんだけど珍しく夏樹起きてこないから、鞍馬くんが具合が悪いのかなって言って、寝かせておくようにわれたのよね。寝てればなんでも治るからって。そういうもんなの?」
「ああーそうっすね。俺たちほとんど病気はしないんですけど。もし何かあっても、睡眠で治りますね」
「へえー。身体的な構造が違うから一概には言えないけど…。でも私たちも本当は見習わなきゃならないのかもね」
由利香さんはしみじみとそう言ってから、
「じゃあ、鞍馬くんにはちょっと遅れるからって言っておくわ。店の準備は鞍馬くん一人でも大丈夫だって言ってたから、それは全然平気なんだけど。私は貴方たちの身体のこととか、よくわからないから心配で来ちゃったの。でも、なんともなくて良かった。あ、朝ごはんもご用意しておりますので。なーんて鞍馬くんが…だけどね」
おどけて笑いながら、由利香さんは部屋を出て行った。
俺はしばらく、なんで今頃あんな夢を見たんだろうと考えていたが、さっぱりわからないので、あきらめてシャワーを浴びに浴室へと向かったのだった。
「遅れてすんません」
「夏樹、大丈夫かい?」
「はい」
「なんだかなつかしい夢を見ていたって聞いたけど?」
「あ、そうなんすよ。俺が出来上がったのってドイツだったんですけど、その頃の夢を見てました」
「へえ、そう言えば、夏樹の最初は聞いたことがなかったね。話してみる?」
シュウさんがそう言ってくれたので、俺はちょっと嬉しくなって、料理の下ごしらえをしながらぽつぽつとあの頃のことを話し出した。ハインツじいちゃんに拾ってもらった話をしたあと、そう言えばと思い出して言った。
「俺が最初に雇って貰ったレストランも、Herbstって名前だったんすよねー」
「そうなの?それはものすごい偶然だね」
「ええ、あっそうだ!それで俺、初めて★市に来たとき『はるぶすと』って名前にひかれてここに入ったんですよ」
「ああ…」
シュウさんはなつかしそうに笑う。
「先代ー!と、飛びつかれそうになって思わずよけてしまったね」
「だって、ほんっとに嬉しかったんですもん」
俺はへへっと笑って続きを話し出した。
近所の料理自慢な奥さんのおかげで、いちおうひととおりのドイツ家庭料理は作れるようになっていたんだけど、やっぱり仕事はそう甘くない。
俺の担当は最初、皿洗いとジャガイモの皮むきだった。
そんな仕事でも俺ってちっともイヤじゃないんだよね。お金を稼いでじいちゃんに楽させてあげられるのが嬉しくてさ。
ドイツってところはあんまり食べるものに凝らないんだけど、Herbstはけっこういろんな種類の料理を出す店で、俺が料理にはまったのもその頃だ。
同僚のひとりが料理上手で、色々教えてもらったんだよね。
職人の世界は、どんなことでもそうかもしれないけど、料理にもゴールがない。突き詰めればつきつめていくほど面白くなっていく。そうこうしているうちに、どんどん料理の腕をあげていった俺はHerbstでほとんどの料理を任されるようになった。
そんなある日、突然じいちゃんに聞かれたんだ。
「ナツキ、もう記憶は戻ったのか?」
「え?どうして」
「おまえさんがここへ来て、もうずいぶんたつしな。それにどうもおまえは腕のいい料理人になれるようだから、わしみたいなじいさんの面倒ばかり見ずに、そろそろ自分の事を考えろ」
「自分の事って」
「家事が得意で教養のある、良い家柄の娘と家庭を持つべきだ」
「やだよ」
「なぜだ?」
「俺が今ここにいられるのはじいちゃんのおかげだもん。それにまだ記憶も戻ってないよ。たぶんずっーと戻らないよ」
「ナツキ」
「それにさ、俺いま料理覚えるのが楽しくて楽しくて、他のこと考えられないもん。お願いします。どうかここにいさせて下さい」
俺はそう言って、深々と頭を下げた。じいちゃんはちょっと考え込んでいたが、しばらくするとやれやれと言う顔をして言ってくれた。
「わかったよ。しようのない奴じゃ」
「ありがとうございます!じいちゃん大好き!」
俺は思いきりじいちゃんに抱きついた。じいちゃんは、
「こら!離せ」
と言いながらも嬉しそうにしてくれてたな。
「でも、そんな暮らしも長くは続かなかったんすよねー」
「どうして?まさか…」
「いえいえ、じいちゃんは元気ですっごく長生きしたと聞いてます」
「それならどうして?」
「料理を覚えるのが面白いって俺が言ったもんだから、ハインツじいちゃんてば勝手に修業先を決めちまったんすよー。あの頃のドイツは、男はある程度の歳になると修行に出されてましたからね。でも、俺が修行に行く条件として、じいちゃんが身内の所に身を寄せることって言ったんです」
「誰かいたのかい」
「ええ、ちょっと離れたところに嫁いだ娘さんが。なので俺はなんとか納得して修業先へ行きました。娘さんのご主人って言うのがこれまた良い人で、実は前々からじいちゃんを自分たちのうちへ呼ぼうと何度も言っていたんですって。それが実現したから、すごく喜んでじいちゃんを大事にしてくれたみたいですよ。じいちゃんも幸せだったみたいっす。そして、今の俺がいるのはハインツじいちゃんのおかげなんすよ」
「そう、最初から良い人に出会っていたんだね。たぶんそのあとしばらくしてから、私のいるお屋敷へ来たんだったよね」
ああそうだった。料理の修業をするうちにどんどん大きなお屋敷を紹介されて、そのあとは料理で道場破りみたいなこともしてヨーロッパを渡り歩き、たどり着いたのがシュウさんのいる領主邸だったんだよな、なっつかしいー。
とか思っているうちに開店の時間になったようだ。由利香さんがクローズの札を外しながら店へ入ってきた。