1.ふたりの距離
『今帰った。鶏の手羽元と厚揚げは買ってある。大根と生姜、忘れんな』
俊介のメールはいつだって上から目線だ。
子供のころから、ずっと変わっていない。スマホの画面に、みちるのため息がかかる。
『今、八百初ストア。もうすぐ行く』
返信すると、買い物かごの中身とメモをもう一度突き合わせた。
ごぼう、ねぎ、まいたけ、ちくわぶ、糸こんにゃく。キャベツにわけぎに、大根、生姜。
(よし、入ってる。忘れ物なし)
重いかごを、どすん、とレジに出すと、
「毎度」
白髪交じりの店主が人のいい顔で挨拶する。
みちるが幼いころからあるこの店は、元はふつうの八百屋だったが、長男が跡を継いだのを機に店舗を改装した。パンや卵、カレー粉まで売る小さなスーパーもどきの店で、肉、魚以外だいたいのものは揃う。みちるの家族構成や両親の職業まで知っている店主は、ちらり、とみちるのスーツ姿を眺めるとうんうん、と頷いた。
「みちるちゃん、金曜はいつもごはん当番かい? 会社から帰って家族の分まで夕飯の支度するなんざ、えらいね!」
「えへへ」
みちるは曖昧に笑ってエコバッグを出した。店主のいうところの『家族の分』ではないが、説明するとかえってややこしいことになる。
「そういえばさっき、俊介くんがそこ通ってったな」
どきっ。
ぴっ、ぴっ、とレジを打つ音がして、話す間もエコバッグが膨らんでいく。
「そうですか。あ、今日は透ちゃんは?」
何とか話題を変えようと試みる。透、というのが八百初の長男だ。
「ああ、配達に行ってる。みちるちゃんと俊介くんは透の2級下だっけ?」
「あ、はい」
「俊介くんのご両親、北海道にいるんだよね。俊介くん、今あの家にひとりなんだろう?」
「そう……みたいですね」
(これだからご近所の商店街は)
ひやひやしながら出した黒い無骨な財布の中には、1000円札が3枚。そこから代金を払う。店主はおつりとレシートを手渡すと、みちるが財布をしまうのを見計らってエコバッグの持ち手を握らせた。
「大丈夫かい、重いから気をつけて。毎度どうも!」
梶谷みちると笹野俊介は、幼稚園からの幼なじみである。
同級生で、高校までずっと一緒の腐れ縁。父親同士が同じ会社に勤めており、母親同士も仲がいいことから、大学が離れて以降も何かしらの交流は続いていた。
1年半前、俊介の父親の転勤が決まり、母親もそれについていくことになった。彼には姉もいたがすでに結婚して家を出ている。俊介は大学の卒業を控え、かねてから希望していた出版社に就職が決まっていた。俊介の両親は、みちるの家族に『俊介をよろしく頼みます』と言って赴任先に旅立った。かくして俊介は実家にひとり、残されたのである。
以来みちるの母は何かと俊介に声をかけ、総菜のお裾分けをしたりする。俊介は基本人見知りだが、慣れるとその懐に入るのがうまかった。
『このあいだの煮物、おいしかったです。やっぱり誰かに作ってもらうっていいもんですね』
絶妙に母性本能をくすぐるものだから、ついついみちるの母もその気になる。背は高いがひょろりとやせぎすで好き嫌いのない俊介は、母にとって養い甲斐があるのだろう。おかげでみちるは、鍋やタッパーを持って母と俊介の間を頻繁に行き来する羽目になった。
しかし大人になってから彼と会うのは何とも面映い。みちるにとって、俊介のイメージはいまだに子供のころのままだ。よく本を読み成績もいいが、我が強くて自分のものは絶対に人に貸さないけちん坊。小さいころを知っているだけに、男っぽい顎の線や長い節くれだった指に違和感があった。照れくさくて、会うたび憎まれ口を叩いてしまう。
彼がひとり暮らしの不便を嘆いたときも、
「自由でいいじゃない。外泊したって何も言われないし、女の子連れ込み放題だし」
などと、つい下世話な返事をした。言われた俊介は不機嫌そうに眉を寄せた。
「嫌みか。連れ込む女なんていねえっつーの。お前こそ、どうなんだよ」
その返事にみちるはほっとした。
そう、ほっとしたのだ。
それ以降も俊介のもとに総菜をもって通う日々は続いた。共働きの梶谷家では食事は早く帰った者が作ることになっている。母親に言われればみちるの作った料理でもそれと知らせずに持って行くこともあったが、俊介はなぜかすぐに分かった。
「こないだのロールキャベツ、みちるだろ」
「どうして?」
「おばさんと巻き方が違う」
確かに。
母のロールキャベツはかんぴょうでしばる。しかしみちるは面倒くさがりなので、くるくる巻いた端がべらべらしているところを、ぐいぐいとタネのほうへ押し込んで終了。それでもきっちり間を詰めて煮れば、崩れることはないのだ。
「な?」
得意気な俊介の顔を見て、みちるはぐうの音も出なかった。
以来、みちるはばれないよう気を遣って料理をしているつもりだったが、ことごとく当てられては臍を噛む。
「別に、まずいって言ってるわけじゃない」
俊介は愉快そうに笑う。
「俺、みちるの『汁物シリーズ』好きだけど。今度、でっかい鍋にたっぷり作ってって。汁物なら何日も食えるじゃん」
――好きだけど。
その言葉にどきっ、としたのを知られたくなくて、慌てて言葉を繋いだ。
「そんな簡単に言うけど、大変じゃん。材料とか」
「材料費くらい俺が持つに決まってんだろ。そんなケチな男に見えんのか?」
「えっと、鍋もね、IHだから大きいったって限度があるし」
「は? うちはガスだぜ? お袋が町内会の炊き出しで使ったでっかい寸胴鍋もあるから」
そのとき初めて、互いの相違に気が付いた。
――ちょっと、待って。『うち』?
「今度の週末あたりどうだ? どうせお前暇だろ。ついでにメシ食ってけば」
(やっぱりそういうことかー!)
みちるは心の中で頭を抱えながら、さらりと提案する彼の顔を盗み見る。
(ふたりっきりで家ごはん、て! どういうつもりよ!)
しかし俊介はそんなみちるの葛藤などまったく気にも止めていない様子だ。
「あ? 都合悪けりゃ、来週でもいいぞ?」
邪気のなさそうな表情で腕組みをしたまま、みちるが答えるのを待っている。
これは、まずい。
即答しなければかえって意識していると思われる。これからも何かとつきあいのあるご近所で、いやな空気になるのはごめんだ。
(ええい!)
「わかった。週末、金曜の夕飯ね!」
とんとん拍子に話は決まり、金曜日、気付けば彼の家で寸胴鍋いっぱいのミネストローネを作らされていた。
「ごちそうさん。じゃ、またよろしく」
「え?」
以来予定のない金曜は、なぜか彼の家で具だくさんのスープを作ることになったみちるなのだった。
そして今日も今日とて、ねぎやごぼうがはみ出した大きなエコバッグを下げ彼の家へと急ぐ。
商店街を抜けようとしたとき、
「よう、みちる!」
紺色の長のれんの影から声を掛けたのは、同級生の太朗である。彼は豆腐を商う成田屋の3代目だ。
「あ、タロちゃん」
太朗はみちるのエコバッグを見てふふん、と笑う。
「いつも金曜は大荷物だな」
「……週末だからね」
ぎくりとしたが、素知らぬ顔で返した。
「さっき、俊介が買ってったぞ。厚揚げ2枚。鳥政の袋も持ってたな」
再び、ぎくり。
(まったく、ここの商店街ときたら! プライバシーってもんがないの?)
憤慨しつつ、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
「ふうん、そう」
とぼけるみちるに太朗はずい、と一歩近づいた。
「……お前らさ、いつも週末っていうと早く帰ってきて、商店街で買い物してくよな。お前は大抵八百初。少し先に帰ってくる俊介が行くのは、うちか、魚勝か、近藤肉屋か、鳥政」
思わず言葉に詰まる。
「ろくに料理も知らねえひとり暮らしの俊介が、ご苦労なこった。他の奴の目はごまかせても、俺の目は節穴じゃねえぞ」
太朗の芝居がかった口調は亡くなった祖父に生き写しだ。
「……何のこと?」
あくまでしらを切ろうとするが、太朗はずい、と身を乗り出した。
「俺はお前らと20年以上の付き合いだ。おまけに商売柄、この通りを毎日朝から晩までじっくり眺めてるんだぜ? どの客が銭を落としてくれそうか、持ってる買い物袋をチェックしながらな。こちとら年季が入ってんだ。なめてもらっちゃあ、困る」
「あ、あのね! 私は頼まれて料理を作ってるだけであって! それ以上のことは何も!」
「ふーん。やっぱメシ作りに行ってんだ」
口車に乗せられた、と気付いても後の祭りだ。
「みちるが俊介の家で、ねえ。事の真偽はともかく、これを皆に話したら……どう思うだろうなあ?」
太朗は安いドラマの悪役のように片頬を上げて笑みを浮かべる。
「ぐっ」
悔しいが、ご近所にあらぬ噂を立てられては生きてゆけない。
「タロちゃん! 後生だから黙ってて! お願い!」
すがるみちるの前で、太朗はビニールの手袋を嵌めると水槽にそっと手を入れ、中に泳いでいた豆腐を二丁掬った。パックに詰めると手早くビニール袋に包み、目の前に差し出す。
「?」
「今日はこの2丁で終いなんだよ。買ってけ。そしたら黙っててやる」
みちるは頭を抱えた。
(そうだった。タロちゃんは、小学校のころからこういう駆け引きが得意だったんだ)
「毎度ー」
(毎度、じゃないよ! もう!)
帰りを急ぐみちるの手には、2丁の豆腐を入れた成田屋の屋号が入ったレジ袋がぶら下がっていた。
「来たわよ」
「ん」
呼び鈴に応えてドアを開けた俊介は、みちるの手に持った成田屋の袋を見て顔をしかめた。
「何で、成田屋」
「『これで終いだから買ってけ』って。残りの豆腐押しつけられた」
「俺、厚揚げ買ったってメールしたろ?」
「したけど」
軽く舌打ちをして俊介はみちるの荷物を取り上げ先を歩く。
(もしかして、俊介もタロちゃんから何か言われたのかな)
不機嫌そうな彼の背中を眺めながら、あとに続いた。
Tシャツの上に青いチェックのネルシャツを羽織っただけのラフなスタイル。細身なのに、肩幅はしっかりとある。ジーンズに包まれた脚もいつの間にあんなに伸びたんだろう。長身の後ろ姿に子供の頃の面影はない。
俊介はのれんを頭で割ってキッチンに入ると、食卓のテーブルにみちるのエコバッグをどさっと下ろした。昔ながらのこぢんまりしたダイニングキッチンで、中央の食卓に背を向けて料理を作るタイプだ。
「ありがと」
俊介はみちるの礼に軽く頷くと、食卓に座り時代小説を読み始める。居間のソファーでくつろいでいてもいいのに、料理を待つとき彼はいつもそのスタイルだ。後ろ姿を見られているようで落ち着かないが、たまに振り返っても彼は読書に没頭している。みちるはエコバッグから食材を取り出しながらそっと彼の顔を覗き見た。前髪が落ちて、影を作る。長い睫毛、意志の強そうな鼻筋、柔らかそうな唇。そっと視線でなぞっていると、
「ん?」
俊介が顔を上げた。切れ長の目が、みちるを射貫く。
「何でも、ない」
(見とれてたなんて、言えるわけないし)
そう、悔しいことに、俊介はなかなかの男前に成長していたのである。
つい先日、その彼の容姿が効を奏した事件があった。
とある週末、俊介の家でごはんを食べているとき、ひょんな会話から恋人がいるいないの話に発展した。しまいには俊介に、
「俺と毎週のようにこんなことしてるようじゃ、男なんかいないに決まってる」
と挑発され、うっかり、
「恋人こそいないけど、会社でしつこい男に迫られて困っているくらいなんだから!」
と漏らしてしまった。
「何だよ、それ」
俊介は眉を上げ、不快を表す。会社の違う彼に言ってもどうにもならないので黙っていると、
「気になるだろ。おら、さっさと話せ」
椅子の脚を蹴飛ばされ、事情を説明せざるを得なくなった。
概要はこうだ。
ある日みちるは、隣の課の松本という男性とコピー室で一緒になった。彼がコピー機に書類を忘れているのに気付き、書類に残っていた課と名前を頼りに、彼の元に届けた。大変感謝された揚げ句、
『ひと目惚れでした。これって運命ですよね』
などとその場で交際を申し込まれてしまう。あとになって、みちると仲のいい同期の友人紗世が『そいつ、書類わざと忘れたんだよ』と言ったが、確かに松本のアプローチはそう勘ぐられるほど電光石火の早業だった。
一方のみちるは俊介のことが気になっているところで、その男はまったく眼中にない。会ってすぐに交際を申し込むところも何となく信用できなくて、丁重にお断りした。しかし松本はどこが気に入ったのか、いくら断ってもみちるにアタックを繰り返す。
『恋人がいないなら、お試しで、いや、友達からでいいんだ』
ロビーで帰りを待ち伏せしたり、彼の手口はだんだん強引になってくる。『友達から』などと安請け合いしたらどうなることか。怖くなったみちるはなるべく紗世と一緒に帰るようにしていた。
「ふうん」
話を聞いて、俊介は真面目な顔で唸る。
「とりあえず、ふたりきりになったりするなよ?」
意外だった。
どうせ無責任におもしろがったりするだけなのだろう、と思っていたから。
「……うん、わかった」
話はそれで終わったものと思っていた。
週明けの月曜日。
仕事が終わり帰社しようとしていた矢先、みちるあてに受付から内線電話が入っているという。
『唐沢出版の笹野俊介さんという方がお待ちです』
「はあっ?」
ぎょっとしてロビーに向かうと、そこにいたのは、本当に俊介だった。
(うわ! スーツ!)
会社帰りなのだから当たり前なのだろうが、初めて見るその姿に目を見張った。
細身で長身の身体にぴたりと添う、細い織りが入った濃紺のスーツ。ごく薄い菫色のシャツに繊細な柄のタイを合わせて。高名な作家とも会うことがあるという一流出版社勤務の彼は、みちるの会社の誰よりぐっと垢抜けていた。通り過ぎる女子社員がちらちらと彼のほうを見る。壁により掛かって、ごついシルバーの時計をちらりと眺める仕草もどことなく色っぽい。自分を待っているのかと思えば、みちるの体温は静かに上がった。
「よ」
目が合うと、俊介は片手を挙げゆっくり歩み寄って来る。ちらりとロビーを見渡すと、案の定みちるにご執心の松本は穴の開くほどこちらを見ていた。
「あ、あの、俊介」
焦るみちるに、俊介は耳元で囁く。
「例の男、いる?」
「あっち、観葉植物の影」
その言葉を聞くと、俊介はふっ、と微笑みを向けた。まるで恋人にするような甘い表情。松本に見せつけているのだと分かってはいたが、じっと眼差しを注がれて動悸が止まらない。
(何なのよ、こいつ、凶悪!)
「その格好ってことは、もう帰れるんだろ? 迎えに来た」
そう言って、自然な仕草でみちるの肩を抱いた。
「今夜も、うちにくる?」
俊介の声が思いの外ロビーに響いて、みちるは慌てた。
「何言ってんの! 金曜に行ったばっかでしょ!」
本気で答えてから、しまった、と思うが、時すでに遅し。
「……先週は、先週だろ。いつ来たって、俺はいいんだぜ?」
みちるは真っ赤になって口をぱくぱくさせるだけ。
(やめてよー! 皆さん、誤解です! 私は単なるお食事係ですよー!)
心の悲鳴も空しく、周囲の視線がどんどん集まる。その野次馬の中には、いつも一緒に帰ってくれる紗世もいた。
(紗世ってば、何、ピースとかしてんのよ! やばい、あれうちの課の課長!)
もうすぐロビーを出ようというとき、みちるのスマホが震える。紗世からのメールだった。
『あんたのこと狙ってる松本くん、がっくり肩を落としてたよw ところでそのイケメンいったい誰? 詳細を求む!』
「まずい……」
俊介は青ざめるみちるの肩を抱いたまま、外に出る。地下鉄の駅に続く階段の近くで、みちるは彼を振り解き怒鳴った。
「俊介! やり過ぎ! 明日から会社行けないじゃない!」
「心外だな。一張羅着て出向いてやったのに」
俊介はしれっと言ってのける。
「だからって、あんな、あんな……」
真っ赤な顔で見つめるみちるに、俊介は『ばーか』と笑った。
「ゆでだこみてえ。まさか、俺に本気になってんじゃねえだろうな?」
ぴん、と指で額を弾かれる。
「誰が!」
憎まれ口を叩きながら、彼の顔を仰ぎ見た。
(どういうつもりで来てくれたんだろう。一宿一飯ならぬ、週末一飯の恩を返してくれただけ?)
それでも忙しい月曜日に、わざわざ会社まで足を運んでくれたのは紛れもない事実。少しは大事に思ってくれているのがわかって、喜びがこみ上げる。
——本気に、なっちゃうよ。
「ま、とりあえず、ありがと、とだけは言っとく! 仕方ないから、夕ごはんもおごるわ」
みちるの天の邪鬼な台詞に、俊介は盛大に吹き出す。
「夕飯ならマジにうち来いよ。お前の作った根菜のスープ、今日辺り食べ頃だから」
「……うん」
以来みちるは俊介に絶大な信頼を置くようになり、彼が好きだという気持ちはどんどん加速していった。